第6話 沢内松庵邸
翌日、夜明けまでは雨がぱらついていたが、日が昇ると空は晴れて気持ちのいい風が吹いていた。長屋を出ようとすると、出がけの八五郎さんや熊さんが待ち構えていた。
「…ユリさんはなあ、三大美人の中でも一番会うのが難しいって美人だ。うまくやれよ」
「いや、それは別に関係ないですよ。私が興味があるのは…」
熊さんも彦六の肩をポンとたたく。
「な、わかってるって。お、そう、そう、んでも三味線の小春師匠と仕立て屋のお絹さんが呼んでるから行ってみな」
「はあ…」
わけもわからず、小春師匠の家に行くと、そこで師匠とお絹さんが待ち構えていた。今日も猫のクロは、お行儀よく部屋の隅で座っている。
「昔、うちの息子が来ていたのを、ちょっと仕立て屋のお絹さんに直してもらったんだけどね、ちょっと着てみてくれる?」
断る理由もなく、言われるままに来てみると、それは上等な羽織で、体にぴったりだった。
「ぴったりだわ。さすが師匠の見立て通りね。今日は大きなお屋敷に行くっていうから、長屋のみんなで応援しようってね」
「え、ありがとうございます。こんな立派なもの、いいんですか?」
「もちろんよ、がんばってね」
外に出ると、長屋のみんなが声をかけてくれる。
「さすがお絹さん、ぴったりよ。よく似合うわ」
「馬子にも衣装とはよく言ったものだ。男ぶりがあがったぜ」
「よ、この色男、憎いよ。ユリさんももうメロメロだ!」
もう、なにがなんだかわからないが、長屋のみんなの暖かい気持ちに背中を押されながら彦六は家を出たのだった。
大きな門をくぐり、広い庭を歩き、今日は正面玄関へと向かう。庭の西側には大きな離れがあり、中では何人もの人が働いていた。東側は小川が流れ、小さな池もある。漢方の研究のためだろうか、さまざまな植物が植えてある。雨上がりのしっとりとした庭に、今は、ちょうど萩が満開で大輪の菊も見事だった。池があるとついのぞいてみるのは彦六の癖だ。小さな滝が流れ込む緩やかな流れの或る池の中は、自然の川そのものに水草も生えていた。
「あれ、鯉かなんかがいると思ったら、モツゴにオイカワ、ハゼの仲間のヨシノボリもいるぞ。みんな川の魚ばかりだ。かわいいなあ」
つい座り込み、しばらく魚を覗き込む彦六。
「あら、彦六さんは、お魚に詳しいんですね」
急に声がしたので振り向いて驚いた。そこにいたのは使用人でも、この間の弟子でもなく、松庵の娘、あの知的な美女のユリさんだった。サクラさんのような派手な雰囲気も美しい着物もなかったが、しっとりとした長い黒髪が波打ち、大きな黒い瞳が、確かに池の中の魚を追いかけていた。いったい何を話したらいいんだ。結局彦六には魚の話題しかなかった。
「…でも、川の魚が庭の池にたくさん泳いでいるなんて、珍しいですね」
「父が研究のため近くの小川からお庭に水を引き入れたんです。ここのお魚は小川から入ってきた川のお魚なんです。でも今まで名前までは知らなかったわ。こんど時間があったら教えてください」
「は、はい、もちろん」
なんでも今日は離れの方で大事な用意があり、松庵先生の弟子たちや使用人はそちらに行っているのだという。
「ですから私が案内いたします。何かあればお申し付けください」
彦六はそのままユリに案内されて、大きな玄関から入って行った。
「いや、君が彦六さんか。わしが松庵じゃ。今回はまことに助かった。まあ、こちらへ入ってくれ」
松庵は顎にひげを蓄えたいかにも学問一筋にやってきたという感じの生真面目な漢方医だったが、今回のことがよほどうれしかったらしく、にこにこして彦六を奥の自分の書斎に招き入れた。
書斎は広く立派で、書物の大きな棚や、漢方薬の箪笥、珍しい置物や人形であふれていた。
