第8話 銀水亭の離れ

「お、半助さん、お久しぶりです。彦六も元気そうだな」

 銀二兄さんは今日もいなせでかっこいい。

「いつ来るかと首を長くして待っていたんです。今日はご馳走をいっぱい出すから待っててくださいね」

 お夕さんも笑って出迎えてくれた。

「この店も客がたくさん入って景気がいいじゃねえか。あ、そういえば、この間彦六にウナギのいいやつくれたり、板場を貸してくれたりしたんだってな。ありがとうよ。親方は喜びに喜んで、またぜひウナギ食いたいってさ。おれのほうも曲芸小屋が大入りで、懐があったかいからさ、ドーント払うから、また彦六にウナギを算段してやっておくれよ」

「もちろんですとも。いいウナギが入ったら、すぐお知らせしますよ」

 今日は特別だと奥の小部屋に案内され、まずは枝豆とから揚げの盛り合わせが運ばれてきた。おじさんはさっそく酒を頼み、彦六はお茶をもらって、二人で祝杯を上げた。

「う、うまい。手長エビのから揚げって、食べても食べてもやめられませんね。今日は、昼はチャンコだったし、夜もご馳走ですね」

「いやあ、俺なんて接待で仕事半分で食べることが多いから、甥っ子と銀水亭で食べられるなんて、本当に落ち着く、酒も三倍うまいね」

 それからアナゴやエビ、カツオのお刺身にシジミ汁、藻屑ガニの塩茹でだの、ご馳走がどんどん運ばれてきた。おじさんもいい心持になって、ずっと楽しそうだったが、なぜかちょっとっ酔いが回り始めるともうそれ以上は酒を飲もうとしなかった。

「自分でも情けないんだが、接待の席で完全に酔っちまうと商売にならないんで、どうも酒が止まっちまうんだ。ああ、早く所帯をもちたいねえ、そしたら嫁さん相手に心置きなく飲めるんだがね…」

 すると入ってきた銀二兄さんが言った。

「でも、そういうきれいなお酒の飲み方のできる方はさすがですよ。なんならここを我が家と思って寝てしまっても、おじさんなら全然迷惑じゃないですよ」

「かー、やっぱり身内の者の情の熱さはたまらないねえ。でも俺、明日の朝早く相撲の地方興行に行かなきゃならねえんだ。忘れてたわ、ハハハハ…」

 さて、おなかも満腹になったところで、そろそろ時間かと思っていたら、銀二兄さんの横にお夕さんまでやってきて、突然二人正座して頭を下げだした。

「なんだ? 2人して頭を下げて?」

「実は訳あって、彦六さんをお借りしたいんです。その、おじさんがいないときで,日にちがあったときだけでもいいんです」

「なんだい、なんだい、あらたまってよう。いいから言ってみな」

「…実はうちの離れの件ですが…。うちの離れは、上得意の客をもてなすためにきちんと新築して、中で一通りの料理も作れるように板場も設けてあります。それが一年ぐらい前から、名前は言えませんがいくつかの藩で同じ志を持った方々の密会の場として使われるようになり、最近はお忍びで幕臣もたまに見えられるようになったのです」

すると彦六が思わず言った。

「…私も見ました、幕府のお偉方が、離れの方に歩いていくのを…」

「お忍びとはいえ、幕臣までもくるって、どういうことなんだい?」

「私には詳しくはわかりませんが、この間、先のモリソン号事件で実際に大砲を撃ったという方もお越しになりました。外国船がやってきて、日本に開国しろと要求している。新しい時代がもうすぐ始まる、そのために開国するか、敵を討つかなど、いろいろな意見が飛び交っているようなのです」

 そういえば竹仙先生もそんな話をよくしていた。新しい時代が来るってどういうことなのだろう。なんか怖い気もしたが、彦六はどんどん好奇心が加速してくる自分に気づいた。さっきまでほろ酔いのおじさんが、すっかり真顔になって尋ねた。

