第9話 物産会

 その日の朝、松庵はいつものように早起きして、庭の漢方の薬草や季節の花を見回ってきた。そして朝食の後、弟子たちと今日の大仕事の打合せを行った。そのあと、休む間もなく、書斎にこもり、話し合いをもとに、当日の展示物の配置図を最終決定することにした。昨日の夜まで何日もかかって考えた何枚もの配置図の下書きを見て、最終的に一枚を選び出すと、大きな紙にさらさらと清書を始めた。

 しばらくすると世話好きの妻がお茶を持ってやってきた。

「あなた、あまり根を詰めると体に毒ですよ。夕べも何回も起きてなにかやってらしたでしょ」

「気づいておったか。どうも作業日なので落ち着かなくてな」

 すると妻は笑いながら言った。

「そういえば、もう一人、なんだか落ち着かない人がいるようですねえ」

「もう一人?」

 その時、書斎に娘のユリが入ってきた。

「父上、今日の連絡役として伺いました。今日の作業はすべて予定通りに始めるということでよろしいですね」

「うむ、予定通り執り行う。ああそうだ、ちょうどおいしいお茶が入ったところだ、まあ、一杯飲んで行け。まだ時間はあるじゃろ」

「よろしいですか?」

 母親は黙ってユリの分を注ぎ、そっと笑いながら部屋を出て行く。

「もう一人いる…か…」

 なるほど、お茶を飲みながらも娘が何か落ち着かない様子ではある。ちょっと気になり、声をかけてみた。

「おい、ユリ、なにか気になることでもあるのか?」

「いいえ…もしそう見えるなら、今日が物産会の作業日だから。この間みたいに、書物が紛れるような手違いが出ないかどうか、なんか心配で…」

「そういうことか。今日はよく話し合っておいたから、大丈夫だろう。お前まで心配しなくてよいぞ」

「ありがとうございます、父上。もう平気です」

 でも、それは嘘であった。ユリは気付かれないようにと思いながらもそわそわして落ち着かなかった。今日は大阪から物産会の展示物が届く作業日、そしてあの彦六が松庵邸に再びやってくる日だった。

「…ああ、彦六さん…!」

 思えばあの日、最初に彦六とくず屋の武三が確めに来た日も、すぐ裏口のそばから様子をうかがっていたのだ。クズ屋から荷物を確かめに来てくれる人なんて、どんな人なのかとちょっと見に行ったのだ。するとていねいに名乗っていたのは自分と同い年ぐらいの彦六であった。どうしてあんな若い人が、父親の研究している書物を…? 何か感じるものがあって、父親に報告し、さっそく福蔵さんのところに行くと、本当にまっすぐな若者で下心もなにもない様子だった。ユリはその時、この人だと思い、その場で策略を練り始めた。明日の作業日に呼び出せば、みんな忙しいから自分が案内をきっとできる。だから明日絶対来てもらおうと。そのもくろみは見事に当たり、家にも呼べたし、ちゃんとお話もできた。でも残念なのは、どうも彦六の興味は、自分よりも父親や物産会にありそうなことだ、ユリは今日も細かい策略を用意し、彦六を待っていた。

 自由に動ける連絡役に名乗り出たのも、その一つだ。…でも、気づかれてはいけない。やりすぎてもいけない。自然に、偶然そうなったようにふるまわなければ…。

 ユリはありとあらゆる場合の、ありとあらゆる受け答えを前の晩に考え、朝からきちんと身なりを整えその時に欠けていたのだ。

 でも、そんなことばかり考えていてはいけないという別の心の声も聞こえてくる。

「…自分では迷惑と言いながら、三大美人の一人だと囃し立てられいい気になっていたのではないか。そうしたら自分より学問に興味を持つ若者が現れて、悔しがっているだけではないのか。そうだとしたら、自分もどうかしているし、相手にも迷惑をかけるだけだ…もっと頭を冷やすのよ…!」

 でもさらにまた違う声も聞こえてくる。

「きっと彦六さんを好きになったんだわ。でも彦六さんとすぐに祝言をあげたいとか、そういうのじゃない。じゃあ、何をしたいの? もっと、庭を一緒に歩いたり、本草学のお話をしたり、そんなことかしら…やっぱり、本草学に燃えている彦六さんの姿も好きだし…。だったら何もしないで、ここで本草学を勉強する彦六さんを応援していればいい。その方が長い間いい関係でいられるような気もするし…。でも何か物足りない。でも、何かが違う…。やっぱり…」

