第11話 脱獄

「そろそろ時間だが…」

 男はまだ半信半疑で、ただ静かに座してその瞬間を待っていた。その時、どこからかきな臭いにおいが立ち込めてきた。男はさっと立ち上がると牢屋の出入り口に向かってゆっくりと歩き出した。

「妙なにおいがする。きっと火事だ、牢番はどこだ、早く見に行ってくれ」

 すぐに看守が一人駈けてくる。

「黙れ黙れ、落ち着け、今ほかの者が確認に行っている」

「煙に巻かれてからでは遅い。早く出してくれ」

「いい加減にしろ! お前さんも牢名主ならじっとしていろ」

 牢の格子越しに看守の持っていた棒で胸を突かれ、男はもんどりうって、転がる。だがその直前、男の手には小さな紙切れが渡されていた。男は誰にも見られないようにその紙切れをちらっと読むと、それをすばやく懐に隠した。だが時間とともにほかの罪人も騒ぎ出した。

「おい、冗談じゃないよ。煙が入ってきやがった、こりゃ、本当の火事だ」

「大変だ、本当に火事だ、開けてくれ、早く出してくれ」

 やがて看守たちがぞろぞろと全員集まり、まじめな顔で罪人たちの避難を始めた。それぞれの牢の牢名主が、騒ぎに乗じて逃げるものがいないように、看守に従って目を光らせた。

 紙切れを渡された男は素知らぬ顔で列の先頭に立って外に出た。逃げようと考えたものもいたが、今夜は月が明るいし、外は外で門は閉ざされ、高い塀に囲まれてどうにもなるはずはなかった。そのうち、牢のある建物から炎が上がり半鐘が鳴り始めた。だがあの男はさっと隙を見つけて、裏門へと走り出した。紙切れの地図によると裏門のそばから逃げられるらしい。だが近づくと、大きな裏門はしっかりしまっているではないか。

「しまった! これは…あ、これだ」

 なんと裏門のそばの茂みの中に、はしごが横たえてあるではないか。男はすぐその梯子を使って外に出ると、はしごを外して、塀の外側に隠してしまった…。さすがに逃げたことに気が付いたのか、中で役人たちの騒ぐ声が聞こえてくる。

