第14話 辻占せんべい
「このたびは本当に迷惑をかけた。橘の窮地を救い、無事に屋敷に戻し、うまいトンチで長英先生を無事に送り届けてくれた。なにからなにまで世話になって、この松庵、心からお礼を申す」
松庵先生とその隣に座っていたユリさんが深々と頭を下げた。
「とんでもない。みな、半助さんや小太郎さん、見世物の仲間が骨折ってくれたもので、私の力ではありませんよ」
するとユリが静かに言った。
「今日は何のおもてなしもできずにまことにすみません。明日、私がお礼を持って、長屋に出向きますので…」
ここのところいろいろあって、ユリは彦六とロクに口も聞いていない。しかも久しぶりに会ったらどうだろう、自分は自慢の着物を用意し、髪形からかんざしまでびしっと決めて来たのに、全然負けているのだ。同い年の自分は少しも変わってないのに、彦六はひとまわりもふたまわりも大人になったように見える。輝いて見えるのだ。どうしよう、このままでは置いていかれそう、手の届かないところに行ってしまいそうだった。ここは無理にでも長屋に押しかけて、何か手を打っておかないと…。
「いやいや、うれしいけれど、お嬢さんに来てもらうような場所じゃないですよ。それに私は、明日から相撲の興行の手伝いがあって朝早くから夜まで長屋にはいないんです。それに、秋に見世物の勝負があっていろいろ大変でね」
ユリは自分の野望が崩れ去って行くのを感じて、目がくらくらした。
「それより長英先生には菊次郎親方の手術をしていただいて、偶然とはいえ本当にありがたかったです。引き続き松庵先生に診ていただき、こちらこそお礼をしないと…」
「うむ、今朝親方を診せてもらったが、長英殿の的確な処置がうまくいき、思ったより早く回復しそうじゃ」
やがて話も一通り終わり、彦六はきちんとお別れの挨拶をして書斎を後にした。
「お客様を、玄関までお送りします」
そういって立ち上がったユリ。でもその頭の中は、このまま彦六を帰していいのか、なんか引き留める方法はないものかとあらゆる方法を考えていた。そして彦六が玄関を出て外に歩き出した時、一つだけ思いついた。
「あのう、彦六さん…」
「はい、何でしょう」
さっき、ユリの目には、彦六が見世物の勝負があって大変だと行った時、一瞬だが困っているように見えたのだ。ユリは女の勘に賭けた。
「見世物の勝負ってそんなに大変なんですか?」
「はい?」
「なにかお悩み事があるのかと心配で…」
「あれ、わかりますか? ユリさんにはかなわないなあ」
やった! まさかの大当たりだ。彦六とユリは、庭の池のそばの石に腰かけ、小さな滝や川魚をながめながら、話し出した。
「…そういうわけで半助おじさんが駆け回ってくれて、予算や段取りも見通しがついてきたのですが、新しい出し物の実現のためには、あと短い間に決めたり、用意しなきゃならないものがいくつかあるのです」
まず、生きている生き人形の題名を決めなければ、どんな人形をつくるのかも決まらないという。
「彦六さんは、どんな人たちに見てもらいたいのかしら?」
「そりゃあ、子どもからお年寄りまでみんなが楽しめるのがいいとは思っているんだけど。今考えているのは、曲亭馬琴の南総里見八犬伝とか、歌舞伎の人気の出し物だとか…。でもこれといっていいのがなくて…。」
ユリは、急にひらめいた。
「子どもでも知っていて、誰にでもうけそうなもの、これはどう? 浦島太郎。これならだれでも知ってるし、竜宮城とか乙姫とか楽しそうじゃない?」
「浦島太郎? そうか、それがあったか。うん、うん、いいぞ、それに決定だ」
しかも浦島太郎にすると、ほかにもいいことがたくさんあったのだ。次に彦六は自分の子ども時代の話を始めた。子ども時代に面白かったことを出し物にしたいというのだ。
「そういうわけでね。遊び場所といったら、多摩川や、そこに流れ込む小川、湧水なんかだったんだ。いつも水辺の生き物と一緒でね。川っていうのはくねくねしてるとあっちこっちに流れの速いところや遅いところ、砂利底、砂底、淀みや水草の生えてるところがあってね、しかもそこに住んでる魚はみんな種類が違うんだ。珍しくはないけれど、そんな小魚をたくさん集めて、みんなに見せたら、興味を持ってくれる人もきっといると思う。どうだろうね?」
「いいと思うけど。川の小魚って小さいから、あまり目立たないかも…」
「そうか、じゃあ大きい魚を集めるかなあ」
