第18話 おとしまえ

 興行が終わった翌日は、恒例で一日の休みがある。ここはカグラが仲間の娘たちと住んでいる一軒家。娘たちは今みんなで怪我をした仲間をお医者様に連れて行っていて、カグラ一人がつかの間のひと時を過ごしていた。だが娘たちの前では明るく振舞っていたが、心の中は不安でいっぱいだった。結果として勝負に負けたのだ。しかも多分蛇地獄が原因で…。まだ寅吉からは何も言ってこない。でも平気で済むとも思ってはいなかった。その時、戸口に人影が見えた。

「誰だい?」

「失礼します。彦六です。手紙を頼まれてきました」

「あら、彦六さん、お久しぶり。なんだい、手紙? 誰からだい」

 手紙を渡すと、彦六は丁寧にお辞儀してまた走っていった。

「半助さんからだね。ええっと、今夜、話がしたいって? すごい張り込んだねえ、銀水亭の小部屋をとったのかい。いったい何の話をしようっていうのかね、あんな高いところでさあ。またどうせこっちの小屋にこいとか、興行がなんとかってはなしだろうねえ」

 でも、カグラはなぜか鼻歌を歌い、鏡を覗き込んだりし始めたのだった。

「どうせうまくはいかないだろうけど、ちょっとぐらい夢を見たってバチはあたらないわよね」

 だが、その時、また戸口で人の気配がした。ふと顔を向けると、息がとまるかと思った。今度そこに立っていたのは、定吉だった。

「冗談じゃないわよ。なんであたしが寅吉に頭を下げに行かなきゃならないのさ」

「…木戸銭を払わなくていいといったのはお前だそうじゃねえかよ」

「だって、勝手にしろって言ったのはあんたでしょ!」

「言ったのは確かだが…」

「その前におミツに怪我をさせて勝手にトンズラしちまうし…」

「うう…」

 昨日勝負の日、寅吉に公演の回数を増やせと言われた時、定吉は簡単に考えていた。

 終わったら褒美に金を出すとか言って、あとはこき使えばいい、それで最初はきちんととるはずだった昼休みを半分も取らず、そのあとも休みなしで続けて公演を行ったのだ。それでなくとも、蛇地獄は待合通路付きの入れ替え制、しかも木戸銭後払いだ。休みなく、どんどん客がやってくる仕組みだ。それに松本出目太郎と違って、下働きや黒子が一人もいないのだ。最初は協力して頑張っていた娘たちも、さすがに疲弊して、休みがほしいとカグラに頼み込んだ。特に主役の蛇女役のおミツは、一回ごとに早変わりの仕掛けをやり直し、舞台の後ろを通って二つの蛇のからくりを動かし、反対側からまた出てくる、しかも幕の上げ下ろしまでやっているのだ。

「わかったよ。あたしが座長に言ってくるから」

 カグラに呼び出され、座長の定吉が舞台にやってくる。全員がそこにいるのを見て、驚いて怒鳴る定吉だった。

「何やってんだ、通路の客をほったらかしか? お前ら、怠けてるんじゃねえ」

「定吉さん、みんなお昼も休み時間もあまりとってなくてさあ、もう限界だよ。忙しい娘なんか、昼ごはんだって取れてないんだ。ちょっとだけ休憩時間をいれてくれないかねえ」

 だが、定吉のその時の受け答えは確かにまずかった。

「俺だって、飯はほとんどとってないぞ。そんなことぐらいでいちいち呼び出すなよ」

 すると蛇女役のおミツがさすがに怒った。

「だって、定吉さんは舞台の裏でただ座ってるだけでしょう? いつもは帳簿とか木戸銭とか忙しいかもしれないけど、今日はそれは全部氏子代表の人がやってるし、舞台のことは全部カグラさん任せだし、何にもやることないでしょ。忙しくてくるくる動き回ってるあたしたちと一緒にしないでよ!」

