第15話 相撲東西対抗戦

 江戸時代の相撲は寺社奉行の下に年寄株のしっかりした組織があり、江戸の寺社の敷地内で行われていた。京都、大阪、江戸とそれぞれに強い力士を抱えていたが、交流戦も毎年行われ、彦六の頃には、今のような土俵も作られ、番付表もあった。だから、見世物師主体の興行はなく、半助たちも大きく儲けることはできないのだが、実際現場を取り仕切り、土俵の整備、入場券や席の管理、お茶屋の運営、場内整理、そして谷町の世話などで実際に動くのは、半助たち興行の専門家たちであり、その下に雇われた者たちであった。大きくは儲けられないが、確実な収入となるので大事な仕事であった。

 今日は年に何回もない関西との交流戦で、遠く京都、大阪から力士たちが集まってきていた。相撲好きにはこたえられない夢の取り組みが目白押しで、早くから客でごった返していた。半助はここでは実際的な現場の責任者で、彦六とともに雑多な仕事をテキパキ片付け、大活躍だった。一通り用意が終わると、谷町の旦那衆がやってきて、今度はその接待だ。ここでも陽気で仕事の早い半助は大人気だった。

「おーい、半助さん、今夜の七国山との酒の席は、どうなってる?」

 生薬屋の大旦那はにこにこしながら半助に尋ねた。

「はいはい、料亭の百川の方にいつも通り用意しました。玄海部屋にも連絡済みです」

「さすがだねえ、半助さんに任しときゃ間違いないねえ。今日も、ぜひ顔を出しておくれよ」

「もちろんですとも」

「ええっと、今日の七国山の相手の大嵐山っていうのはどんな力士かわかるかい?」

「いや、それがね、公家様のお抱えで、京都の新関脇です。今、凄く勢いがあるみたいですね。取り口は変幻自在の七国山とは対照的な品格がある正統派で、得意技はその顔つきと体系から大仏おろしと言われる張り手と、豪快な上手投げです。背の高さは、七国山が上ですが、体重は大嵐山が上かもしれない。かなりの大型の力士ですよ。いやあ、取り組みが楽しみですねえ。じゃあ、私はこれで…」

 そういうと、半助は陽気に笑いながら次の仕事へと歩き出した。だが少しして、生薬屋の大旦那からまた声がかかった。

「どうしました? なにかあったんですか?」

「いや、それがね…」


 その頃、松庵邸では取引先から、今月分の漢方薬が届いていた。応対に出た橘がユリを呼びに来た。

「生薬屋のお嬢さんが見えられていて、ユリさんに会いたいそうです」

「ええ? サクラ姉さまが! すぐ参ります」

 漢方医である沢内松庵は、その仕事上、大量の漢方薬を使う。生薬屋の一番のお得意さまである。つきあいも長く、毎回主人がやってきていたのだが、相撲の興行がかちあったため、主人は来ないで、今日はその娘と番頭が来ていた。

「あ、サクラ姉さま、お久しぶりです」

 ユリは、二つ年上のサクラを小さい時から実の姉のように慕っていた。初夏の野の花が咲き乱れる松庵邸の庭に、すらっと背の高い華やかなその姿があった。

「サクラ姉さま、今日は一段とおきれいだわ」

 だがそういうユリを見て、サクラも思った。いつまでも子どもだと思っていたら、恋でもしたのかしら、すっかり大人っぽくつやっぽくなって…。もともと目鼻立ちがくっきりとしてくりっと大きいその瞳が美しいけれど、今日はその瞳が、輝いて見えると。

「ごめんなさいね、ユリさん。うちの父は昔から相撲に目がなくって…。今日は、京都の強い力士と七国山が闘うって、朝から凄い興奮して。ここは一番のお得意様だから、私が代わりに来ました」

 本人はかわりに来たと言っているが、社交性のあるサクラは、気転も効くし、人当たりは父親以上の大人気、もちろんすごい美人だし、最近は商才も発揮するようになり、新しい店の顔として評判もいいのだ。

 だがその時、橘と話していた生薬屋の番頭がサクラのところに困った顔をしてやってきた。

「え、納品書が、入ってない…? 今朝相撲に行くからと大騒ぎしてた時、確かにお父様が納品書を持って歩いていたけど…? いやだお父様ったら、まさか相撲に持って行っちゃったのかしら?」