「ユリ…お前まだ、何か…?」

「いえいえ、もう、なんでもありません」

 そしていろいろ考えているうち、結局、さらに落ち着かない様子になるわけであった。

 やがて少し早めに彦六が到着した。

「早いわ。今日もやる気まんまんね。予想通りだわ。すぐ迎えに出なきゃ」

 玄関に行くと、ズタ袋を提げて緊張した面持ちの彦六が立っていた。ユリは自分が連絡係だと知らせ、困ったことは何でも言ってくださいと告げた。

「ところで、その袋の中は何が入っているんですか」

「はい、昼に食べるおにぎりと…」

「あら、働いてくれる人のお昼はこちらで用意しますのに…」

「そうでしたか、持ってきてすみません。それと本草学の教えを受けるときは墨や筆、色絵具をいつも持ってきてたもんで」

 ユリは誰にも気づかれまいとなんでもないように彦六を案内していたが、もう心臓はバクバクだった。

「父上様、彦六さんが到着しました」

「松庵先生、今日はお呼びいただいて光栄の限りです。精いっぱい頑張ります」

「では、私が、離れの方を案内してまいります」

 だが松庵は手を伸ばすとユリの言葉をさえぎった。

「まあ、よいではないか。彦六殿、ちょっとこっちに来て知恵を貸してくれ。ユリ、悪いが橘と酒井をすぐこの書斎に呼んでおくれ」

 橘と酒井は松庵の弟子で、この間武三と来た時も接待してくれた若者たちである。やがて二人がなにやら資料を持って入ってくる。松庵と高弟の橘、酒井が並べばすごいメンバーなのだが、やはり世間知らず怖いもの知らずの彦六はまったく気後れすることなく話し合いに参加していた。

「ではこれから、作業前の最終打ち合わせを始める。先ほどの会議の決定に従い、展示物のおおよその配置図は、わしが仕上げておいた」

 そう言うと松庵はさきほど清書していた屋敷全体の展示図をみんなにみせた。すると聡明そうな橘が細かい文字の書かれた資料を取り出し、説明を始めた。

「これはもともとこの松庵邸に所蔵してあるもので当日の展示予定のものをまとめた目録です。このあいだのような間違えが起きないように、今日届いたものも分類別に同じようにこれから目録を作ります。そして、先生のお書きになられた展示図のどの辺に展示するのかをあらたに書き加えておけば、間違えは起きず、当日展示する際も能率がよいかと考えます」

「ふむ、わしが思うに、また新たに分類別にまとめると、かえって煩雑になるのではと思うが。酒井、おぬしの意見はどうじゃ」

すると背が高くがっしりした酒井は率直に言った。

「やはりそのようなしっかりした目録があればこの間のようなことは起きますまい。しかし、今日はそれでいいとして、問題は物産会の当日です。当日は、手伝いの人や外部のものも多数入ってくる。でも、そのたびにいちいちこの目録を確認するのはそれこそ煩雑かと思われます。展示場所も離れの奥の間、離れの大広間、離れの前の庭の日なた、前庭の木陰、さらに一部は東の池の脇の漢方植物園と何か所もあり、けっこう大変ですよ」

「なるほど、問題は当日か。午前中に展示品を運んで展示して、昼から物産会じゃな。その目録をさっと見て、だれでもすぐわかるとは思えんしな。さて彦六はどうじゃ。なんでも感想を言ってみなさい」

「はっきり言って、私のような未熟者では、その目録を一目見て必要なものを探したり、展示品をその場所に持っていくのは、難しいです」

「やはりな。なにかもうひと工夫じゃな」

 だがみんなが頭を抱えた時、彦六はさっと半紙と絵具を取り出しながら、話し始めた。

「…誰にでもわかりやすいように色分けはどうでしょう」

 それは、暦づくりの時半助おじさんに教えてもらった色つきの短冊の応用であった。

「たとえば、奥の間を赤、大広間を桃色、庭の日向は明るいから黄色、木陰は緑、池のそばは青と、色分けをして、先生の地図に場所の番号をふっておきます。例えば緑の三番なら、庭の木陰の右から三番目に展示すると…これなら、私のような者でも直ぐにその場所に展示できます」