「で、そんな大事な離れで彦六になにかやらせようってのかい」

「はい、もちろん日にちが合うときだけでけっこうです。離れに食事を運んだり、簡単な料理をつくったり、手伝ってほしいのです」

 するとお夕さんが話し始めた。

「なぜかと言うと、秘密を守るのが絶対ですから、使用人などにも任せられないと、離れで密談がある日は、この人と私が直接お世話をしているんです」

「ここ何日か、仕事ぶりや様子を見ていて思いました。彦六なら身内だし、口も堅そうだし、所作もしっかりしている。何より川魚に詳しく、料理の腕も間違いない。もちろん彦六は手伝いですから、責任を取ることも危険なこともありません」

 するとおじさんはちょっと考えてから彦六に訊いた。

「…おじさんはなあ、難しいことはわからない。でも銀二がこれだけ頭を下げるんじゃ、もしかしたら大事なことかもしれねえ。どうだ彦六、お前はこの仕事、手伝ってみるかい。嫌ならはっきりそういうんだぞ」

 彦六は自分が新しい時代に何か関われるような気がして、答えた。

「はい、ぜひ、やらせてください。まだまだ分からないことばかりだけれど、一生懸命お手伝いします」

 それを聞くと、銀二兄さんはちょっと怖い顔になって早速切り出した。

「よく言ってくれた、彦六。でもそれが本当かどうか今試すぞ」

 お夕さんも、真剣な顔で続けた。

「ごめんなさいね。でも、このお仕事は生半可な気持ちで引き受けると後で大変なことになるから、この人と相談して、引き受けてくれたら実際に試して、本気かどうか確かめようって決めてたの。今日、離れには尊王派っていう人たちの話し合いが行われている。もうそろそろ宴会も終わるころね。うちのひとと一緒に行ってあなたの本気を確かめてほしいの」

 すると銀二がもう一度頭を下げた。

「まことにぶしつけですが、よろしいでしょうか、おじさん」

 すると半助はうなずいて言った。

「さすがだな銀二、そこまでやってもらえりゃあ、文句はねえ。いいか彦六、帰ってきたら、やるのかやらないのかおじさんがもう一度、聞くぞ」

「はい」

 もしかしたらこの仕事、大変なことなのかもしれない。でもまだまだ世間知らずで怖いもの知らずの彦六は、なにも考えずに銀二兄さんについて離れへと向かっていった。

 先に銀二兄さんが離れに入り、こんど新しい手伝いが入ること、自分の身内で口も堅いこと、なにかあったら全部責任は自分がとることなどを話し、了承されていた。その間彦六は柳の木の影で、暗がりに流れていく水路の行く先をぼんやり眺めていた。やがて入るのを許されると、なんということ、銀二兄さんは何も言わないで失礼しますと、帰って行ってしまった。ええ、もう、一か八かだ。出たとこ勝負でやれるだけやってみよう。

「彦六と申します。何なりと用をお申し付けください」

 離れは意外と広く、和室の横には本当に調理場まで用意されていて、炭火も起こしてあるし、おひつにご飯もある、お湯も沸いていた。さっきまで銀二さんがここでいろいろやっていたのだろう。侍は四人で、二人は浪人風だが、あとの二人はお忍びでやってきた公家の仲間か…。

「ああ、今日は食った。うまかったぞ。後は茶でももらうかのう。ちょっと酔いも醒まさないとな」

「そうか? 俺はしめにあっさりしたものが食いたいぞ」

「そうだ。おい小僧、お前茶漬けは作れるか? いやいや簡単なものでいいのだ。どうだ」

「はい、お任せください。では用意をしてきます」

 そう言うと、彦六はささっと店に戻り、板場をのぞいた。銀二兄さんはそこにはいなくて、板前の誠一郎さんがいた。

「すみません、離れからお茶漬けの注文があったんです」

 そしてさっき刺身で出ていたカツオの残りとショウガなどをもち、さらにフタつきの丼を借りて離れに向かった。

「いますぐできますので、少々お待ちください」

 彦六はそう言いながら、和室の襖を静かに閉じて厨房に入った。

「悪いな、小僧。じゃあ、こっちは例の話でも始めているか」

 彦六はカツオの残りを、軽く火であぶると、食べやすいように小さく切り、ショウガや醤油と手早く和えた。そして丼にご飯を盛り、カツオの和え物をのせ、彩りにシソの葉をちょっとちらし、お茶を注ぐと全部の丼にふたをした。これは川魚のお茶漬けを作るときの実家のやり方だった。これで、少しだけフタをしたままにしておくと、いい感じで魚が蒸されてうま味も増すのだ。

