第19話 凶刃

 暗くなりかけたころ、半助と彦六は銀水亭に来ていた。以前からとっていた小部屋につくと、突然、半助が彦六に頭を下げた。

「彦六、わざわざ銀水亭まで連れてきておいて済まねえが…」

 すると彦六は、にやっと笑っていった。

「わかってますよ、席を外せっていうんでしょ。もうすぐカグラさんが来ますからね」

 すると半助は自分のおでこを扇子で叩きながら笑った。

「はは、心配するだけ無駄か、彦六さんは全部お見通しだな、ハハハ」

「じゃあ、ごゆっくり。頑張ってくださいね。私は店の手伝いをしてますから」

 彦六はそういって、厨房の銀二兄さんに手伝いを申し出た。すると兄さんは大喜びだった。

「本当かい? 助かるよ。なぜだか今日は離れから、小部屋まで予約は多くてどうしようかと思っていたんだ。悪いけど、離れのほうを頼めるかな?」

「もちろんです。頑張ります」

「あら本当、助かるわ。彦六さんなら間違いないしね」

 お夕さんも大喜び、さっそく彦六は材料を持って離れに向かった。

 その頃、隠密の藤巻は亀太郎と一緒に、半助の隣の部屋で離れを見張っていた。

「おお、今度は京都の力士と一緒に、また正体のわからないのが入って来たぞ」

 亀太郎がつぶやくと、藤巻が首をかしげた。

「変装した長州藩士と水戸藩の幕臣、そして力士と謎の男か、さっぱり目的がつかめん。何をしようというのだろうか?」

 すると亀太郎が慎重に言った。

「あの謎の男は所作から見て、公家の関係じゃないのか? 京都の力士を連れているしな。そうだとするとなおさらわからんなあ」

 だが、その一番最後に入って行った人影をみて、今度は藤巻が驚いた。

「あれ? ありゃあ、同じ長屋の彦六さんじゃあねえか。よりによって離れの担当か。面倒くさいことになっているなあ」

 その頃銀水亭の表から連れの門弟を従えて店の中を覗き込んだのは、ユリだった。

「あのう、すいませんが…」

「はいいらっしゃい。え、彦六さんに伝えたいことがあるんですって?」

「用件がすんだら、すぐに帰りますので…。」

 でも、迎えに出たお夕はその様子から何かあるなと睨んで店に入れたのだった。

「かまわないから、お連れの方とそこに座っていてね。彦六さんは離れに行ってしばらくは帰ってこれないから、そこで待っていてね。今、つまみをもってくるから、そこでゆっくりしていていいのよ」

 ユリたちは店の一番奥の小部屋や厨房に近い席に案内された。すぐにお夕は枝豆や手長エビのから揚げを持ってきた。ついてきた橘は、店の中をざっと見まわしたが、そこには密会の顔ぶれは一人も見かけなかった。

「お嬢さん、彦六さんが行っている、離れで密談が行われている確率が高いですね。でも今何も騒ぎも起きていないし、案外何も起きなくて、うまくいってるんじゃないですかね」

「そうだといいけれど。平気かしら彦六さんは…」


 その頃彦六は困惑していた。

「ええっと、何をお出ししましょう」

「…」

 彦六には詳しいことは知らされていなかったが、少なくてもみんながお互いを警戒しているのはよくわかった。まとめ役となっている蘭学者が場を盛り上げようとするのだが、実際にこの顔ぶれは初対面らしく、凄い緊張感があって、注文すら決まらないのだ。長州、公家、水戸藩の幕臣とどこが中心になって話をまとめるのか、その辺で話も止まっていた。ただ一つの頼みは京都の公家が連れてきた大嵐山だった。