 するとすぐに酒井が反応してきた。

「ふむ、わかりやすいぞ。いっそ色つきの番号札を目録に合わせて作り、展示物に貼っておけば、誰でも展示物を並べられる。橘、どうかな?」

 すると橘もすぐに対応する。

「そうか、それなら目録の分類を展示場所ごとの色別に最初からしておけば早い」

 がぜん、話し合いは盛り上がってきた。みんなが話し合っている間に、あっという間に彦六が絵具で色別番号札の見本を作り、またそれについてみんなで話が盛り上がるいい展開だ。

 だが、ユリはちょっとがっかり、男たちに彦六を横取りされたような気分だ。

「みなさん、そろそろ大阪の展示物が届きます。いかがいたしましょう?」

「あ、ユリさん、離れで待っている手伝いの人たちに言ってください。予定通り、今すぐ始めますと…」

 橘が立ち上がり酒井と彦六に手早く番号札づくりを指示した。

「じゃあ、これから展示物の搬入とともに、俺は、支持をしながら新しい目録作りを離れで始める。場所の色別分類でね。そっちも用意ができたら、すぐに来てくれ」

「承知」

 やがて、人足たちに運ばれて、大阪から船便で運ばれたという大きな荷が届く。いくつもいくつもだ。でもこれだけではない。生きた動物や植物は、当日に届くものがほとんどなのだ。橘がすぐに確認し、目録に書き加え、みんなの手で一時的に離れの大広間に整理されて運ばれる。すると彦六と酒井が目録の色分け分類を確認しながら番号札を荷物一つ一つに取り付けていく。

 仕事が半ば終わると、離れで昼ごはんだ、松庵の妻が、ユリや使用人と作ったおにぎりや味噌汁がふるまわれた。昼を狙って彦六用におにぎりを握って置いたユリは作戦の練り直しをしていた。

…彦六さんは自分でおにぎりを持ってきたっていうから、最初から勧めるのはおかしいし、一応食べ終わった頃に勧めに行こうかしら…でも彦六さんにだけお代わりのおにぎりを勧めるのもおかしいし…ええっと…。

 娘がまたまた落ち着かないのを見ると、母親は声をかけた。

「ユリ、この大広間の人の味噌汁は私とお手伝いでやるから、向こうの縁側にいる橘さんたちのところにお味噌汁を運んでもらえる?」

「喜んで」

 ユリは、味噌汁を入れたお盆に、自分の握ったおにぎりをちょこんと載せて橘たちのところに運んだ。

「お味噌汁をどうぞ。それから…私もおにぎり握ったんです。まだ食べたい人はどうぞ」

 橘たちは松庵を囲んで、今日運ばれてきた大阪からの荷についていろいろ話していた。

「いやあ、予想以上に大きいね。あの屋久島から取り寄せた杉の一枚板は」

「今日は布にくるまれたままだからわかりにくいが、巨木の一部らしいぞ」

「へえ、はやく中を見てみたいものですね」

 彦六もそういって、自分の持ってきた握り飯を口に運んだ。でももうちょっとで食べ終わる。その時が声のかけどころだとユリは待ち構えていた。

「おいユリ、味噌汁がおいしくできたじゃないか」

 上機嫌の松庵が味噌汁をほめる。

「ええ、蝦夷のコンブと土佐の鰹節でていねいに出汁を取りましたが、なんといっても研究仲間が送ってくれた仙台味噌を使ってますから」

「ふうむ、やはり仙台味噌は、大豆を蒸し揚げる製造法のせいか、味に深みがあるように感じる。よいかみんな、書物を調べ、目で見るだけでは本草学は極められん。触って、香りやその味を体験することも大事なこと。さあ、食べた、食べた!」

「なるほど、酒井、この味噌汁は格別だぞ」

 橘の言葉に体の大きな酒井は、味噌汁を味わい、うまいうまいと言いながら、さらにユリのおにぎりを、一つ、二つとぺろりと食べてしまった。しまった、彦六さんに食べてもらう前におにぎりがなくなってしまう。酒井なんか嫌いだ! でもおにぎりを二つ食べ終わった酒井は言った。

「彦六さん、お嬢さんのおにぎり、ふわっと柔らかくておいしいですよ。あなたもおひとつどうぞ」

 すると彦六の手が伸びて、最後のおにぎりをつかみ、ニコッと笑ってユリに挨拶するとぱくっと食らいついた。

「あ、うまい。コンブの佃煮ですね。こりゃうまいや」

 その時の彦六のおいしそうな顔が飛び込んできたとき、ユリは体中が震えるほどうれしかった。やっぱりお手柄だ、酒井、お前を許そう!