 おミツの言うことがすべてその通りだったので、定吉は、かえって逆上した。

「なんだと! 俺は見張ってるんだよ、お前たちが怠けないようにね」

 生意気なおミツを定吉はちょっと突き飛ばした。もちろん怪我をさせるつもりはなかった。だがここは舞台の上だということを忘れていた。

「イタ! イタタタタタ」

 おミツは足を滑らせ、舞台から落ちて足をくじいてしまったのだ。

「何すんだよ、いったいどうするつもりなんだよ」

 カグラや娘たちが立ち上がり、じりじりと定吉に迫ってきた。大変なことをしてしまった。定吉は怖くなって、その場を逃げ出したのだった。

「わかったよ。おれがもっと仕事すればいいんだろ」

「何言ってるんだよ」

「これから俺は、外に出て呼び込みの仕事をするからな。それでいいだろ。きちんと舞台は続けろよ」

「続けろってどうやって続けるんだよ。おミツは怪我して、これじゃ満足に歩けやしない」

「勝手にしろ。俺は仕事師に行くからな…。ほら、通路の客を入れるぞ。もたもたしないで場所につけっていうんだよ!」

 そう言って定吉は小屋の外に出ると、見世物勝負が終わるまで、もう、帰ってこなかったのだった。

「しょうがないからあたしたちは舞台を続けたよ。仏壇のからくりも箪笥のからくりもなしでね。蛇女だってずっとひとっところに立ちっぱなしでね。そんな舞台で最初のお客さんと同じ金とるわけにはいかないから、木戸銭は払わなくてもかまいませんって、あたしゃお客に謝ったのさ」

「やっぱり木戸銭を払わなくていいって言ったのはお前じゃないか」

「だって、仏壇から顔をを出す大蛇も、引出しから飛び出す蛇の群れもいないんだよ?」

「誰かにやらせりゃよかっただろ?」

「ああ、そう言えば手の余っているのが一人だけいたねえ。あいつにやらせりゃよかった…」

「ほら見ろ、何とかできたんじゃねえのか?」

「ばかやろう、手が余ってたのは、お前のことだよ、定吉さんよ。あんたがあそこでトンズラしなきゃ、何とかなったんだよ。このスッとこどっこい!」

「うう…」

 もうそこまで言われると定吉は理屈抜きでカグラを連れて行こうと動き出した。

「カグラ、早く俺と来て寅吉さんに頭を下げるんだ、私が悪うございましたとな」

「そんな嘘をつきに行けるわけないでしょう!、どうしてもって言うなら、定吉がおミツを怪我させて、そのままトンズラしたって言うわ」

「つべこべ言わずに、はやくこっちへ来い」

 カグラを無理やり連れ去ろうとする定吉。だが戸口にまた別の人影が現れた。

「見苦しい真似はやめな、定吉さんよ」

 それは寅吉の一の子分の闇討ちの安吉だった。

「なかなか来ないから見に来たんだが、今の話、全部聞かせてもらったぜ。そうか、あんたがおミツをねえ。さっそく寅吉さんに知らせてくるぜ」

「ちょっと待ってくれ、安吉さんよう。全部カグラが悪いんだ、違う、違うんだよう…!」

 走り去る安吉を追って、定吉も去って行った。


 その頃長屋では、仕立て屋のお絹さんの息子の鉄之助が買ってもらった金魚玉を大八やアヤに見せてもらっていた。

「今朝、彦六さんに教えてもらったんだ。エサのおふは、やりすぎないこと。水換えは毎日するのが長生きのコツだってさ。少し大きくなったら、大きい入れ物に移したほうがいいってさ。ほらかわいいだろう?」

 アヤは、買ってもらった菊の鉢と比べてみた。

「あたいも金魚玉のほうがよかったかなあ」

 すると大八がやさしくいった。

「でも、アヤの鉢はつぼみがたくさんあるから、もうすぐたくさん花が咲くよ」

「うん、毎日世話するんだ」

 やんちゃ軍団が楽しそうに話をしているすぐそばで、また何かが動き出そうとしていた。あの薬の行商人を装った幕府の隠密、亀太郎がまた藤巻の部屋を訪れたのだ。

「…とすると、今度は間違いなく力士の集団に交じって、長州の藩士が来ているというのか?」

「ああ、今裏が取れたところだ。奴らは町人風を装って江戸に潜入している」

「わかっているなら、すぐ役人を呼んでとっ捕まえりゃいいだろうに」

「それが奴らの目的が全然わからない。誰に会うとも、何を渡すとも見当がつかないのだ。やつらは昨日まではあやしい動きは何一つしていない。とぼけられたらすべて終わりだ」

「そういうことか。まあ長州には関が原以来の恨みもあるだろうが…」

「だが、ついに今夜動きがある。江戸にいる奴らの協力者が奴らを誰かに引き合わせるようだ。その場を見張り、場合によっては抑えて、役人に引き渡す。鬼が出るか蛇が出るか、私と一緒に藤巻殿仁も来ていただきたいのだ。場所はそう、おぬしがよく知っている場所だ」

