第1話 旅立ち

「乾杯!」

 その夜、彦六の家には久しぶりに父親の弟、半助おじさんが訪れていた。久しぶりに会った兄と弟は祝杯を酌み交わした。

「いやあ、しみるねえ。へえ、なんだ上等の酒じゃねえか。まあ、川漁師の家だから魚はおいしくて当たり前だが、こんなうまい酒をだしてくれるなんてねえ。近くの川魚料理屋もどこも繁盛しているみたいだし、このご時世に清二兄ちゃんのところはどうも景気がよさそうだな」

「ははは、こっちだってそりゃあ大変だったさ。天保の飢饉やお上の御触書だのいろいろあったからな。うちの三男坊や四男坊が生まれた頃は、お伊勢様に派手な衣装で踊りながら繰り出すおかげ参りが大流行で、みんな東海道に出るだけではなく、うちの近くの深大寺にも参拝客がすごくてね。川魚料理も大人気で、こっちもおいしい目をいくつも見たもんだが、天保の飢饉になった途端ぴたりと止まっちまってね」

 部屋の神棚から、深大寺のだるまがこっちを見ている。

「…なんでも冷害がひどかった秋田や仙台じゃあ、飢えた農民が街に流れ込んで地獄絵図のようなありさまだって聞いていたからなあ」

「こっちだって、打ちこわしや一揆があちこちで起こるわ、コメは値上がりするわ、追剥や山賊まがいがでて、人の往来が絶えるわ、大変だった。でもなあ、半助…」

「なんだい、清二兄ちゃん」

「お上の御触れ書きで、株仲間の解散ってのがあってな。この辺も、川魚の仲買人が昔から入っていたんだがな、そいつらが一時いなくなったんだ。それでわかったんだが、まあ、いかに奴らが自分たちの都合のいいように儲けていたかってことさ。そのうちやつらが帰ってくる前にうまいことできないかと思ってな。漁師仲間で力を合わせて小さな川魚屋を出したんだ」

「へえ、川魚屋をねえ。なんでまた?」

「この付近で料理する川魚は、そこの魚屋から安い値段で、料理屋に売る。遠くに売りに行く魚だけ仲買人に渡すってことにしたのよ。つまり、仲買人を通さないでやろうってことさ。おれたちの儲けもたくさん出るし、川魚料理屋は、獲れたての川魚を安く仕入れられるってことさ。このあたりだけで魚を回す分にはやつらも手が出せねえってね。この辺の鮎は将軍様の献上鮎だ。最近はイワナやヤマメも手に入るしな。やり方が上手ければ、売れないわけはないのさ」

「さすがだねえ。それでこんなうまい酒が飲めるってわけだ」

「さすがだねえ、じゃねえよ。半助、お前の方はどうなんだい」

「いやあ、おれたち見世物小屋の興行師は、もうさんざんよ。おかげ参りの頃は東海道のどこに行っても、凄い人手で、まあしこたま儲けたねえ。ところが天保の飢饉は何年も続いたから今度はどん底…。ただ俺たちは相撲の興行もやっていたんで、細々と食いつないでいたわけだ。ただ、水野忠邦様が御触れ書きを出すようになってからはご存じの通りだ。二千もあった寄席はほとんど取締でなくなるわ、歌舞伎小屋はあんな浅草みたいな田舎に移されちまうし、見世物小屋じゃあ、派手なからくりはご法度ということになった」

「へえ、寄席や歌舞伎まで…、江戸の市中じゃそんなことになっていたのかい。おまえも苦労したなあ」

「本当にひどいもんだったよ。それがさあ、ここで水野さまが上地令の失敗で失脚だとさ」

「へえ、じゃあ、芝居小屋も見世物も息を吹き返すってか」

「そうなんだ、あっちこっちの興行師たちが乗り遅れちゃいけねえってんで、一斉に動き始めた。そこでだ、兄貴に折り入って頼みごとがあってな…」


 そこに呼び出されたのは四男坊、上から六番目のの彦六だった。

「…半助おじさん、はじめてお目にかかります。彦六と申します」

「おやおや、行儀もいいし、所作もきちんとしている。お前さんは赤子の頃よく可愛がっていたんだがおぼえちゃいねえだろうなあ。おい、彦六、おまえ手習いに行って読み書き算盤ができるっていうじゃないか」

「はい、本草学の竹仙先生のところで教わりました」

 すると杯をおいて父親の清二は彦六に言った。

「彦六、どうだ、半助おじさんと一緒に江戸に出てみないか」

「え?」

 江戸と聞いて、不安よりも憧れが広がった。本業の川漁師は、長男と次男が立派についでいるし、川魚屋への魚の卸は、三男が張り切ってやっている。二人の姉はもう嫁いでいる。いま十五歳の彦六は湧水を利用したいくつかの生け簀で、料理に使う活魚の世話をしている。

「今、半助おじさんはひと儲け当てようと頑張っているんだが、できたら読み書きが出来て、帳簿もつけられるような人手がほしいんだそうだ。お前は腕っぷしはからきしだし、気も弱い。でもお前からは手習いにも通わせている、読み書きなら、兄弟一だ。どうだい半助おじさんを手伝って、江戸に出てみないかい」

「は、はい。ぜひ、江戸の町に行ってみたいです。お願いします」

 彦六は読み書きが一番というより、好奇心が一番の男子であった。竹仙先生のところに言ったのも、好奇心からだった。読み書き算盤だけでなく、いろいろなことを教わったのだ。ここ調布もいいところだが、もっと広い世界を見たり聞いたりできるかと思うと胸がわくわくしてきた。


 翌朝早く、彦六は身支度を整えると、家族みんなに別れを告げた。

「じゃあ、彦六、俺らと親父はもう川に行く時間だ。ここでお別れだ。頑張れよ」

 大きい兄ちゃんたちは足早に川に向かって歩き出した。

「じゃあ、義姉さん、彦六は責任もって面倒見ますので。行ってまいります」

「ええ、半助さんなら安心だわ。彦六、おじさんの言うことをよく聞くのよ」

「はい、行ってまいります」

 弟や妹は、途中まで送ってくれるという。崖際にある湧水の小川を越え、ワサビ田を眺めながら進んで行く。このあたりは河岸段丘から湧き出す清らかな湧水を使い、山奥にしかないワサビの栽培や、イワナやヤマメの養殖のようなことも行われていた。

「ここでよく、みんなでカニ穫りをしたっけなあ」

 ワサビ田の砂利までが懐かしく思えてくる。養殖池で妹や弟たちともお別れだ。

「おキヨ、悪いなあ、にんちゃん急に出ることになったんで、この手紙を手習いの竹仙先生に渡してくれるかな」

「あいよ、にんちゃん。わたし今日手習いの日だから、一番で渡しとくよ」

「お別れの挨拶と、感謝の言葉が書いてあるんだ。おまえからもありがとうございましたと伝えてくれ…。じゃあな、兄ちゃん頑張るからな」

 この池も、弟や妹がちゃんと世話をしてくれるという。そして半助と彦六は多摩川を少し下り、江戸に向かって歩き出したのだった。

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