 ユリはやったという達成感とともに静かにその場を引き上げて行った。なぜなら、まだ絶対誰にも気づかれたくなかったからだ。

 さて、その日はみんなの活躍もあって、夕方までかからずに作業は終わった。松庵とユリにさようならを言うと、わざわざ橘と酒井も送りに出てきた。

「彦六さんは、まだまだ若いがトンチも効くし、仕事が早い。今日は助かりました」

 そう言って橘がお辞儀をした。

「今日は彦六さんのおかげで、仕事が楽しかった。後は当日、朝早いがよろしくお願いします」

 酒井も喜んでいるようだった。

 そして数日後、ついに物産会は幕を開けたのだった。

 二、三日秋雨が降り、心配していたが当日は薄曇りでまあまあだった。彦六は約束通りの早い時間に家を出た。松庵邸では人が多く集められ、朝粥がふるまわれていた。みんなが食べているところに松庵と弟子たちが現れ、作業の予定を説明した。

「…というわけで、能率よく頑張れば、昼前には仕事は終わる。昼には仕出し屋から、おいしい幕の内弁当を運んでもらうから、みんな帰る前に忘れないで、一人一人受け取ってくれ。ではよろしく頼む」

 まずは一斉に大掃除。それから展示する場所に机や台を運び、それぞれに番号が打たれる。会場の下準備ができると、色分けされた番号札に従って、展示品を離れから運び出す。

 赤の奥の間には、高価な工芸品や貴重な書物、桃色の大広間には全国から集められた標本や毛皮、鉱物、名産品などが展示された。黄色の庭の日向側には、あの屋久杉の切り株からとった巨大な一枚板が立てかけられ、あとで運ばれる植物を載せる台がきちんと設置された。意外と重くて大変だったのが、緑に色分けされた庭の木陰に運ばれたものだった。檻や大小の生け簀であった。やっと設置された後もまだ中に水を入れなければならない。みんな裏の深井戸や池から水を汲んで、大変だった。橘が言っていた。

「生きた動物や植物は、弱ると困るので、ギリギリ昼ごろに到着する予定だ」

 彦六はそういった重いものを運ぶ仕事は苦手なので、番号を打ったり展示物をきちんと並べ、解説を貼ったり、こまごました仕事で走り回っていた。ユリも午前中は朝粥を出したり、片づけたり、次々と訪れる本草学者や武士の接待に当たったり、忙しく動いていた。彦六への策略は午前中は控えていた。すべてが落ち着き、午後の見学の時間に勝負をかけることにしていたのだった。

 やがて予定より早めに作業が終わり、あちこちから手伝いに来ていた人たちは、取り寄せた幕の内弁当をもらって帰って行った。いよいよ開演時間が近付き、彦六たちも早めに昼食を終わらせ、最後の準備に入った。物産会の看板を立て、玄関に受付を設け、順路の目印をはった。受付をすませた一般の見学者は、そのままぐるっと庭を見て、それから離れの大きな玄関へと入って行く。母屋に上がってもらうのは、本草学者や特別なお客様だけだという。彦六はそばにいた橘に聞いてみた。

「本草学者は当然として、特別なお客様って誰なんですか?」

「基本的にはお侍だな。今幕府はどこも財政難であえいでいる。ここには品種改良された草花から農産物、高い値で売れる漢方薬の植物、さらに各地の特産物やそれを使った工芸品なども集まっている。各藩のお偉方はここで最新の知識を集め、財政の立て直しのきっかけにならないかと考えているのだ。実際に物産会で展示された農作物が普及したり、物産会をきっかけに新しい工芸品をはじめた藩もある」

