第二部「運命の対決」

第10話 長屋の花見

 そして秋は深まり、冬が近づく。彦六は冬眠前の一番脂ののったウナギを菊次郎親方に何度か届けて株を上げた。寒くなっても、彦六は暇さえあれば松庵邸に通い、本草学の研究会にも積極的に顔を出した。さらに松庵の本業である漢方の勉強も一生懸命に取り組んだ。新年は一度調布に戻り、久しぶりに家族でご馳走を食べた。江戸に戻ってからは、頼まれて色分け興行暦をいくつも作って喜ばれた。この頃から江戸文字もかなり憶え、彦六は裏方の事務や書類の制作、看板や客寄せ版画刷りなどの仕事を本格的に引き受けるようになった。

 もちろん銀水亭にも定期的に通い、最近では銀二兄さんに銀水亭の味を徹底的に叩き込まれた。魚の扱いは板前以上だと誉められたが、一から覚えなくてはならなかったのは、唐揚げや天ぷら、お吸い物などだった。

 そしてある日、最初の料理から、最後のお茶まで一人でやってみろと離れを任せられたのだった。

 その日、離れにやってきたのは、浦賀から来たという中島三郎助というお侍の一行だった。

「彦六と申します。不慣れなものでご無礼をおかけすると思いますが、心をこめて務めさせていただきます」

「うむ。よろしく頼むぞ」

 三郎助は仲間の若い武士たちと、日本の将来をいろいろ語り合っていた。驚いたのは、三郎丸の経歴だった。聞こえてくる話をまとめると、あの竹仙先生が言っていたモリソン号事件の時、実際に大砲を撃ってアメリカ船のモリソン号を追い払い、褒美をもらったのだそうだ。

「眠れる獅子であった大国清国もイギリスにまんまとやられてしまった。何も手を打たなければ、日本も危ない!」

 三郎助を中心に、この三人で砲台の整備や西洋式軍艦の建造を幕府に働きかけてきたというのだ。

「ほう、彦六とやら、お前は若いのに実に手際がよいなあ。かなり修行を積んだのか」

「はい、修行も積みましたが、もともと川漁師の家の出なので、魚は得意なんです」

 今日は初めての天ぷらも上手く揚がり、銀水亭の名物のしじみ汁もいい出来だった。酔っぱらった三郎助の仲間、高橋陣内がいい気分で彦六に絡んできた。

「彦六とやら、お前に志はあるのか?」

「は?」

 …どうしよう、まともに本草学を極めたいとか答えるほうがいいのだろうか、それとも黙って聞いているほうがいいのだろうか。

「おい、陣内、お前が突拍子もないことを聞くから、彦六さんが困っているぞ」

 すると陣内はまたしつこく別のことを聞いてきた。

「ではこれならどうだ、幕府の行っている鎖国は是か非か?」

「すまんな、彦六殿。相手にしなくていいぞ」

 しかし、彦六は明るい声で話した。

「外国を追い返すか、開国するかなど難しい話は分かりません。でも、新しい学問、技術、新しい海の向こうの世界を見たいという気持ちは、私なら抑えきれないでしょうね」

「なんだと! そんなことで我が国を守れるのかあ」

「うるさいぞ、陣内。彦六さん、夢のあるいい話を聞いた。私にも夢がある。外国に引けを取らない砲台や西洋式の軍艦をこの手で造り上げ、外国と対等に向かい合うことだ」

「すごい夢ですね。いつか出来上がった三郎助さんの西洋式の軍艦を見てみたいです」

「約束する。そのかわりいつの日か、それが実現したら絶対見にきてくれ。ハハハ」

 その日の宴会は最後は和やかに終わり、みんな気分よさそうに帰って行った。彦六はさらに腕を磨き、銀水亭にもなくてはならぬ助っ人に成長していった。


 やがて春、染井村の金蔵さんの新種の桜を見せてもらいに長屋のみんなと花見に出かけた。

 荒川の土手のそばにある金蔵さんの農園を一日貸切にしてくれるというのだ。朝早く、長屋を珍しい顔ぶれが訪れた。松庵の弟子の橘・酒井、そしてユリだった。彦六が桜の新種が見られるらしいと教えたところ、ユリの提案で弟子たちも見学に行くということになったのだ。

