第7話 寅吉の小屋

 その次の日、朝一番で半助おじさんが帰ってきた。半助おじさんは、客の入りがよかったと絶好調で、休む間もなく、明日の朝には今度は相撲の地方興行の世話人として出かけるのだという。

「やっぱり景気が上向いてきたなあ、久しぶりの大入りでさあ、駒平の親方も、昼と夕方にもう一度ずつ曲芸の公演を打ったんだが、それでも入りきらない客がいてね。あ、そうだ彦六、菊次郎親方のところにウナギのかば焼きを作って持って行ったんだってな。玄人はだしのおいしさだって、親方がよろこんでいたよ。なんか大家の福蔵さんも喜んでたみたいだし、おまえ、いろいろ頑張ったみたいだなあ」

 彦六はここ数日の出来事を報告し、そしてその夜はウナギのお礼を言いに、銀二兄さんの銀水亭に二人で顔を出すことになった。

「それから、お前さんには直接関係はないんだが、菊次郎親方に頼まれてちょっと偵察に行かなきゃならないところがあってな。銀二さんのところに行く前にちょっと寄り道するぜ。そうしたらどうせ近くだから、そうだ、お前さんにもあそこへ行ってもらうかな。ふつうはなかなか行けないところだぜ」

 どうやら銀水亭に行く前にもう一か所、さらにその前に一か所回ることになりそうだった。

「普通は行けないところって、へえ、どこですか?」

「行ってからのお楽しみさ」

 そして二人は、少し早めに昼前には出かけて行った。


 半助おじさんが待っていろよと言って、街中の大きな家に入って行った。何の建物なのか、表札というか看板を見ると「玄海部屋」と書いてある。…部屋っていったいどういうこと? 少しして彦六も来いと言われて何気なしに入って行って驚いた。案内に出てきた男の大きさと言ったら、小柄な彦六は並ぶと子供にしか見えないのだ。しかも年のころは同じぐらいかもしれない。なんでこんなに見上げるように大きいのだ。その若い大男に案内されて半助と彦六は奥へと入って行った。すると奥の大きな部屋には神棚と土俵があり、さらに立派な着物姿の大きな男がにこにこしながら歩いてきた。

「親方、お元気そうで何よりです。明日からの地方興行の打ち合わせに参りました。ああ、この子はね…」

「今度、半助おじさんの手伝いをすることになった彦六と申します。よろしくお願いします」

「おう、まじめで気が利きそうな子だね、目を見ればわかるよ。こちらからもよろしく。ああ、そういえば今度の巡業の世話役は半助さんだってね。大きい声じゃ言えないが、半助さんは明るいし、気も効くし、大評判で、力士たちも大喜びさ。よろしく頼むよ」

 ここは玄海部屋という相撲部屋だった。若い部屋で、大関や関脇はいないが、将来性のある若い力士が粒ぞろいなのだそうだ。

 親方と半助が楽しそうに会話をしてると、一人の力士が奥から出てきて親方に頼み込んだ。さっきの若い男よりさらに一回り大きく、鋭い目をしている。

「親方、どうも納得がいかないんで、もう一番だけ、本気でやらせてください」

「おう高尾錦か。おまえのやる気はよし、でもみんな稽古が終わって引き払ったところだぞ。どうする」

 すると今度は別のところから大きな声が聞こえてきた。

「よし、おれが稽古をつけてやる。死ぬ気で向かって来い」

 何人かの力士を従えて出てきた大男を見て、彦六は度肝を抜かれた。案内をしてくれた男など、まだまだ駆け出しで小さい方だった。出てきた力士たちは首から胸にかけてもっとずっと厚みがあり、血色もよく肌にハリがあり、みんなでかいのだ。それが並んで入ってくるだけで、すごい迫力だ。その中でもぬきんでて背の高い一人が着物をさっと脱ぎながら土俵に近づいてきた。

「いつまでも自分の相撲の型で悩んでるんじゃない。思いっきりぶつかってこい」

 この力士はつい先ほど小結になったばかりの伸び盛り、七つの国をまたぐという大男、七国山、強烈な張り手を得意とし、どんな技を出してくるかわからない荒っぽさが売り物の力士だ。土俵に上がる高尾錦と七国山。親方が間に入って、いよいよ勝負だ。