「…へえ、そういうことなんだ」

 もしかしたら、銀水亭で見た幕府の役人なんかも来ているのかもしれない。

 そしていよいよ生きた動物や植物の到着だ。

 最初に届いたのは琉球から来たという珍しいカメだった。手足をひっこめるだけでなく、腹の甲が折れ曲がってふたをするというハコガメだった。珍しい亀だが、丈夫で運びやすいので遠くから来たのだという。ハコガメは小さい浅い生け簀に放された。次に来たのは見たこともない獣だった。大きさは犬ぐらいなのだが、タヌキでも狐でも小熊でもなく、鼻に白い線が通っていて、印象的な顔をしている。これはハクビシンと言って、どうやら徳川のご時世になってから南の国から日本の森にやってきて増えたらしい。でもやはり彦六が一番驚いたのは最後に来たオオサンショウウオであった。飼育するのが難しいらしく、専任の世話係が付いてきて、元気そうだと喜びながら、いろいろ説明をしてくれた。

 もともと関西の山奥の清流にしかいないということで、関東では全く知られていなかった。水から出して触るとサンショウの香りがほのかにするのだという。ぶよぶよした肉の塊のようなその姿も奇怪で、大きさも三尺に少し足りないくらいでかなりの迫力だ。しかもこれはまだ小さい方で、五尺以上、人間の背丈より大きくなるものもいるという。

「これでも大きいのに、そんなのがいるんですか?」

「でも、そんな奴はこの長い距離を運ぶのはもっと大変ですから…」

 これは涼しくなってきた季節のおかげで、船便の船倉に積まれてやっと江戸に運んできたのだという。オオサンショウウオと同時にたくさんの品種改良した菊やいろいろな珍しい植物も運ばれてきた。きれいな大輪の花の咲く品種、味がよく収穫高も抜群の農作物、それから、育つと家より高くなるという葉のとんでもなく大きい琉球のヘゴシダの仲間など、見るだけでわくわくしてくる。いよいよ開始時刻だ。来場者も次々に訪れ、会場も華やかになってきた。

 まずは、庭に集まってきた人々の前に松庵と弟子たちが立ち、手短に説明をお行った。

 一、会場図と主な順路

 二、今回は珍しい関西や遠く琉球などの展示物があること

 三、屋久杉の一枚板やオオサンショウオ、南洋の果物や各地のお茶など、今回の目玉展示物

 四、終わった後、本草学者を対象に、研究会があること

 そしていよいよ物産会が始まった。楽しそうに語らいながら大勢の人が動き出した。

 だがこの時、ある客が彦六に気づいて声をかけてきた。それは彦六にとってはありえない人だった。

「あれ、彦六さんじゃないか」

「あれ? 青竜の菊次郎親方じゃないですか?」

 見世物と本草学、それはまったく違う世界だと思っていた。狐につままれたような感じだった。でも話を聞いてみると、意外なことばかりだった。

「ええ? 物産会から見世物になったものが少なくないんですか?」

 親方は、実は見世物に使えるような珍しい動物や植物を探して、物産会があると、どこへでも顔を出すのだという。なんとあの巨大なフグ提灯も、どこかの物産会で見たものを取り寄せたものだという。また南蛮渡来のランという植物を物産会で見て、それを見世物にして大儲けしたこともあるし、物産会で見た白蛇がどうしても欲しくなり、大金を積んで譲り受けたことさえあるのだという。

「実は今回も目をつけている展示物があってな」

「え? どれですか?」

「おかしいな、九兵衛も先に来ているはずなんだが…、ああ、あそこにいた、九兵衛、わしじゃ、菊次郎じゃ」

 え、九兵衛さんっていうと、あの無口で恥ずかしがり屋だが、動物を飼育する凄い才能の持ち主の人か?

「はい、親方」

 なんと返事をしたのは、オオサンショウウオを運んできたあの男だった。前にあったときは黒子の格好をしていたからわからなかったようだ。あの時はあんなに無口だったのに、動物のこととなるとよくしゃべることも分かった。やはり、珍しい生き物なので、名人の評判をとる動物飼育の九兵衛に声がかかって、ここに来たのだという。