 橘は生薬屋さんとは付き合いが長いから、商品を確認してわかるようにしますよと言ってくれた。

「ごめんなさいね、ユリさん。こちらの手落ちです…。ええっととりあえず、どうしましょう…」

「あ、気にしないでください。こっちは全然…」

 だが、その時意外な人物が走ってやってきた。

「すいませーん。生薬屋のお使いでやってまいりました」

「…なんで…彦六さん?」

 ユリが驚くのも無理はなかった。それは相撲にいっている生薬屋の主人から、半助を経由して仕事を頼まれた彦六であった。彦六は懐から大事そうに書類を取り出すと、サクラに手渡しながら言った。

「おじの半助から頼まれまして、お父上様が間違えて持って行ってしまった書類だそうです。娘が困っているだろうから、すぐに届けてくれと、迷惑をかけたとおっしゃっていたそうです。これで間違いはないでしょうか?」

「はい、確かに探していた納品書です。よかったわ、これで間違いなし」

 しかもサクラは、半助に一度紹介されただけの彦六の名前をきちんと憶えていた。

「彦六さん、ありがとうございました。父に確かに受け取ったと伝えてください」

「はい、では失礼します」

 そして彦六は、橘やユリにもきちんと挨拶をして、また走って帰って行った。

「走らなくてもいいのに、あの人、一生懸命ね。いいひとじゃないの」

 そう言って彦六の後ろ姿を追いかけるサクラを見ると、ユリは衝撃を受けた。なんで名前を知っているの? なんで仕事を手伝っているの? でも、私なんか、あの彦六さんとは去年からの付き合いで、別に恋仲じゃないけど、あの人のことはいろいろ知っているし、二人だけの秘密もあるんです…などと心の中で叫んだけど、優しいサクラ姉さんには言い出せず…。なんとか口に出せたのは次のことだけだった。

「でも、サクラ姉さんよりは年下ですよね」

 すると冗談のつもりかサクラが言った言葉がユリを打ちのめすのだった。

「あら、姉さん女房ってのもあるわよ…。うふふ…」

 やがて何でもないような顔をして、サクラと別れたユリだったが、自分の部屋に戻るとそのまま寝込んでしまった。

「うう、サクラ姉さんが恋敵になったらかなうはずない、でも、それはないと思うけど…もう、なにがなんだか…今日は一日寝かせて…そのかわり、明日からは…」


 うまく納品書が娘のサクラに渡ったと半助から連絡を受けると、生薬屋の旦那は大喜びだった。

「いやあ、あっと言う間に届けてくれたねえ…。へえ、半助さん所の若いのがねえ、あとでお礼を言うからぜひ連れてきてよ…」

「へえへえ、今茶屋の帳簿の仕事に行っておりますので、あとでちゃんと伺わせますので」

 さて、いよいよ取り組みが始まり、場内は徐々に盛り上がって行った。だが、半助にはどうも気になることがあった。土俵の南北には、青竜、白虎、朱雀、玄武の四神の柱があるのだが、北にある玄武の柱の裏に、先ほどから役人が来ているのだ。名目上は予想以上の大入りのための警備ということだが、なんだかきな臭い。

「ううむ、罪人ややくざ者の取締でもないし、高野長英先生の件でもなさそうだ。視線からいうと、どうも関西から来た力士たちの中に怪しい者が混じっているのだろうか…」

 そして大歓声の中、十両までの取り組みが終わり、いよいよ競合力士たちがずんずんと入場だ。大阪と京都の連合軍が西に、最近強い力士が集まってきた江戸の軍団が東に陣取り、否が応にも会場は盛り上がる。