「急がねば…」

 男は最後にもう一度紙切れを見ると、人影のない水路の方へと走り出した。

「…もし、高野様ですね」

 敵か味方か慎重に声の方に歩くと、そこに見たことのあるような若い男が待っていた。

「沢内松庵の弟子の、橘と申します。こちらへ…着替えもすべて用意してございます」

「すまぬ…」

 二人の男は闇の中へと消えて行った。


「おおう、彦六、今日は急に呼び出して悪かったな」

 銀二兄さんが珍しく彦六に詫びた。今日はもともと予定にない日だった。

「いいえ、今日、あっちの仕事は昼で終わりでしたから、夜はまるまる空いていたんです。それより急な仕事でも入ったんですか?」

 実は昼間にお侍がやってきて、金は出すので、完全に人払いをしてほしい、亭主の銀二や、身内だけで、ほかのものは一切近づけないでくれというのだそうだ。

「今日は、ほかにも上得意のお客様が多く予約をとっていてな。これはもう、お前を呼ぶしかないと、うちのお夕とも話し合ったわけさ」

「わかりました。そういうことなら頑張ってお手伝いしますよ」

「悪いな。助かるぜ」


 やがて、幕府の役人風の目つきの鋭い男たちが三人、離れに無言でやって来た。そして少し遅れて周りに気づかれないように、離れに直接浪人風の男がやってきた。

「…藤巻さん…?」

 彦六は後で何かもめごとがあると困るので、離れに入ろうとする同じ長屋の藤巻を、離れの入り口で呼びとめた。

「おや、彦六か。こんなところで合うとは奇遇じゃな」

 彦六はここは親戚の銀二兄さんがやってる店で、自分は身内として手伝いに来ている、今日は離れの担当だと、素直に打ち明けた。すると藤巻は

「あいわかった。これからここでお前が見聞きすることは、他言は無用。わかっているだろうが、もちろん長屋のみんなにも、一切俺の身分も何もかも黙っていろ。いいな」

「はい、すべて心得ております」

 そして離れに入って行く藤巻。中では三人が待ちかねていた。

「どうじゃ、あたりはついたか? 急なことですまなかった」

「高塚さま。一応後でくわしく説明しますが、とりあえずこの紙に怪しい輩は書いておきました。渡辺崋山と以前蘭学の研究をしていた学者たちです。どうぞ」

「うむ。ご苦労であった」

「ただ、急なご依頼、何かあったのですか?」

「まだ、できるだけ秘密にしてほしい。おととい六月三十日、蛮社の獄で終身刑となっていた高野長英が、牢屋に火をつけ、その騒ぎに乗じて脱獄した」

「高野長英が? 脱獄? まさか。まだ捕まっていないのですね…」

「もともと渡辺崋山や高野長英を守りたい、なんとか救い出したいという蘭学者たちはたくさんいる。そのつてを頼って逃亡しているようなのだ」

「…なるほど…」

 話は数年前までさかのぼる。保守的な儒学者と蘭学者の対立や、開国派と攘夷派の対立、幕府の中の勢力争いなど、いろいろな要素が絡み合い、「蛮社の獄」の事件が起きた。開国を迫って動き出した欧米の国々、日本の漂流民を日本に引き渡す代わりに通商条約をちらつかせたモリソン号事件は大きな波紋を呼んだ。大砲で外国船撃ち払ったその時の幕府の対応を非難した渡辺崋山や高野長英が牢獄につながれた。渡航計画の濡れ衣を着せられた町民たちも一緒に罰を受けた事件であった。渡辺崋山は周囲の働きかけにより故郷に一度は帰ったものの、苦しい立場に追い込まれて自刃した。高野長英はそのまま牢獄でおとなしくしていたかに見えたが、なんとおととい脱獄したというのだ。

 彦六は、なんとなく聞こえてくる会話に耳を澄ませたが、中身が難しく、あまりピンと来ていなかった。だが一つ確かなことは、あの長屋の仲間の浪人、藤巻は幕府の隠密というやつらしい。この間一緒に花見に行ったばかりだったので本当に意外だった。料理や酒を言われるままにふるまい、緊迫した雰囲気の中で時間だけが過ぎて行った。だがそのうち、聞き捨てならない言葉が聞こえてくるのだった。高塚と呼ばれた役人が、藤巻の書状に目を通しながら話し始めた。

「蛮社の獄のあと、どの蘭学者も、渡辺崋山や、高野長英などとは会ったこともないと知らぬ存ぜぬを通していたが、いまだ奴らを信奉する蘭学者どもはこの江戸にこんなにいたか。うむ? この沢内松庵と、相沢竹仙というのは聞いたことがないが、何者だ?」

「蘭学者とは系統が違う本草学者たちです。去年の秋も物産会を開いております。でも、学術を究めたいのは同じ、西洋の進んだ知識を学びたいのも同じ、大まかな方向では開国派に近い位置にいて、渡辺崋山や高野長英とも親交があったと聞きます」

「なるほど、これは見落としていた。さっそく当たってみよう」

 彦六は呆然として厨房で立ち尽くした。でも気づかれてはいけない。普通にもてなしを続け、何事もなく、その夜は早めに終わった。まさか松庵先生や竹仙先生が関わっているはずはないが、あのお役人たちが捜査にやってくるだけでも大騒ぎになるに違いない。でも、ここで見聞きしたことは、絶対口外できないのが掟だ。うかつにしゃべれば、それが松庵先生であろうと許されない。発覚すれば銀水亭の看板に泥を塗ることになる。一体どうしたらいいんだ。心が落ち着かない彦六は、悩みに悩んだ末帰りに銀二兄さんとお夕さんに、苦しい心の内を打ち明けた。