「はっけよい、残った!」

 首を丸め、重心を低くして突っ込んでいく高尾錦。だが、まわしを取る前に七国山の強力な張り手が一発二発と命中、のけぞりながらも前に出るのをやめない高尾錦、そしてついに七発命中した強烈な張り手を耐えきって七国山の懐に飛び込む。これが高尾錦の得意な型なのだろうか? だが現実は厳しく、型が決まる直前にさっと七国山は外掛けからの強烈な投げを放った。高尾錦はかっこ悪く転がって横倒しになり、土俵の土にまみれていた。

 どんな体制からどんな技が出るのかわからない、これが七国山の怖さだ。

「…ありがとうございました。勉強になりました」

 立ち上がりながら高尾錦が大きな声で兄弟子に言った。

「…おまえ、また強くなったな」

 兄弟子はそう言って、また着物を着ると、奥に去って行った。高尾錦はもう一度大きくお辞儀をして、静かに去って行った。

「いやあ、お恥ずかしいところをお見せしました。では、こちらへ」

 まずは親方と三人で軽い昼ごはんだと言われたが、出てきたのは大きな鍋で、いろんなものが煮込んであるチャンコであった。彦六もたくさん食べたつもりだったが、親方の半分も入らなかった。そこでいろいろな相撲の話を聞いた。江戸の相撲は寺社奉行の下できちんと行われているが、相撲は京都や大阪にも大きな組織があり、さらに地方のあちこちで大小の興行がおこなわれている大人気の興行であること。最近はあちこちの大名がお抱えの力士を江戸の相撲で競わせることが人気となり、江戸相撲に強い力士が集まってきているなどなど。そして食べ終わると実際に日程や宿屋、経費などの具体的な話になった。最後に決定したことを彦六が文章にして、写しを親方に渡し打ち合わせは終わった。彦六は相撲文字で書かれた番付表をお手本として何枚かもらい、江戸文字の相撲文字の練習をすることになった。ためしに二、三文字真似て書いてみると、意外に親方にほめられた。


 相撲部屋を後にして次の場所に歩き出した半助と彦六。

「力士も相撲の試合も初めて見ました。凄い迫力ですね。並んで大きな人が歩いてくるだけで驚いていたんですが、本気の試合まで見ることができて、大満足です」

「そうだろう、相撲は力士そのものが大人気の見世物と同じさ。日本国中どこへ行ってもみんなあつまってくる。しかもやっと景気が良くなってきて、地方興行もどんどん盛り上がってきている。特にこの江戸ではさっきの話の通り、強い力士が集まってきているからなあ、今年の江戸相撲も盛り上がること間違いなしだ」

 見世物師である半助おじさんが、大相撲の興行も手伝っていると聞いて、最初はピンとこなかった彦六だったが、今初めてそこのところがつながった。力士そのものが偉大な見世物であり、それが命がけで激突するのだ。彦六はいつのまにか興奮している自分に気づいた。

「じゃあ、悪いが彦六、これから菊次郎親方に頼まれた例の偵察に出かけるぞ。まあ危険なことはないだろうが、敵陣に行くわけだから慎重に行動しろよ」

「はい、わかりました」

 やがて半助おじさんに案内されて、近くの大きな神社に行く。そこでも、歩いていくと神社の奥に見世物の小屋があった。そこは小屋の真ん中に大きな入り口があり、出るのも入るのも一つの口でやる方式のようだ。

「総入れ替え式の小屋だ。一つしかない入口を使って、只見の客を防ぐやり方だ。場合によってはさきに木戸銭をとることもある」

「三大妖女、狼女・磯女・蛇女」という不気味な看板と、おどろおどろしい半裸の蛇女の絵が、何枚か小屋の外側に貼ってある。この間見た見世物小屋とはかなり違う。なんというか、どこか怪しげで、非日常的なにおいがプンプンする。

「ここが、竹やぶの寅吉の小屋だ。客寄せの版画刷りの蛇女の絵まで作ってやがる」

「客寄せの版画刷りって、珍しいんですか?」

「当たり前だが、かなり金がかかる。だから作るときはちゃんと報告してくれと言っているんだが、やつら黙ってやってやがる。どこから金出してるんだか…」

 そう言い終わると、半助おじさんは手拭いでほっかむりをして、なんだか怪しげなめがねをつけ、さっと黒っぽい上着を羽織った。いつもの明るい雰囲気は消えて、地味な怪しい感じになった。