「どうじゃ、九兵衛、江戸でそいつは飼えそうか?」

「餌は生きた魚なのでなんとかなりそうですが、冷たくてきれいな水がないと難しいです。湧水のある池か生け簀でもあれば…」

 すると菊次郎はうなずいた。

「湧水なら、心当たりがある。早急に連絡を取っておくよ」

 彦六は松庵先生に断って、菊次郎親方を連れて庭や池の周りの案内をすることにした。

 ハクビシンやハコガメ、ヘゴシダなどもやりようによっては使えそうだし、関東の人はほとんど知らない巨大なオオサンショウウオは大人気に間違いないだろうとのことだった、

 動物を手配した本草学者に会いたいと言いうので、探して連れてくると、菊次郎親方はすぐに商談を始める。

「ハコガメは行き先が決まっているので無理ですな。ハクビシンは貴重な獣ですので、また持ち主に返さないといけません。オオサンショウウオは、飼うのが難しく、引き取り手が今のところありません。こんな大きなものが江戸で飼えるなら、安くお譲りしますが…」

 ハクビシンが手に入らないのを、菊次郎は残念がった。

「よろしければ、江戸からさほど遠くないところに生け獲りの名人がいるのでご紹介しましょうか。ムササビやイタチ、アナグマなんかは手に入りますよ」

 菊次郎親方はさっそくその名人を紹介してもらい、乗り気まんまんであった。

 さらに池の周りで漢方薬の植物をいろいろ見て、彦六の川の魚の解説も聞き、ぐるっと一周して花のところに帰ってきた。

「いやあ、詳しくよくわかったよ。彦六さん、ありがとう、あとは一人で回る。お前さんは仕事に戻りなさい」

 菊次郎親方はそう言って、屋久杉の巨大な年輪のある一枚板を見上げ、新種の菊などの珍しい品種を見て回っていた。

「あれ?」

 また驚いた。あの染井村の金蔵さんが菊の鉢を運んですぐ前を歩いてきたではないか!

「いやあこりゃあきれいな花だ。新種だな。すごいねえ、また新しい見世物のタネになりそうだ」

 菊次郎親方はそういって、金蔵さんへと近づいて行った。手伝いに来ていた近所の人たちも、今度はお客になって、菊の鉢の周りに集まり始めた。そのすぐ横では本草学者とお侍が何か話している。いつの間にかいろんな人々が、一堂に会していた。その時、彦六の中で何かが大きく変わった。何かが壊れて、そして一つにつながっていった。

「あら、彦六さん、ぼうっとして、どうしましたの?」

 やっと暇になってやってきたユリが不思議そうな顔をして彦六を覗き込んだ。

「学問に貴賤はないって、いつも竹仙先生が言っていた。学問ならだれでも自由に学べるし、対等に意見が言える。学問は特別なものだと…。見世物などとは違うものだとは思っていたけど、でもそうではなかった。みんなもっと知らないことを知りたい、楽しいことを見聞きしたい、見たことのない世界を見たい、だからそのためには、金も使うし旅にも出る。今までは全く違うと思っていた本草学と見世物だけれど、根本はまったく同じなんだ。知りたい、見たい、世界を広げたい、そこの部分じゃ、同じなんだ。わたしにもなにかができそうな気がしてきた!」

 彦六の中に新しい時代の波が押し寄せていた。そして、すぐそばにいたユリの手を思わずぐっと握ると彦六は叫んだ。

「ありがとうございます、物産会で私はやっとものの根本というものが少し見えてきました。もとはと言えば、お呼びくださったユリさんのおかげです。さらに精進して頑張ります」

 その時、遠くから松庵の声がした。ついに調布から、あの竹仙がやってきたというのだ。思わず走り出す彦六。しばらく帰って来そうにはなかった。ユリはまた大事な人を、横取りされてしまったようだった。庭を歩いて、今日はもっとくわしく魚の話を聞こうとか、各地のお茶の飲み比べができる試飲の場に誘おうとか、うまく行けば奥の深井戸で冷やしてある南洋の果実を本草学の研究だとか言って一緒に食べちゃおうとか、考えていたさまざまな野望が崩れ去ってしまった…。

 でも、今感謝の言葉とともに、手をぎゅっと握ってもらったような…。

「今日はこれで良し、多くを望まず。気付かれず」

 ユリは自分にそう言い聞かせて、ほほ笑みながらその場を立ち去って行った。

「竹仙先生、お久しぶりです。彦六です」

 大輪の花が咲き誇る秋の日の午後、物産会は賑わいを増していたのだった。

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