「へえ、彦六さんの長屋はいいところですねえ。みんないい人たちばかりだ」

 今日は橘もずーっと笑顔だった。体の大きい酒井は荷物を運ぶのにも重宝がられ、大人気だ。そしてみんなで金蔵さんの農園に着く。いろいろな花が咲いているが、ほとんどが桜の新種なのだという。貸切なので一番いい場所に席を取り、すぐに宴の始まりだ。福蔵さんが酒やご馳走を大盤振る舞いし、小春師匠の三味線が鳴りだすと、男たちは酒に酔い、女たちは踊りだし、大騒ぎだった。あのいつもは怖い、浪人の藤巻さんさえ、ほろ酔いで歌を歌いだして上機嫌だった。

 みんなが飲んで騒いで楽しんでいる間に、彦六は食べるだけ食べると、一緒に行った橘や酒井とともにみんなとすこし離れて、金蔵さんの話を聞いていた。ユリの策略は、この日もずばりとうまく行き、ユリは誰にも遠慮せず彦六の隣で桜を見ることに成功! 彦六は、数十種類植えられた、江戸桜の品種をいろいろと絵にしたため、本草学の研究に生かしたのであった。その中には染井吉野や虞美人などの江戸桜の新種も含まれていた。

 そして灰色の雲が低く垂れこめ、梅雨が始まる。だが、ついにこの頃から、見世物の敵の黒幕、竹薮の寅吉が、はっきりと菊次郎親方に反旗を翻した。あこぎな引き抜きや買収が横行し、気が付いた時は寅吉の勢力は菊次郎親方と同等のところまできていた。菊次郎派の半助おじさんは興行の仕事以外にもめごとの解決のため、夜中でも雨の中でも駆け回ることが多くなり、少し疲れ気味になっていた。

 ある夜、いつもは一人で帰ってくる半助おじさんが二人連れで帰ってきた。

「ごめんな彦六、いい女でもつれてくりゃあいいんだが、例のハゲ親父、タコの小太郎だ」

「タコじゃない、それにハゲじゃないですよ。ほら、けっこう毛が生えて来たでしょう」

 それは竹藪の寅吉の小屋であった坊主頭の役者、小太郎さんだった。

「…実はなあ、タコは、今度はドジョウになったのさ」

 見ると、小太郎さんは今回はおかしなドジョウひげを生やしている。

「あ、ひげねえ。今、別の小屋で唐人踊りをやっていて、踊り子たちを紹介する中国人の役なんでね」

 小太郎さんはそういうと髭を指で触りながらあやしい中国語を話して見せた。大笑いだ。もともと陽気な半助おじさんに表情豊かな小太郎さんが加わると、なんだか芝居でも見てるようで笑いが絶えない。でも、問題は深刻だった。あの小屋の座長をやっていた定吉は蛇女の一座ごと、竹薮の寅吉の新しい組織に入り、もう会えない状態だという。

「定吉はもともと真面目な奴で金勘定とか帳簿とかが得意で寅吉もそこに目をつけていたらしい」

 寅吉は青竜の菊次郎親方の組織から抜けたのをいいことに、隠し部屋を復活させ、しこたま儲けているという。このままでは見世物はゲテモノで公共の風俗に反するものとしてまた取締りを受けるかもしれない。

「仲間が、どんどん寅吉の方に行っちまうんで、俺もしばらく悩んでいたんだ。そうしたら半助さんが声をかけてくれて。まあ昔から半助さんには世話になってるし、それに半助さんはいつも陽気でやさしくて、怒鳴られたことなんかないからなあ」

「まあ、俺たち金も力もないが、二人力を合わせれば何とかなるんじゃないかってね。ハハハ」

 こんな時でも半助おじさんは陽気だ。でも、問題はたびたび起こり、小太郎さんがおじさんと一緒に帰ってくることはだんだん回数が増えていくようだった。

 そして雷とともに梅雨が明け、いろいろなことが大きく動き出していた。

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