「やはりあの方をこちらに呼ぶのは危険だ。かといって太刀をもった藩士が付いていてはかえって目立つだろう…」

「だが、時期を合わせれば、あいつが警備に付ける。念のためこれを作ったんだが…」

 和室で何か重いものを床に置くような音がした。

「これは…手甲か、でもだれがこんな大きいものを使うんだ…。あいつとは誰だ?」

「…持ってみると、それほど重くはないな。手甲というより、鉄板と鎖帷子でできた頑丈な手袋だな」

「あいつとはほら、京都や大阪で活躍しているあの力士だよ。大嵐山(だいらんざん)だ」

「ああ、大嵐山、貴族のお抱え力士で俺たちの考えに賛成してくれると言ってた、あいつか…」

「あいつなら太刀など持たなくとも、この手袋はめてりゃ、張り手一発で頭蓋骨も砕ける、何なら真剣も手でつかめるし、たたき折れるかもしれん」

「なるほど、その上から包帯でもしておけば、丸腰であやしまれないな」

 いったい何の話なのだろう、彦六は素知らぬ顔をして、茶漬けを持って用意した。

「お待たせしました。カツオの茶漬けでございます」

 そして襖を開けると全員の前にふたを閉めたままの丼を並べた。

「どうぞ、フタをおあけください。」

 ふたを開けるとカツオとショウガ、醤油のいい香りが広がり、武士たちは色めきだった。

「いやあ、いい香りだ。すまんのう小僧」

 みんな、おいしい、おいしいとさっと食べてしまった。

「小僧、おいしかったぞ。もういいぞ」

 彦六はそこで引き上げて半助おじさんの待つ小部屋に戻った。小部屋に戻ると、入れ替わりに銀二兄さんが失礼がなかったかどうか聞きに行くと言って出て行った。何も考えないでいろいろやってきたが、急に何か心配になってきた。お夕さんが優しく尋ねた。

「向こうで何か大変なことはなかったの。今日はどんなお話ししてた?」

 彦六は、あの力士が使うという鉄の手袋のことが気になってしょうがなかった。一体何が起ころうとしているのか…。今日も昼に大きな力士たちを、強烈な張り手を見て来たばかりだ。あの人たちと、今の武士たちがどこかでつながっているのか…? でも自分でもよくわからない話を人に話せるはずもなかった。

「……」

 やがて、銀二兄さんが静かに帰ってきた。

「落ち度は何もないそうだ。ただ茶漬けをくれと言っただけなのにカツオをあぶって、ちゃんと蒸して出してくれたので感激したそうだ、ショウガの香りも大評判だった。ところでお夕、こっちはどうだった?」

 するとお夕さんはにこっと笑って答えた。

「あんたが言ってる間、私が誘い水を出したのに、この子は離れであった出来事を一言もしゃべらなかったわ。合格ね」

 そういうことだったのか…。あぶないところだった。ずーっと黙っていた半助おじさんがやっと落ち着いて話し出した。

「どちらも合格だそうだ。どうだ、彦六、お前はこの仕事を手伝うのかい。やるのか、やらないのか、はっきり言ってみな」

 彦六は一度大きく深呼吸してはっきりと言った。

「やります。やらせてください。でもまだわからないことばかりなので、いろいろ教えてください」

 話は決まった。彦六とおじさんは上機嫌で銀水亭を後にした。そして、昼は時々松庵邸、夜は時々銀水亭の暮らしが始まって行くのであった。

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