第12話 蘭学

「おじさん、今日は銀二兄さんからもらってきたアジとアサリがあるんですよ。すぐ、捌いて用意しますから」

 アジのたたきとアサリの酒蒸しが、手際よくさっとできあがってきた。

「へえ、彦六さんは川漁師の息子さんなんだ。道理で手際がいいねえ。え、十六歳? この長英が仙台藩から、東京に出てきたのと同い年だ」

「私は故郷の調布で本草学の竹仙先生に教わっていたので、江戸に出てからも本草学の勉強をしてます。楽しいです」

 すると半助おじさんがうながした。

「ほらほら、今日は俺の酒を出すんだからさ。ほら、乾杯といこうや」

 彦六はお茶でささやかに乾杯した。みんなうまいうまいとよく食べて、後片付けした後も話に花が咲いた。

「私は育ての親が、杉田玄白に教えてもらった関係で江戸に出てからも蘭学一直線だったな。その後、もっと学問を深めたくて、長崎のシーボルトの塾まで行って勉強を続けた」

 でも、勉強に打ち込むために故郷の家督を継がず、武士の身分を失い、その後また江戸に帰って医師、蘭学者として名を高めたのだという。

「あのう、もの知らずでごめんなさい。蘭学って、どういう学問なんですか?」

 長英は笑って答えた。

「すまんな。蘭学の蘭とは、長崎で日本が唯一貿易をしている西洋の国、オランダのことだ。今世界にやってくる様々な国の進んだ文化をオランダの言葉から広く学んでいく学問だ」

「え、じゃあ長英先生はオランダ語がしゃべれるんですか?」

 すると長英はにこっと笑って流暢なオランダ語を披露した。

「え、今、なんて言ってたんですか?」

「でも、その頃の私は天狗になっていた、傲慢だったと言ったのさ」

 すると長英は、荷物から何かを取り出した。投獄される前に支援者に渡しておいた医術の道具と蘭学の資料だという。そしてその資料の中の一枚を広げて見せてくれた。

「な、何ですか、これは?」

 最初は全く理解ができなかった、そしてその意味が分かり始めると好奇心の強い彦六の胸はドキドキで爆発しそうだった。

「…世界地図? これが世界なんですか? 日本は、どの辺に…」

 長英が指さしたところは端っこの小さな島に過ぎなかった…。彦六は言葉もなく、まるですべてがひっくり返ってしまったような衝撃を受けた。さらに、お隣の清国やロシア、イギリス、フランス、アメリカなどの場所やいろいろなことを聞いた。今幕府は国を閉ざしているが、その一方でそれぞれの国の歴史や国際関係、軍備の概要まで調べているのだという。蘭学は医学を中心にオランダ語を通じて西洋のいろいろな学問を学べる学問だそうだ。長英はその頃、ピタゴラスやガリレオ・ガリレイ、ジョン・ロックなどの著作も日本語に要約していたという。

「私は蘭学では誰にも負けないと天狗になっていた。傲慢になっていた。それを諭してくれたのは渡辺崋山先生だった。己の知識を世に役立ててこその蘭学である…、私は一人自己満足し、天狗になっていたせいで妬みや嫉みも受けた。すべて自業自得だった。なので牢に入ってからは、医術や蘭学を生かし、罪人の治療や牢屋の環境改善に努めた。それを続けるうちに、まわりから認められて牢名主になっていた。渡辺崋山先生が言っていたことはこういうことなのだと思い知らされた。でも、牢にいてはこれ以上蘭学は深められぬ。真に役立つにはどうしたらいいのか。そして私は脱獄した。これから日本中を回って、さらに蘭学を広めていくつもりだ」

 それはとてつもなく大きな世界を相手にする学問だった。世界は広く、あまりに広く、自分がどんなにちっぽけか思い知らされた。それと同時に限りない憧れや好奇心が沸き立ってくる。銀水亭でいろいろな話を聞く限り、まだ開国にはいろいろな問題があるようだったが、自分の生きているうちには、きっと垣根が取り払われることになるに違いない。なぜなら、人間の、知りたい、楽しみたい、新しい世界を見たいという気持ちは止めることはできないのだから…。

「これこれ彦六、その辺にしておかないか。明日の朝は早いぞ。先生も疲れてらっしゃる」

「はい、すいません」

「いいや、私も楽しかった」

 三人は早めに寝て明日に備えた。


 次の日、朝早く小太郎がやってきた。もうなぜかあやしい中国人の服を着て、黒子の服を持ってきたのである。

「ほう、ちょうどいい大きさだ。さすが、小太郎の見立てだ」

「いやあ、半助さんの覚悟を知りましたから、こっちも気合入れてますから…」

「あとは呼び名だな」

「へえ、うちらの仲間じゃ、黒子は黒一、黒二、黒三と決まってまして、先生にはすみませんが黒三ってことでよござんすかねえ」

 すると長英はにこっと笑ってうなずいた。

 やがて、陽気な半助が扇子を持って先頭に立ち、そのあとを怪しいドジョウひげの中国人、そのあとを顔が見えない黒子、最後が彦六という、不思議な団体が長屋を出発した。朝早い長屋のおかみさんたちも、楽しそうに送ってくれた。

 なんだ、あれは? 今度半助さんは何の見世物をやるんだ?

 何の騒ぎだと戸口から外をうかがっていた藤巻も、まさかその行列に長英がいるとは疑いさえ持たなかった。

 やがて誰もいない小屋に到着。小屋の下準備と出し物の用意が始まる。少しすると、長崎からやってきた唐人踊りの一座がやってくる。唐人踊りと言っても、内容は多岐に富んでいる。

第一部は美女の剣舞、中国の珍しい楽器演奏の前で、美女が危険な剣を持って踊る。

第二部、手品、三人の美女が踊りながら数々の手品を披露。

第三部、獅子舞。美女たちが中国の獅子舞いに変身して曲芸もする。

 そして打ち合わせの結果、長英の黒三の仕事も決まった。唐人踊りの最後の見せ場で出てくる唐人獅子舞の準備と片づけだ。黒三は、自分から進んで一座に教えを乞い、踊り子たちに迷惑がかからないよう、一通りの仕事を身に着けたようであった。今日はこの小屋で、半助が呼び込みを、彦六はお金の管理と帳簿つけをやることになっていた。

 だが、長英を守ろうと一生懸命な彦六たちのそばで、別の怪しい者たちが動き始めていたのだ。

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