 十両までの取り組みはほぼ互角、さすがの江戸も連合軍の牙城を崩せないのかと思わせる熱戦の連続であった。ここからは東西対抗十番勝負、生薬屋の旦那も気が気ではない。ごひいきの七国山対大嵐山は、八番目の取り組みだ。このままズルズル負けてはいられないと飛び出したのが、小兵で業師の大砲丸(たいほうまる)だ。七国山と同じ玄海部屋の力士だ。体が真ん丸で、かわいいと評判だがその動きは砲丸のようにすばやいと人気の力士だ。相手は京都の巨漢、鶴ヶ峰。立会いの直後、打ち出された砲丸のように一直線に飛び出す大砲丸、ガツンと凄い音を立てて、頭からぶつかって行く。上から伸し掛かる鶴ヶ峰。だが、まさかの突然の「内無双」で、片足を持ち上げて、大砲丸が相手の巨体をひっくり返した。会場の歓声を巻き込んで気勢を上げる江戸軍団。その勢いでついに巻き返し、東がどんどん調子を上げていく。あと一勝勝てば五分のところで迎えたのは、八番目の勝負、ついにやってきた七国山対大嵐山だ。どちらも勢いのある巨漢同士、会場は一気に盛り上がる。背が高く筋肉質の七国山、彫りが深く大仏のような風貌のどっしりした大嵐山。どちらも張り手も得意技なのでそのぶつかり合いも見ものだ。

「はっけよい、のこった、のこった!」

 行司の掛け声とともにぶつかり合う巨体。七国山が押し寄せる波のような素早い張り手を何発も打ち込んでいく、それをあえて受け切り、お返しに重い張り手を打ち込む大嵐山。張り手は互角か、次に回しの取り合い、勢いで土俵際まで押していく七国山、だが土俵際で強さを発揮する大嵐山、取り組みはもつれてもつれて、最後は同体で土俵を落下、取り直しの激しい相撲となった。

「七国山—!」

 生薬屋の旦那も、もうどうかなってしまいそう、熱い声援を送る。

 取り直しの一番、正攻法で攻めてくる大嵐山に対して、七国山は一か八かの勝負に出た。変幻自在の持ち味を生かし、豪快なツッパリから外掛け、ひねり技と攻め続け、大嵐山に相撲をさせない。でも大嵐山の腰も重く、なかなか決まらない。そして最後はつり出し合戦になった。

「ウオオオオオオ!」

 七国山の力が入る。だがそれをこらえて、今度は怪力の大嵐山のつりだし、もがいてかわし、もう一度七国山が吊り上げ、と思った時その体勢から空中に浮いた大嵐山を投げたのだった。すごい、やぐら投げだ。

 だが、土俵下に落ちた大嵐山をそっと引き上げる優しさを見せた七国山。いい勝負をした相手に敬意をはらったのだった。

 最後は関脇同士、大関同士の取り組みで盛り上がり、興行としては一番おいしい五対五の引き分けに終わった。谷町の旦那たちや観客が力士のそばにいき、いろいろ声をかけていた時、役人たちはそのそばで、怪しいやりとりがないか、じっと見張っていた。大嵐山はあっと言う間に引き上げて、どこかに姿を消していた。終わってから彦六が生薬屋の旦那に会いに行くと、旦那は彦六をじっと見て、お礼の小遣いを渡しながら言った。

「うむうむ、真面目そうな子だね。またよろしく頼むよ」

 あとでもらったお金を確かめると、かなりの金額で驚いた。

「これ、こんなにもらっていいんですか?」

 半助おじさんが笑った。

「お前は、まだまだ欲が足りねえぞ。ま、それもいいか。ハハハ」

 後片付けと、明日の用意をしてやっと一人家に着いた彦六。おじさんは、谷町の旦那衆の酒の席に顔を出さないといけないと出かけて行った。

 その頃、銀水亭の離れでは、大嵐山を囲んでの尊王派の志士たちの酒の席が設けられていた。大嵐山は、さらに改良を加えられたあの鉄板を入れた鎖帷子の手袋をはめてみた。

「凄いでごわす。ちょうどぴったりの大きさでごわす」

「はは、お前さんの手形を参考にして作ったからな。よし、これで本番実行だな。おい大嵐山、お前がまた江戸に来るのはいつごろだ」

 大嵐山は少し考えてから答えた。

「あと二か月ちょっとしたら、秋の興行でもう一度江戸に来ます」

「よし、その時決行だ。大嵐山、その時は頼むぜ」

「まかしてください」

 いろいろな思惑を含んだ夜は更けて行った。ユリは、眠れない夜を過ごし、力を出し切った彦六はぐっすり眠っていた。

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