「これから客を装って、素知らぬふりして中に入る。俺は面が割れてるから、ちょっと変装して、彦六の影に隠れてさっと入るさ。お前はそのままでいい。それともし中に別の出入り口があっても、そっちには入らねえこった」

「あれ、別の出入り口って、出入り口は一つじゃないんですか?」

「そこが今回の偵察の一番の目的さ。中には怪しいのぞき穴がついていてな、入った客は騙されて持ち金をみんな巻き上げられる仕掛けがあるんだよ。そっちは俺が抑えるから、お前はそのまま外に出て俺を外で待ってな」

「のぞき穴か? いったいどういう企みだ」

 あのいつか見世物師の寄合所で出会ったあのふてぶてしい竹藪の寅吉の姿が思い浮かぶ。そうか、敵地に乗り込むってこういうことか。

 彦六は二人分の木戸銭をおじさんから預かると、入り口の中年の男に

「二人ね」

と言って木戸銭を渡し、堂々と中に入って行った。

 けっこう客の入りはよく、どんどん前から席が埋まって行く。全体に男の客が多いが、中にはわけがわからず迷い込んでいる親子連れなども混じっている。満員になると出入り口が閉められ、中は一瞬真っ暗になる。

 そのとたん、舞台の足元から少しずつ明るくなってゆき、やがてぼんやりとした光が舞台に満ちる。舞台の床と袖に、たくさんのろうそくの仕掛けがあるらしい。そこに片手に小さな鐘をもった若い女が現れて口上を始める。若い女はどうやら盲目で真っ白な肌がなまめかしい。小屋の隅までよく通る声で、チリン、チリンと鐘を鳴らしながら物悲しい声を出すのだ。

「何の因果か、生まれてすぐに父にも母にも死に別れ、人家もまばらな山の中、打ち捨てられし赤子なり。だが狼に拾われて、狼として育てられ、猟師に打たれ、見つけられ、初めて人に救われて、人に戻れと諭されて、今は言葉もわかるなり。ただどうしても狼の性(さが)が体に残るなり、狼女をご覧あれ」

 すると舞台の真ん中の黒い幕が上がって、そこに彦六と同じか若いくらいの少女が姿を現した。髪はぼさぼさで短い丈の着物に裸足の姿だったが、特に珍しいこともなく、お客は何かあるのかと静かにその少女を見つめていた。そこにすっと二人の黒子が入ってくる。そして後ろを向いた少女の両肩に手をかける。そこで盲目の女がチリンと小さな鐘を鳴らしながらまた口上を述べる。

「…ただ狼の性が、いまだ体に残るなり。狼女をご覧あれ」

 その瞬間、二人の黒子が少女の着物を腰のあたりまで引き下ろす。あらわになる少女の背中。

「おおっ!」

 観客が大きくどよめく、少女の首元から背中にかけて、生まれつきか、狼に育てられたせいか、黒い剛毛が映えているではないか!

だがその直後ろうそくの明かりとりの窓が一斉に閉じられ、舞台は真っ暗になる。あの鐘の音がチリンと物悲しく響き渡る。

 今度は闇の中に枯れた琵琶の音が聞こえ出す。ベン、ベン、ベン、もの悲しく響くその音に合わせ、さっきの盲目の女のいたところに、怪しい僧が現れる。そしてまるで怪談を話すように海辺の村の妖怪磯女の話を始める。

 海岸で小舟や釣り人を次々と海に引きずり込む、妖怪磯女。ある日高名の僧がやってきて、その法力で磯女を海辺の洞窟に封じたのだという。だが月日がたってそれを忘れた村の少女が洞窟に入り、磯女のたたりを受けてしまう。少女は生の魚をかじり、ほかの村人を海に引きずり込もうとした。だが知らせを受けた高名な僧の弟子が来て、その磯女の力を少女の体に封印した。でもその少女は大人になった今も法力に触れると磯女の正体を現すという。

 すると舞台が明るくなり、二人の黒子が、水がなみなみと注がれた大きなカメを、台車にのせて運んでくる。そこにまた枯れたような琵琶の根が響き渡り、白装束の長い髪の女が現れる。あやしい僧が叫んだ。