「そうじゃなくて、小魚をなんていうか、よく見えるように、見せ方を工夫したらどうかしら?」
「そうか、見せ方か。わかったよ、ユリさん、私もちょっとひらめいた、工夫して頑張ってみるよ」
迷っていた彦六の瞳が生き生きとしてきた。どうやらひらめいたというのは嘘ではないらしい。
「それで、実は今の話だけれど…。寅吉の一味に知られるとまずいから、秘密にしてもらえますか」
「もちろん、二人だけの秘密ね」
「え?」
そして彦六はこれから小春師匠に仕事を頼まれていると言って、駆け足で帰って行った。…小春師匠? ユリは少しだけいやな予感を感じつつ、彦六の後ろ姿を見送った。
さて、長屋の大家の福蔵さんは大店の呉服屋をやっている。ここのところで少し景気が良くなってきたので、店を改築した。店も新しくなって、また賑わっている。でも、今まで自宅の横の離れを一時倉庫がわりに使っていたのが全部新しい店に移っり、離れは空き家となった。そして、そこに目を付けたのが、小春師匠であった。広く、手入れされた福蔵さんの庭を眺め、裏手は立ち木に囲まれ、静かで落ち着いたこの離れを借りて、三味線や小唄の教室を開くことになったのだ。
「あら、忙しいのにすまないねえ。彦六さん、まずはお茶を一杯飲んで、ちょっと休んでおくれよ」
小春師匠は赤い花の絵の入った湯飲みでお茶を勧める。
「ああ、おいしいほうじ茶ですねえ。湯飲みもお洒落だし、小春師匠はなんでも粋ですねえ」
「おだてたって、お茶しか出ないわよ。でも福蔵さんちの庭を眺めながらお茶を飲むのも贅沢だわ。いいところが借りられて本当によかったわ」
教室を始めるにあたって、長屋の大工の八つぁんが手を入れ、長屋のみんなで掃除をして、すっかり中はきれいになっていた。明日から教室を始めるのだという。
「それで、小春師匠、私は何を手伝えばいいんですか?」
「すまないねえ、八つぁんに適当な板を見つけてもらって看板を作ってもらったんだけど、そこにね、ぜひ彦六さんに三味線小春って文字を書いてほしいんだよ」
「ええ? 私みたいな若い者にそんな大事な字をまかせていいんですか?」
「あら、若いからいいのよ。若い人の勢いがほしいのよ。お願いできるかしら?」
「わかりました。そういうことなら、心をこめて書かせていただきます」
彦六は板の間に用意された看板の板を見て、これは特大の筆が必要だ、下書もした方がいいと言って、長屋の自分の部屋に道具をとりに走って行った。彦六がごそごそしている間、長屋ではまた大騒ぎになっていた。偶然家に帰っていた八つぁんが熊さんを探して叫んでいた。
「なんだよ、この大事な時に、長屋の男連中は、ほかにいないのかよ。熊さん、熊公、凄いぞ三大美女のもう一人、ええっと、だれだっけ、ほら、生薬屋のサクラさんじゃなくて、松庵先生のところのユリさんじゃなくて、ほら、花問屋の…?」
すると、また八つぁんのおかみさんが飛んできて、八五郎の耳を引っ張りながら言った。
「花問屋のアヤメさんよ、アヤメさん。また鼻の下を伸ばしていい加減にしな、みっともない!」
アヤメは、社交的で誰にもやさしいサクラさんとも、松庵邸の知性派のユリさんとも違う、どこか近寄りがたい、神秘的な美人だった。後ろに若い番頭を引き連れ、謎の微笑を浮かべて、八つぁんの前を通過して行った。おかみさんのおカヨさんが思い出した。
「あ、そうなんだ、確かアヤメさんは小春師匠が教えていた三味線教室のお弟子さんよ。お祝いに来たんだわ」
彦六は道具を用意して、小春師匠のいる離れへと戻ってきた。だが小春師匠はお客さんと話をしていたので、声だけかけて、看板作りに取り掛かった。
「小春師匠、新しい教室、おめでとうございます。でも、いいお庭、こんな落ち着いたところだなんて思わなかったわ」
「アヤメちゃんは、遠いから前のお教室で続けるって言ってたけど、なんならこっちの教室に来る? うふふ…」
「あら、どうしましょう」
そう言うと、アヤメは番頭の達吉に言ってお祝いの品を用意した。一つ目はなんと黒に金色の招き猫だった。もちろん小春師匠のかわいがっている黒猫にあやかったものだった。
「いつも小春師匠がクロちゃんの話をするから、どうかと思って」
「あら、うれしいわ。クロ、クロおいで」
するといつもの声が聞こえ、クロが縁側に姿を現した。
「いやあだ、大きさも顔もそっくりだわ。うれしいわ」
「まだあるんですよ。うちは花問屋だけど、花器や瀬戸物ももいろいろ扱っていて、これどうですか、クロちゃんに」