「よく知っている場所?」

「銀水亭の離れだよ」

「なあるほどね。奥の小部屋をとっておけば、離れに行く人間をすべて確認できる。いまからあそこを取っておくかな」

 二人の隠密は夜の作戦を練り始めたのだった。


「ユリにくわしく聞きましたぞ、物産会にも通じるすばらしい出し物で、お客もたくさん入り、勝負にも勝ったそうじゃのう。さすが彦六殿」

「いえいえ、元はといえばオオサンショウウオも物産会から下取りしたもので、カワウソも物産会のつながりで取り寄せたものでした。それに浦島太郎の知恵も、川の箱庭の見せ方も、ユリさんのおかげで決まったようなものです。うちの親方もこの物産会で金蔵さんとつながりができたわけで、本当にいくら感謝しても足らぬほどです。ありがとうございました」

 ユリは自慢げにお茶を注いで笑った。

「私はこれからも本草学の精神を生かした催し物を手掛けていこうかと思っております」

「うむ、彦六さんのやり方は本草学の一般庶民に対する新しい広め方ではないかと我々学者仲間も注目するところだ。期待しておりますぞ」

「ありがとうございます。ユリさんもご協力ありがとうございました」

 初めて会ってからまだ一年ほどなのに、彦六はいっぱしの本草学者のようにもみえた。また、大きな催し物を成功させた自信が、さらに落ち着きと輝きを与えていた。

「あのう、彦六さん、どうぞ、今日はごゆっくり…」

「それが、大変すみません。今夜これから半助おじさんと銀水亭に行かなきゃならないんで…」

 彦六はそういって、また足早に帰って行った。ユリはその後ろ姿を見送りながらまた思った。

「ぐずぐずしていたら、アヤメさんに取られちゃうかも。向こうはお教室に行くついでに、しょっちゅう長屋にも寄れるんだし…。また作戦を考えなくちゃ」

 だが、ユリのそんな思いとは別に、こちらでも何かが動き出していた。なんと門弟の、あの背の高い酒井が役人に殴られたと、顔をはらして帰ってきたのだった。すぐに松庵がユリとともに手当にあたった。

「いったい、何があったのじゃ、酒井」

「それが、高野長英事件のことで目をつけられていたらしくて、買い物をしていたら、お前何しに来たとか、何を買ったとか突然捕まったんです。結局最後は帰してもらえましたが、このざまです」

 すると松庵は深くため息をついて酒井にわびた。

「また、わしら学者仲間のことで迷惑をかけてしまったようじゃのう」

「どういうことですか?」

「実は今夜学者仲間が開国についての密談を行うのじゃ」

 それから松庵はそのわけをポツリポツリと話し始めたのだった。

「最近、イギリスの船やフランスの船が日本に貿易を求めてたびたび訪れておる。幕府は幕藩体制を揺るがしかねないこの事態に、鎖国を貫いておる。あのアメリカのモリソン号の時も大砲で追い払った。だが、蘭学の研究が進めば進むほど、諸外国と日本の文化の違いだけでなく、航海術や軍備の差が大きいことがわかってきたのだ。このまま戦えば日本は大きな損害を受けることは間違いないだろう。高野長英や渡辺崋山殿は、何らかの方法でとりあえず開国し、先進の技術をすばやく取り入れ、もっと強くなってから外国と相対してもよかろうという立場であった。われわれ本草学者も、新しい学問を取り入れたいという点では、開国派に属する。だが、それは、鎖国政策を貫く幕府には反対勢力となってしまうのじゃ。そして今夜、わしらには直接関係がないが、開国派の学者を通じて、あの銀水亭の離れで、幕府に反対する勢力が集まって意見を交わすことになったのじゃ。けんか別れするのか、同志となるかは会ってみなければわからぬという集まりだそうだ」

「差しさわりがない範囲で、その顔ぶれをお教え願えませんか」

 酒井の言葉に、松庵は控えめに答えた。

「天皇中心の世を目指す、公家の手のもの、長州藩の藩士、そして幕府のやり方に疑問を持つ幕臣だ」

「長州藩士とは、なぜなのでしょう」

「そうじゃな。それは先の関が原の戦いにさかのぼる。勝利した家康は毛利輝元に、すべての領地を約束していたが、ふたを開ければ領地を減らされ、長州に押し込まれてしまったわけじゃ。しかも最近、中国やオランダなどの外国との貿易もさかんになり、海運業も瀬戸内海を中心に大したにぎわいじゃ。本州の隅にある長州藩はそこを通過する船の莫大な通行税の利権を一手に握り、国力をひそかに強めてきておる。南西諸島のサトウキビの利権を持つ薩摩藩なども同じじゃ。だが一方で幕府の弱体化は目につくばかりじゃ。先日の水野忠邦殿も天領を増やし、幕府の基盤を固めようとしていたようだが、うまくいかなかった。そこで今こそ立ち上がるかと、いろいろな勢力が動き出したのだ」