「これより、水に閉じ込め、太鼓百打の行を行いましょう」

 黒子二人に手伝われ、白装束の女は勢いよくカメの中に滑り込む。ザーッとあふれ出す水。そしてもう女は浮かび上がってこなかった。そこに黒子2人が白い布を取出し、カメにふたをすると布で縛ってお札で封印してしまった。そして今度は下手に太鼓と火のついた十本のろうそくが用意される。するとあやしいその僧がバチを取出し、ゆっくりと太鼓をたたきながらお経を唱え出す。十回たたくと黒子が一本のろうそくを吹きけし、二本、三本と、太鼓の音に合わせろうそくはだんだん消えていく、そして百回打ち終わる頃にはろうそくはついに最後の一本まで消える。

 その間、女が飛び込んだカメはピクリともしない。上まで水が満ちているはずなのに。こんなに長く息が続くのだろうか。さっと黒子がカメに近づき、布を外す。だが亀の中から動きは全くない。そこであの僧が太鼓を鳴らして叫ぶ。

「磯女よ、その正体を見せよ!」

 その途端にザッパーンという水の音とともにあの白装束の女がカメの中から飛び出す。

「おおっ!」

 観客が驚いたカメの中から現れた女は髪を振り乱し、青白い顔で薄笑いを浮かべた。だが、その口元からのぞく歯は犬歯が牙のように長く、さらに、白装束が青いうろこの裸身に変わっていたのだ。乳房もぬれて浮かびだし、何ともなまめかしい妖女、磯女であった。

 そして真っ暗になり、今度は明かりがつくと、舞台の中ほどに女が背を向けて座り、三味線をつま弾きながら、己の悲しい身の上を短く話し出す。裕福な庄屋の娘として育ったが、娘の頃、白い蛇を石で打ったたたりが今におよび蛇女となったというのだ。すると女は苦しみだし、三味線を投げ出し、ゆっくりとこちらを向く。

「キャー!」

 今度は悲鳴や驚きの声が小屋に響く。

 こちらを向いた女の細い首には白い蛇が巻き付き、そのまま口の中に入り込み、なんと左目の中から首を出しているのだ。しかも目から顔を出した白い蛇のくちから赤い舌がちょろちょろ動いているのだ。どういう仕掛けなのか全くわからない。薄明かりの中でもだえ、胸をはだける蛇女…

 そして真っ暗になって、これですべては終わった…。大きな扉も開けられすっかり明るくなり、これで昼の二回目の公演は終わりだ。だが、出入り口に向かう人波を押しのけて、半助おじさんは、横にあるもう一つの小さな扉へとこっそり歩き出す。その扉の前には、一人の若い男がいて、金のありそうな若旦那衆を捕まえて、扉の奥に送り込む。半助おじさんはその若い男の前に出ると、ほっかむりとめがねを取って、男に何か怒鳴りつけた。若い男はさっと逃げ出す。それを押さえ込む半助。

「彦六、済まねえ、このバカ野郎が逃げようとするから、ちょっと力を貸してくれ」

 彦六と半助は男が逃げないように両側から抑え込むようにして小屋の裏口へと入って行った。小屋の裏は二つの部屋に仕切られていて、一つはござを敷いただけの粗末な出演者の控室、一方は金の管理や運営を行う座長の部屋だった。

「わかった、わかったよ、半助の兄貴。竹藪の寅吉さんの指図で隠し部屋をやっていただけで、菊次郎親方に黙ってやっていたなんて知らなかったんだよ。信じてくれよ…」

「弟分だと思って、いろいろ目をかけてやってたのによう。全く情けないぜ、定吉よう。この落とし前はどうつけるんだよ」

「…もう少しすると竹藪の寅吉さんが、座長室に顔を出すはずだから、そこで話をしてくれよ」

 二人で言い争うのを彦六は控室で黙って眺めていた。そのうち舞台から、蛇女があのままの姿で戻ってきた。明るいところで見ても、目玉の奥から蛇が顔を出しているようにしか見えない。