それは色鮮やかな小鉢だった。中をのぞくと、魚の絵が描いてある。かわいい猫のご馳走皿だ。小春師匠は飛び上がって喜んだ。
「ではお約束のお祝いの花を用意いたします」
するとアヤメは達吉に言って二つの花器とたくさんの花を用意させた。
「うれしいわ。じゃあ、ここの部屋と、隣の部屋にお願いしますね」
アヤメはすると、すぐに集中して、無言で、それはもう見事な花を生けた。そして、しばらくして静かに隣の部屋に移ってきた。隣の部屋では彦六がちょうど看板を書き上げたところだった。アヤメは何も言わず、忍び足で看板を覗き込むと、突然しゃべりだした。
「まっすぐで力強い字。うまく見せようという欲もなく、失敗を恐れる弱さもなく、でも向う見ずに突っ走ることはしない思慮深さがある。あるがままの強さだわ」
「はい?」
すると小春師匠がやってきた。
「お祝いに来てくれた弟子のアヤメさんよ。この子はね、花問屋のお嬢様だけど、お母様がお花の家元で、彼女も師範並みの腕前、日本画も本格的だし、書も手習いの塾頭になるほどの腕前なの。なんというか、勘所がいいのよ。アヤメさんに褒められるなんて、彦六さんもかなりの腕ね」
すると、彦六の前にちょこんと座ったアヤメが頭を下げて言った。
「さしでがましいことを言って、大変失礼しました。つい、心に思ったことを口にしてしまって…。お許しください」
「はは、私の字はそんな大したものではないですよ。でも、なんかほめられるといい気分ですね」
彦六が朗らかに笑っているのを見ると、アヤメは安心して花を生けだした。こちらの部屋の方が広いせいか、大きな花器に堂々とした迫力の花が姿を現した。
「へえ、花って生け方一つでこんなにも変わってくるものなんですね。やはりかなり考えて、出来上がりを頭に描いてそうなるように生けていくものなんですか?」
するとアヤメは笑ってかえした。
「…そんなふうに思っていただけると、恥ずかしいです。私、初めから終わりまで何にも考えていません。実は私、お花を生ける部屋を眺めて、花器を見て、今日のお花たちを眺めると、勝手に手が動き出すだけなんです。なんか花の声が聞こえてくるような気がして、その通りにしているだけなんです。お恥ずかしいけれど…」
花でも書でも心のままに、感じたままに表現する…。アヤメは感性の天才だった。
「彦六さんの看板の文字もいいし、アヤメさんのお花は実に見事ね。二人ともお疲れ様、隣でお茶とお菓子を出すから、ちょっとこっちにいらっしゃい。ほら、番頭の達吉さんもご遠慮なさらずに」
今度は上等の煎茶とお菓子だった。彦六は、おいしいお茶をぐっと飲んでから、醤油煎餅をカリッとかじった。
「あれ? なんだこりゃ?」
「はい、当たりね。今日の煎餅は神社の角で売っていた辻占せんべえよ。中にね、おみくじが入ってるのよ。あそこの神社のはよく当たるって評判なのよ。さあ、みんなも食べてみて。彦六さんはおみくじどうだった?」
彦六は歯に当たったものを注意深く取り出した。小さな紙が折りたたまれてはいっていた。
「ええっと大吉だ。出逢いを大切にすればすべてよし。こりゃあ、縁起がいいや。師匠、ありがとうございます」
小春師匠の話では、看板もお花も予定通りできたので、あとは八五郎さんに看板を取り付けてもらって、明日から教室を予定通り始めるという。
みんなのおみくじは、小春師匠は大吉、番頭の達吉は末吉、アヤメは見た瞬間とてもうれしそうに微笑んだのでいいものが出たようなのだが、本人は黙っていた。小春師匠の買ってきた辻占せんべいは、楽しいだけでなく、とてもおいしかった。
「じゃあ、すっかりご馳走になっちゃって」
彦六は、また忙しそうに長屋へと帰って行った。そろそろ帰ってくる半助おじさんと、相撲の打合せがあるのだ。彦六が帰ると、アヤメも直に帰り支度をした。アヤメは辻占せんべいから出たおみくじを大事そうに小物入れにしまった。
「あら、アヤメさんは結局、何が出たの? 大吉? それとも…?」
「さあ、どうでしょう。あ、それから、小春師匠…」
「なあに、アヤメさん」
「私やっぱり、こっちの教室に時々通っていいですか?」
「あら、どういう風の吹き回し? もちろん大歓迎よ」
「ありがとうございます。よろしくお願いいたします」
そしてそれから、アヤメはときどき、長屋を訪れることになる。
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