「ああ、腹がへったでごわす。彦六殿、そちらで何かだしていただけないでしょうかね」

 もう、いちいち注文をきいている時間はないと、彦六も決断した。そして笑顔で答えた。

「じゃあこれから、銀水亭の名物をどんどん出しますよ。ご飯と漬物はおかわりし放題ですから、どんどん言ってください!」

 彦六は目の前で早速料理を始めた。まずは戻りガツオのたたき、手長エビのから揚げ、ハマグリの網焼き、ハゼ・エビ・アナゴの天ぷら、そしてウナギのかば焼きだ。

「おぬし、若いのに手際がいいな」

 彦六の腕は、銀二兄さんに仕込まれ、さらに上達していて、多彩な技も身についていた。

「ほう、これは香ばしい。腹が減って来たな」

「へえ、これが江戸の名物ってわけか…」

 いい匂いに誘われてどんどん手が伸びてきて、だんだん会話も弾んできた。

「はいはい、お次はさっぱりしじみ汁ですよ」

 蘭学者はほっと息をついて、彦六に大感謝だ。

 やっとみんな自己紹介がてら、自分の意見を話し始めた。この約九年後、ペリーが来航し、通商条約が結ばれ鎖国は終わる。それぞれ敵対したり、同盟を組んだり、裏でつながったりするのだが、今、こうして同じうまいものを食って話をすれば、幕府を憂う、同じ人間同士だった。


 その頃、半助のいる小部屋の戸が少し開いた。すぐに入ってこない人影に、半助はやさしく声をかけた。

「ほらほら勿体つけないで、入ってこいよ、カグラ!」

 カグラは大きく息をして、まるで初めて出かけてきた十代の娘のようにしずしずと入ってきた。半助はいつもの陽気さで温かくカグラを迎えた。

「カグラ、今夜は一段ときれいじゃねえか。え?」

 その言葉を聞くと、カグラはやっと笑って半助の前に座った。

「…まったく手紙なんてもらったのは初めてだよ。中を読んだらこんなお高い銀水亭にご招待じゃないか。それでさ、店に来たら半助さんはどこにもきちゃいない、心細くなってお店の人に聞いたら小部屋がとってあるっていうからさあ、今戸を開けたら半助さんがいつも通り笑っていたから、やっと安心してさ…ってあたし、何を馬鹿なことをぐだぐだ言ってるんだろう…。ばかでごめんね」

「はは、おまえほど賢い女はなかなかいねえよ」

 するとそこに酒とごちそうが運ばれてきた。半助は酒をちびちびやりながら、話を始めた。

「実はな、今日の朝一番で他には誰も入れずに菊次郎親方と俺は、寅吉とあって話をつけてきた。寅吉は勝負に勝つために大金を注ぎ込み、負けちまったんで、今は大変なことになってるそうだ。親方とおれは今まで通り、江戸で親方の下で働けって言ったんだが、奴は潔くしばらく江戸を離れるらしい。いくつかの息のかかった見世物を連れてな。それで…」

「それで…?」

「蛇地獄のカグラたちはどうすると聞いたら、あいつらのおかげで負けたんで、一緒には連れていけない、好きなようにしてくれとのことだった。そこでまず一つ、娘たちはこちらでまとめて面倒を見る。そしてそのまとめ役をカグラにやってもらいたいんだ」

「え、本当かい? 信じていいのかい? またあの家にみんなで住んでいいのかい?」

「ああ、今まで通りだ。でもカグラにはもしかしたらあの家を出てもらうようになるかもしれない」

「そりゃ、どういうことだい、あたしがまとめ役じゃなかったのかい?」

「…いや、そうじゃなくて、もしよかったら、俺と所帯を持ってほしいんだ、カグラ。ずーっと前から、おまえに惚れていたんだよ」

「半助さん…、胸が張り裂けそうにうれしいよ。でもね…私でいいのかい?」

「ああ、こっちからお願いしてるのさ」

「小さい時に大病して片目をなくして、化け物、化け物って石ぶつけられたりしたんだよ」

「つらかったな」

「父が病気して困っていたら、寅吉がやってきて、小屋に売られて…」

「苦労したんだよな」

「そしたら獣みたいな見世物やらされたり、裸にさせられたり…」

「わかってるさ」

「男たちの慰みものにされたことだって…」

「…いいんだよ…」

「無理しなくたっていいのよ。半助さん、どこでもあんたの悪い噂は聞かない。いくらでもいい人がいるんでしょ。こんなあたしを選ばなくってもさあ」

「おまえが来てから、見世物が変わった。楽器を入れて、語りを入れて、仕掛けを工夫し、客にも受けるし、だいいち娘たちが生き生きして楽しそうになってきた。お前は彼女たちに生きる糧と生きがいを与えたのさ。おまえと暮らせばきっと毎日が幸せになるんじゃねえかって思っていた…。もう一度言うよ。俺のところに来てくれ、お前と一緒になりたいんだ」