「あら、半助さん、いったいどうしたの」

「おう、かぐら姐さん、今日も名演技だったねえ! いやあ、ちょっとあいさつ回りよ。そこにいるのがおれっちの甥で…」

「彦六と申します。これから興行のお手伝いをさせていただきます。よろしくお願いします」

「あーら、この蛇女の恰好のままできちんと挨拶されたのは初めてだよ。いい子だねえ」

 さらにそこにあのあやしい僧と黒子がやってくる。

「ありゃ、半助さんひさしぶり。今日からかぐら姐さんの知恵で、口上も一人一人違うように工夫してみたんだが、どうだった?」

「いや、今までと全く違う。つい引き込まれちゃったよ。小太郎さんの僧も本物かと思ったよ。これからもずっと頭を丸めたままで、禿げ頭もいいんじゃないかい」

「よせやい、この見世物が終わったら、またちゃんと生やすよ。ハハハ」

 この小太郎さんというのは芝居小屋から引き抜いた便利な男で、舞台でも何の役でもこなすし、呼び込みから舞台の組み立てまでなんでもやってくれるのだという。

 すると定吉と呼ばれた若い男がぼつっと言った。

「内緒で隠し部屋やってるのがばれちまって。とりあえず夕方の回は予定通りやるが、隠し部屋は、今日は終わりだ。カンナに行っておいてくれ…」

「あいよ。このかぐら姐さんがきちんと言っておくよ」

 半助おじさんと若い男は、座長室に入って行った。彦六はそのまま粗末な控室で待っていた。黒子の役の若い二人の男と役者の小太郎はさっと着替えると一服してくると言って、外に出て行った。外に出ると若い男が小太郎にそっと話しかけた。

「やばいすねえ。もしも隠し部屋がばれそうになったら、すぐに俺に言いに来いと寅吉さんに言われてたんですけど、どうします…」

 人のいい小太郎は禿げ頭を抱えて困ったを連発した。

「悪いのはこっちだしなあ。おれは半助さんにはいろいろ世話になってるしなあ。まあ、でも、始めたばかりのこの小屋をもう終わりにするには忍びないし…。しかたねえ、黒一、おまえ寅吉にいわれてたんならしょうがねえから、さっと行って知らせて来な、知らせないと寅吉にまたお前がどやされるしな…すまねえ、半助さん…」

 若い男はさっと走り去り、小太郎はそれを見送っていた。

 やがて狭い控室にどんどん他の出演者が入ってきた。

「失礼しています、彦六と申します、半助おじさんの…」

 みんなにきちんと挨拶をすると、なぜかみんな不思議そうにして黙り込んでしまった。あれ、なんかまずいことしたかなあ。あのチリンと鳴る鐘を持っていた盲目の女が言った。

「ここにいるものはねえ、あたしも目が不自由だけど、みんなどこか不自由でやっかいものとののしられるのはいつものこと、人によっては化け物扱いを受けて来たものばかりでね。きちんとあいさつされたことなんかあまりないんでね。ねえ、みんな、声を聞けばあたしはわかる、この子の言葉に嘘はない。私らみたいなものにもちゃんとあいさつをしてくれて、気持ちがいいねえ。あたしはお鈴、こちらこそよろしくね」

 狼女も、磯女も小さな声でちゃんとあいさつしてくれた。かぐらとよばれた蛇女が声をかけた。

「彦六のお兄さん、しばらく向こうを向いていた方がいいよ。あたしたち着替えたり、夕方の舞台の用意したりするからね。こっちはいつものことだから構わないんだけど、そっちの目の毒になるとまずいからね」

 毛深い狼女も犬歯が牙ののように長い磯女も今日はうまくいっただの、まずまずだの言いながら楽しそうに着替えていた。舞台の不気味な雰囲気とは全然違う、普通の娘さんたちだ。なぜか彦六はそれを背中で聞きながら。ほっとした。そこにカンナと呼ばれる別の女がやってきた。

 他の女たちと違って、派手できれいな着物を着て、髪飾りも鼈甲のいいものをつけている。

「やったわ、今の回に隠し部屋にやってきた若旦那たちは金持ちでしかもスケベばっかり、言われた通りに金を出すから、こっちも調子にのって最後まで脱いじゃったけど…。まあ楽してしこたま儲けが出たわ…え、隠し部屋、黙って内緒でやっていたのがばれて今日はもうおしまい? そんなこと聞いてないわよ。こっちは言われた通りにやってるだけなんだから」

 どうやら隠し部屋ののぞき穴の奥にいたのがこのカンナさんのようだ。

「はい、ご迷惑様でした。みんな着替え終わったわ。彦六さん」

 振り返るとさっきの女たちが笑ってそこに座っていた。

「どうだった私たちの舞台」

 彦六は思った通りのことをいつも通りに話した。

「最初はどんなに怖くておどろおどろしい見世物かと思ってました。でも、工夫された楽器や語りに引き込まれていると、怪しく美しい妖女が出てきて、驚きましたよ。みんな真剣で本物かと思いました。結局仕掛けもぜんぜんわからなかったし。すごく面白かったです」