「えらいぞ、彦六。よくぞ打ち明けてくれた」

「さぞ苦しかったでしょうね」

 二人ともやさしく応対してくれた。

「これからも、耳に入ったことで悩んだら、俺に言ってくれ。それは秘密にしておいた方がいいのか、それとも銀水亭の看板が傷ついても大声を出した方がいいのか、俺が決める。つまり、俺が決めておれが責任を取るってこった。お前さんが悩むことはねえってことだ」

 彦六は少し安心して、そして言葉を続けた。

「では私はどうしたらいいのでしょう…。松庵先生にすぐに知らせに行った方がよいのでしょうか。それとも…。」

 すると銀二兄さんは一度お夕さんに目で合図を送ってから結論を言った。

「二、三日我慢してくれ。そんな大物が逃げたとなっては、二、三日もすればもう江戸中に知れ渡っているさ。すぐに秘密でもなんでもなくなる。それに第一、相手がお上じゃあ、俺たちにはどうしようもできない。下手に手を出せば今度はこっちが牢屋行きだ。万が一高野長英の脱獄事件に先生方がかかわっていたとしても、もうお前が教えるまでもなく、役人に気づかれないような手を打っているはずだ。どうしても先生方が気になるなら、それとなく見に行くんだな。自分の目で見てなんでもないことがわかればもうなやむことはないさね」

「…そりゃあ、そうですよね」

 言われてみれば当たり前のことばかりだ。二、三日待っていよう。相談してよかった。だが二、三日待っているなどと悠長なことは言っていられなくなる。長屋に帰ると、大変なことになっていたのだ…。


 長屋に着くとぼんやりと灯りがついている。あ、半助おじさんが帰ってるんだ。おや、話し声だ、この感じだと今日も小太郎さんが一緒かな?

「ただいま、彦六、帰りました。あれ…」

 すると半助おじさんが戸口まで出てきて彦六に行った。

「おかえり、早かったな。小太郎も来てるぜ。それとお前に大事なお客様だ」

 狭い部屋に上がると、意外な顔が待っていた。

「あ、小太郎さん、今晩は。あれ、橘さんじゃないですか?」

 そして橘の横には少し頬のこけた端正な顔立ちの中年の男が黙って座っていた。

「これって、もしかして…」

 すると半助おじさんが確認した。

「彦六、お前のお世話になっている松庵先生のところの橘さんに間違えはないな」

「はい、橘さんに間違えはないです」

「いやあ、よかった。ついに彦六を引き抜きに竹藪の寅吉の手下が来たかと思ったぜ」

 半助おじさんは急に落ち着いて、ほっとしたようだった。すると橘は急に深く頭を下げて、頼みごとをしてきた。一緒に連れてきた男を二日だけかくまってほしいというのだ。すると半助おじさんがやさしく問いかけた。

「このかわいい彦六がお世話になっていると聞きゃあ、いくらでも力は貸そう。だが、すまねえがあんたらは身を隠しながらここにやってきた。この部屋に来たときはかなり息も上がっていた。いったい、何があったんだい。こちとらも彦六を預かる身だ。口は堅いよ。サムライが刀振り回したって、秘密は必ず守る。責任を持つからには、わかる範囲でいい、わけを話しちゃくれまいか」

「…あの…それは…」

 橘は困った顔をして、しどろもどろになった。絶対に秘密を守るのだと固く言われているのだろう。すると隣に座っていた男が、話し始めた。

「もういいですよ、橘さん。本人がしゃべれば何の問題もないでしょう」

「先生、お待ちください、お考え直しを」

 しかし男は続けた。

「半助さん、どうやらあなたは信頼できる人のようだ。きちんと話しましょう。私の名前は高野長英、医師で蘭学者です」

 一瞬部屋を静けさが包んだ。半助おじさんたちも高野長英の名は聞いたことがあるようだった。

「私は国を閉ざし、西洋文明までを遠ざけようとする幕府に物申したため、渡辺崋山先生たちと牢獄につながれました。私は終身刑でした。でもおととい、協力者の手引きにより伝馬町の牢に火をつけ、その騒ぎの間に脱獄したのです」