「え、まさかと思ったが、彦六さんは、あの相島竹仙の弟子だったのか…? 竹仙はまだ若いが、優秀なわしらの研究仲間じゃ」
「はい、先生が調布に来られてから8年ほど教えていただきました。急に家を出て江戸に来ることになり、手紙だけで、きちんとお別れを言ってないのが残念ですが…」
すると、松庵は、思いついたようにはたと、膝を打ち、次のように話し出した。
「お、そうじゃ。竹仙なら来週この屋敷に来るぞ。お前さんも竹仙にその時会えるぞ」
「え、本当ですか?」
「実は月末にわが屋敷で物産会をやるのじゃ」
「物産会ですか?」
「もともとはその昔、八代将軍吉宗さまの頃、本草学を究め、国内の産業を活発にするために行われたのが始まりじゃ。仕掛け人は自分も本草学の学者であった平賀源内。日本の各地から、珍しい動物、植物、鉱物、名産物が集められ展示されるのだ。そのうち規模が大きくなり、学者だけでなく、一般の人々にも公開したり、最近では、わしらのように、研究仲間でおこなうようにもなってきたんじゃ」
するとそこへユリがお茶とお菓子を持って入ってきた。
「あれ、不思議な香りのお茶ですね」
すると松庵が言った。
「今、日本国中のお茶を集めて、いろいろ試しておる。今度の物産会の時お客様にふるまおうと思ってな。中国茶や、北陸の珍しい紅茶、緑茶もいろいろだし、いま持ってきてもらったのは琉球で飲まれているジャスミン茶だ。どうかな、なかなかいけるじゃろう」
「香りが強くて、とてもおいしいです。あとこのふわっとした甘いお菓子はなんですか? このお茶ととても合いますね」
「それは長崎のカステーラだ。日本国中のうまいものを知ることも、物産学や産業の発展の力になるということじゃ」
ジャスミン茶のお代わりを注ぎながらユリが言った。
「父は今度の物産会を成功させようと一生懸命なんです。ここ何日かお弟子さんや使用人は離れで、書物の陰干しや整理をしたり、展示品の用意をしたりとてんてこ舞いでした。その中で大事な書物がクズ屋のゴミに紛れて…。彦六さんが気づいてくれなかったら、今度の物産会の方も危ないところでした」
すると今度は彦六が頭を下げだした。
「もし、ご迷惑でなければ、私も本草学を志した者として物産会のお手伝いをさせていただけませんか」
そして彦六は、自分は月に今なら一、二週間は仕事がなく時間が自由になるという話をしたり、今まで竹仙先生にどんなことを教わってきたのかなどいろいろ話し始めた。
「ふむ、人手はいくらでもほしいところだが、お礼を言うつもりで呼んだのに、仕事を逆に押し付けては、すまないような気がするのう」
「でも、彦六さん、お魚のことはとてもお詳しいんですよ。どうかしら、今日はこのままお茶菓子を食べてもらってお帰りいただいて、ええっと次の作業の日は…?」
「ううむ…しあさって、大阪からの展示品の荷が届く。その時に来てもらうと助かるがのう」
なんでも今回の物産会は、西日本の珍しいものが来るというのが一つの目玉なのだという。
「ええ、しあさってからなら何日か空いてますよ。ぜひ手伝わせてください」
そうして話がまとまり、彦六はジャスミン茶と、フワフワのカステーラをいただき、この日は帰って行ったのだった。
ちなみに、松庵先生の家にこれからちょこちょこ手伝いに行くというのは長屋のみんなに報告し、羽織のおかげですとお礼を言ったのだが、ユリさんにいろいろ案内してもらったことは誰にも言わなかった。そう彦六も半助おじさんと同じで喧嘩はからっきしだからである。
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