 みんな一生懸命にまっすぐ話す彦六の言葉を静かに聞いていた。

「お兄さんは真面目だから、特別に教えてあげるわ」

 気が付いてみれば、あの蛇女のかぐらさんは普通の人と変わらない目をしている。どういう仕掛けだ。

「あたしは小さいころ悪い病気にかかってね、片方の目玉がないんだよ。この左目はね、義眼なのよ。昔はお金がなくて、こんな上等の義眼なんて夢のまた夢だったけど。それでね、この義眼の代わりにね、蛇の仕掛けを入れた蛇の義眼をはめてね、あとは細い管で蛇の舌を動かすだけよ。どう? わからなかったでしょ」

「へえ、凄くうまく義眼ができていますよね」

 すると磯女のオミツも笑った。

「あたしの牙は生まれつきだけどね。鱗模様のついた長じゅばんを薄手の白装束の下に着込んで水に入るだけよ。ぬれて中が透けて、肌にうろこが浮かび上がったように見えるだけ。あのカメも、仕掛けがあって、中に入ると、水が半分以上抜けて、普通に息をしてるしね」

「でも、すごく面白かったです。仕掛けを聞いて、もう一度見たくなりました」

 しばらくして、座長室から半助おじさんが戻ってきた。

「なんだ一体、竹やぶの寅吉は! 時間を過ぎても小屋にも顔をを見せないとはな。誰か知らせたな?だが今日は現場を押さえたから。すべて菊次郎親方に報告しておく。寅吉め、後で吠え面かくなよ」

 そして二人は小屋を後にした。


 もう時間だ。そろそろ銀水亭に行かねば。半助おじさんが、珍しく残念そうに話し出した。

「あの若い男、定吉は、俺が一から仕事を教えたかわいい弟分だった。でも仕事ができるところを寅吉に目を付けられ、まあ言ってみれば引き抜きだな。あの小屋の座長の地位と高い給金で目の色変えやがった。だがそこまではまあいいとして、そのあとだ。竹藪の寅吉の言いなりになって、隠し部屋をやりやがった。金を巻き上げるから、評判も良くないし、場合によっては男との絡みもやるえげつない見世物だ。なんといっても、お上に一番目を付けられやすいから、しばらくはやるなって菊次郎親方の御達しがあったんだが…。ばれなきゃいいとやっているんだろうが、今、お上に目をつけられたんじゃ、見世物業界そのものがダメになっちまう。わかってるのかなあ…。おっとっと、暗くなってる暇はねえ、これから銀水亭だったな」

 彦六は歩きながら、確かにいい見世物とは言えないが、意外と寅吉の小屋の出し物が面白かったとおじさんに話した。

「おいおい、敵の見世物ほめてどうするんだよ」

「…あ、そうか。向こうは敵の小屋だった」

 おじさんは苦笑いしながら続けた。

「ははは、でもお前の言うことにも一理ある。あの蛇女をやっていたかぐらって女、明るくって、なかなかいい女だろう。実はな、あのかぐらって女が苦労人でな。楽器を上手く使ったり、口上を工夫したりはすべてあの女の知恵なのさ。女が頑張るまでは、見世物にする体の不自由な者ばかりが集められて、もっと悲惨で重苦しい場所だった」

「そうなんですか…。みんな明るい感じだったけど…」

「それは、お前がまっすぐなのと、あとかぐらの頑張りのおかげさ」

「頑張り?」

「かぐらは連れてこられた娘たちが最後は一人でも生きて行けるように、裁縫を教えたり、料理、最近じゃ読み書きを教えたりしているのさ。ここ何年かでみんな変わった、明るくなったよ。かぐらはなあ、仲間の幸せばかり考えて、自分が幸せになろうなんて、これっぽっちも思っていないのさ」

 仲間の幸せばかり考えて自分の幸せなんてこれっぽっちも考えていない…? あれ、このセリフ、いつか聞いたぞ。もしかして半助おじさんは、かぐらさんのこと…?

「さあ、もうすぐ銀水亭だ。おい彦六、悪いがけっこう今回は儲かったもんで、俺は酒をちょびっと飲ましてもらおうかな…」

 おじさんは飲む前から、陽気に歌を口ずさんだりしていい調子だ。やがて柳のたなびく水路の脇を通って、銀水亭についた。

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