 カグラの頬に涙がすうっとつたった。

「わかったわ、半助さん…わかった。こんな女でよかったら、どうぞもらってください」

 しかし、カグラは喜びの頂点を味わうとともに、心のどこかに今までの不幸な過去がにじみ出てくるのを感じた。喜びと悲しみはいつも一緒にある。今は幸せだけれど、これがすべてうまくいくはずがない。そんな気持ちが沸き起こる。今度こそ、今度こそ幸せになれる…いや、どうせどこかで崩れていくに違いない…。

「ほら、三々九度の練習だ。お前も今夜は少し飲んでくれよ」

 半助のついでくれたお酒は心が震えるようにおいしかった。

「半助さん…あたし…」

 だが、銀水亭の店の前にはその時、寅吉の三人の子分が定吉と姿を現していた。

「じゃあ、すみません、兄貴たち。これからどんなことをしてもカグラを連れてきますから、見届けてください。もしも店の外に逃げてくるようなことがあったら、捕まえておいてください。私がおとしまえをつけますから」

「おいおい、物騒なことはするなよ。騒ぎに巻き込まれるのはごめんだぜ」

 だが、見た目以上に定吉は追い詰められていた。定吉はそれには答えずだまって店内に入って行った。


「え、離れのほうですか? さっき笑い声も聞こえてきて、いい感じで盛り上がっているみたいでしたよ。もうすぐこっちに彦六さんも戻ってくると思いますけれど。ごめんなさいね、待たせちゃって」

 お夕が声をかけてくれた。何事もなくすべてが終わるかと、ユリも安心していた。

 だが、その時、おかしな客が店内に入ってきた。誰かを探している風で、店員に何かを聞くとユリたちのほうに歩いてきた。それは定吉であった。一瞬奥の席にいるユリと目が合う、それは異様な目つきで、顔色が青白いのが無気味であった。ユリは直感で危険を感じた。橘も男の異様な雰囲気に気づき、身構えた。男はユリの横をすれ違い、さらに奥に進んだ。ユリは、すれちがいざまに男の懐に何か銀色に光るものを見つけ、背筋が凍るような悪寒を感じた。そして男はユリたちのすぐ後ろの小部屋に入って行った。

 最初は男のどなる声、やがてガチャンと何かがひっくり返る大きな音がした。とんでもないことが起きたらしかった。

「キャー!」

 女の悲鳴が聞こえた。店の中がざわめいた。ユリのすぐ後ろの小部屋の戸口が開いて、肩を押さえて誰かが転がり出てきた。

「カグラ、俺にかまうな。すぐ裏口から逃げろ!」

 続いてすごい勢いで女が飛び出し、息も絶え絶えに裏口に走り出した。その後ろを物凄い勢いで飛び出してきた若い男が、刃物を振り回しながら追いかける。

「どうした、半助さん!」

 駆けつけた亭主の銀二に、半助が叫んだ。

「刃物をふりまわして定吉が、カグラを追い回している、なんとか奴を止めてくれ!」

 半助の方からは血がしたたり落ちていた。隣の小部屋に潜んでいた隠密の藤巻が両ざしを持って飛び出してきた。

「俺が引き受けた。半助さん待っていろ」

 亀太郎は、役人を呼びに行き、橘は半助の傷の手当てを引き受けた。肩の傷は結構深かった。騒ぎの中、ユリの姿はいつの間にか消えていた。

「カグラ、俺と来るんだ。来なければ、殺してでも連れて行くぞ」

 定吉は裏口から飛び出し、あたりを見回したが、カグラの姿は一瞬消えていた。右に左に、刃物を持って駆け回る定吉。カグラは人通りのほとんどない奥の離れに行けばますます危ないと、すぐに店の前のほうに駆けだしていったのだった。