「なるほど、うまくいくかどうかはともかく、いろいろな反対派のものが顔を合わせるわけですね。そういうことだったんですね」

 治療が終わった酒井は自分の部屋に帰って行った。

 ユリは落ち着かず、夕暮れの空を見てはため息をついていた。

「今夜の密談、銀水亭って言ってた。彦六さんが出かけたのも銀水亭のはずだわ。なにもなければいいけど。どうしよう? 知らせに行ったほうがいいのかしら」

「ユリ、どうも落ち着かないようね」

「母上様…」

 母親はすべてを傍らで聞いて、ユリの心までお見通しだった。

「いいわ、橘に頼んで一緒に行ってもらうわ。銀水亭にね。その代り、用事がすんだらすぐ帰ること、危険なことはしないこと。約束できるかしら…」

 そして、ユリも動き出したのだった。


「ちょっと、私の取り分がこれだけってどういうことですか!」

 気位の高い売れっ子芸人与三郎が声を荒げた。寅吉はただ深く頭を下げて月末までにはなんとかすると謝るだけだった。

「…小屋の客の入りが悪かったなら納得もしますよ。でも松本出目太郎はずーっと満員のまま、一回公演を増やしてまでやったじゃないですか。私も司会と手品をやって大うけでしたよ。それがこの金額ですか。馬鹿にしないで下さいよ。これじゃ話にならない、また来ますよ」

 与三郎は怒って出て行った。

「与三郎の言うとおりだよな。あんな満員だったてえのにしかも勝負に負けて、金も満足に出せないなんてな。情けねえなまったくよう」

 するとその時、安吉に連れられて定吉が入ってきた。

「すみません、寅吉さん、もうすぐカグラを連れてきますんで…」

「馬鹿野郎、どの面下げてここに来た。こっちはてめえのおかげで勝負に負けて、金のやりくりに追われてもうへとへとさ。この月末までには身辺を整理して俺たちは江戸を出る。こんな時に備えて東海道の興行師を何人か押さえてあるのさ。息のかかった曲芸師たちを連れてしばらくそっちで金を貯めるさ。竹藪の寅吉はまだ死なねえよ。すぐに江戸に戻ってきてやるさ」

 すると定吉はか細い声でこう言った。

「寅吉さん、俺は半助さんを裏切っちまって、もう江戸にはいられない。何でもしますから、一緒に連れて行っておくんなさい」

 すると寅吉は定吉を思いっきり殴って怒鳴った。

「なんで負けた原因を作った奴をつれて都落ちしなきゃならねえんだよ」

「だから、木戸銭を払わなかったのは、全部カグラのせいなんです」

「でもてめえはおミツに怪我させてトンズラしたっていうじゃねえか」

「それも違うんです。俺はトンズラしたんじゃなくて呼び込みしてたんですよ。ほら、寅吉さんだって、俺が呼び込みしているところ見たじゃないですか」

「おまえの言い分も聞かないわけじゃない。確かにカグラもやりすぎた。だが、このまま何もなしじゃ、お前を連れて行くわけにはいかねえ。きちんと落とし前を、つけるんだな」

「おとしまえって、どうすりゃいいんです?」

「そんなことは自分で考えな!」

 そう言うと寅吉はすがる定吉を部屋の外に蹴りだした。定吉はぼろ布のようになり、外にぶつぶつ言いながら出て行った。

「悪いのはカグラじゃねえか、畜生、こうなったら殺してでも連れてきてやる」

 そして、外にいた寅吉の三人の子分に声をかけた。

「…なんだと、俺たちに指図するっていうのか?」

「違います、立会人ですよ。俺がちゃんとやるかどうか見届けてもらうだけです。今夜だけ、最初で最後ですから、お願いします」

「最初で最後だと、本当にお前との付き合いもこれで最後になるかもしれねえな。いいぜ、今夜だけ付き合ってやらあ」

 定吉は三人に礼を言うと、用意があると言って、夕暮れの街に消えて行った…。

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