「脱獄?」

 さすがの半助おじさんもちょっと顔色が変わった。

「そうです。私は脱獄した罪人です。それではまずいと思われるなら、迷惑にならないよう今すぐ、ここを立ち去ります」

 やはり、結果として罪人をかくまうことになるのか? 彦六はまた自分が原因で大変なことになって胸が張り裂けそうだった。だが半助おじさんはきちんと男の目を見て答えた。

「高野先生、よく話してくださった。ありがとうございます。あなたのことは、彦六の親代わり、この半助が引き受けました」

 彦六は半助おじさんをこの時初めてかっこいいと思った。

「それで橘さん、なんでこの長屋に逃げ込んできたのか、話してもらえませんかね」

「はい、それは」

 実は脱獄した高野長英を、おととい、昨日、今日と松庵邸に隠し、そろそろ危なくなったので、夜陰に乗じて仲間の学者のところに送りに行っていたそうだ。つい先ほどの話だという。だが、あと一息で到着というとき、その学者の家の使用人がそっと近づいてきて、もう役人が見張っている、すぐ帰ってくれと連絡してきたのだ。

「危なかったです、あともう一つ角を曲がっていたら、見つかっていたでしょう」

 しかも使用人の話では、松庵邸のことも役人たちは口に出していたというのだ。松庵の家も危ない…。

「それで私たちは進むことも帰ることもできずに進退極まりました。手筈では本当ならその学者のところに二日間滞在し、そのあと、一時江戸を離れる計画でした。明後日の夜に仲間が迎えに来る予定です。それまで自分たちはどうしたらいいのか? でもその時思い出したのです。春の花見の時にこの長屋に来たことを。しかもまっすぐな彦六さんなら、きっと助けてくれる、そう思ったのです」

「彦六、お前さすがだぜ、進退極まったときに思い浮かんだのがお前ってことは、どれだけ信頼されているか…。…でもこの長屋にも浪人だがお侍がいるし、けっこう人の出入りも多い、しかも明日明後日は俺も彦六も、見世物の仕事だ。そんな大事な先生を、ただここに置いておくのはちょっと心配だ…」

 彦六はその時、心の中で叫んだ。しかも長屋のお侍、藤巻さんこそ高野先生を追いかけている幕府の隠密の一味だと…。でも、もどかしいが、それはまだ言えない。ああ、やっぱり長屋は危険だ。ここには置けない…。

「彦六、どうだ、先生を長屋に置いておくのは…?」

「あぶない、危ない。絶対にやめた方がいいと思いますよ!」

「じゃあ、なんかいい知恵あるかい?」

 すると彦六はちょっと考えて、小太郎に頼んだ。

「やっぱり、いくら変装をして着物を着換えても、顔を見られたら終わりです。ほら、小太郎さんのところに顔を隠した人たちがいたじゃないですか?」

「え、なに? ああ、あいつらか、今も唐人踊りの舞台で働いてるさ」

 そう、顔を隠しても怪しまれないもの、それは黒子だった。

「でも、どうなのかなあ? それは可能だけれど、半助さん、どう思いますか?」

 すると半助おじさんが言った。

「へえ、そりゃあ案外いいかもしれねえぞ、まさか高名な学者先生が見世物小屋で黒子やってるなんてだれも思うまいさ」

 決定だった。小太郎はさっそく用意をしてくると言って一足先に部屋を出た。

「橘さん、きっとみんなあなたと先生の行方を心配しているぞ。それにいるはずの人がいないと何かと勘繰られる。俺を信じて、何事もなかったふりをしてそっと松庵先生のところに帰って様子を見た方がいい」

 そして半助おじさんは明後日の夕方に、見世物小屋のそばで高野長英を次の人に受け渡す約束をして、橘をかえした。

 そのあと、彦六は生涯忘れられない一夜を過ごすことになるのだ。

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