「だれか、だれか助けておくれ」

 人影に声をかければ、それは安吉たちだった。

「ヒー!」

 捕まると思って、別の方向に走り出す、だが水路に沿って進めば、またさっきの場所に出てしまう。

「探したぞ、カグラ。殺してでもお前を連れて行く、はやくこっちに来い!」

 カグラは行き場を失い、奥へ、奥へと、離れのほうへと進んでいった。

「化け物のくせに、なんで勝手なことをしたんだ! 死ねー!」

 するとカグラは振り向いて叫んだ。

「あたしらは化けもんじゃない! おんなじ人間だよ!」

 そう、根本的な間違いは、定吉が見世物に出ている女を人間とは思わず、けがれた醜いものとさげすんでいたことにあったのだ。

「うるさい、化け物、死ねええ」

 襲い掛かる定吉。振り下ろされる凶刃。寸前で交わすカグラ。着物の袖が大きく切れる。その瞬間視界から色が消え、なぜかすべてがゆっくり事細かに見えてきた。やっぱり、やっぱり駄目なんだ。あたしは幸せになれないんだ。ここで死ぬのか? 絶対いやだ! 着物を翻し凶刃から飛び退くカグラ。まとわりつく重い空気の中を、一歩、一歩と進むごとに、幸せがボロボロこぼれていくような、足元が崩れ、地の底に落ちていくような気がした。

「半助さん…」

 だが、離れの戸口に追い詰められたとき、戸口がサッと開いてそこからにゅっと突き出した大きな手がカグラを戸口の中へと引き入れ、入れ替わりにあの大嵐山が出てきた。しかも力士の後ろからほかの人間がさっと飛び出していく。

「力士だろうが、こっちは刃物を持ってるんだ。死にたくなかったらどけ!」

 もう止まらない凶刃、だが包帯のまかれた大きな手は、刃物を手の甲で跳ね返し、さらに鋭い刃先を掌で受け止め、刀を奪い取った。

 ばかな、なぜ?

 定吉はだがそれ以上しゃべる前に大嵐山の大仏返しの張り手で宙を飛んでいた。立ち上がろうとするところを、後ろから追いついてきた隠密の藤巻に取り押さえられた。やがて隠密仲間の亀太郎に呼ばれた役人が近づいてきた。

「現場から逃げようとしていた怪しい輩を捕らえました。仲間かもしれない」

 長州藩の藩士が引っ張ってきたのは、安吉たち三人組だった。そしていつの間にか大きな騒ぎにならないように、水戸藩の幕臣が役人たちにうまく取り計らっていた。

「ほう、誰も怪我人がでなくてよかったのう。大嵐山、包帯の下に隠した鋼鉄の手袋、役に立ったのう」

 公家の男がほっと溜息をついた。続いて出てきたのは彦六とユリだった。

「ユリさんが走って知らせにきたおかげで、ぎりぎりカグラさんを救うことができました」

 ユリから事の次第を聞いた彦六は離れのみんなに、カグラの救出を頼んだのだった。やっとうち解けていたみんなは、それぞれの立場を乗り越え、協力してくれたのだった。

 ユリは、半助が怪我して出てきたとき、彦六が心配で、そのまま離れに走って行ったのだった。

 その時、橘に連れられて、傷口の応急手当てをした半助が歩いてきた。

「カグラ、良かった、無事だったか」

 駆け寄るカグラ。

「半助さあん、よかった。二人とも生きてるんだね。夢じゃないんだね」

 それから半助がみんなに頭を下げた。

「犯人は定吉、見世物勝負に負けた逆恨みです。皆様のおかげで私の大事な連れが命拾いしました。ありがとうございました」

 傷も痛いだろうに、半助は周りにいた一人一人にお礼を言って回った。そして橘とユリに連れられて、松庵亭へと一足先に治療に歩いて行った。もちろん、カグラが寄り添っていた。定吉と三人の子分は役人に連れられて行った。密談の面々は良かった良かったとみんな笑顔で、彦六を中心にともに今の事件を振り返っていた。さすが力士は違うと声がかかると、公家も上機嫌、長州藩士の目ざとさと素早さがさすがと言われたり、大事にならないように役人を沈めてくれた幕臣に感謝の言葉が送られたりした。やがてすっかりうちとけた密談の顔ぶれは、それぞれの場所に帰って行った。なぜか藤巻も捕まえるどころか、笑顔で別れて行った…。

 今はいろいろ立場が違うけれど、同じ人間じゃないか、きっといつかみんなが垣根なく笑いあえるような世の中が来ると彦六は確信したのであった。

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