第2話 福蔵の長屋

 半助おじさんは三十半ばの独り者で陽気で、明るい人だった。

「はやくしこたま儲けて、所帯を持ちたいもんだねえ」

 それが口癖でいつも冗談ばかり言っていた。ここ何年かつらいことや苦労が多すぎて、所帯も持てず、愚痴を言っても始まらないので、何が起こっても笑っていることにしたそうだ。どんな仕事を手伝えばいいのかと聞くと、

「そうだな、興業の場所取りや出し物の手配、儲けの取り分なんかをいろいろ帳簿や手配書にまとめる仕事を手伝ってほしいんだ。今、読み書きが得意な人手が足りなくなっちまってな。期待してるよ、彦六」

 そろそろ目的地ももうすぐだという。聞いてはいたが、江戸の市中は賑やかで、彦六の見たこともないような人出だった。

 その時、人通りの中を、裾をまくって一人の若い男が走ってきた。

「兄貴、佐平次の兄貴はいますかあああ!」

 するとガラッと戸が開いて、半天を着たこわもての男がにゅっと顔をのぞかせた。

「昼っぱなからいってえ何の騒ぎだ、三吉」

「喧嘩ですよ。魚河岸の六兵衛が、また昼酒飲んで、つまらないことで板前の竜二さんに絡んで…」

「なんでえ、また六兵衛かい。でも竜二だったらあんな男相手にしねえだろう」

「それが、この間例の生薬屋のサクラさんと竜二さんが一言二言言葉を交わしたことを、六兵衛がやっかんで二人のことでからかったんですよ。それでいつもは静かな竜二さんもついに…」

「あぶねえ、あぶねえ、あのふたりじゃ、いつ包丁が飛び出すかわからねえ。よし来た。行くぞ、三吉!」

「喧嘩だ、喧嘩だーい、どいた、どいた」

 二人はあっという間に走り去った。半助が笑った。

「そうさなあ、今、この界隈じゃ三大美人てのがいてな。そのうちの一人が大店の生薬屋の一人娘でサクラって言うんだが、まあそれはきれいな娘さ。そう、男がケンカするほどの美人ってことさね」

「喧嘩ですか? なんだか、物騒ですね」

 すると半助は、扇子片手に明るい声で、口上を口ずさんだ。

「江戸の名物いろいろあれど、武士鰹、大名小路広小路、茶屋紫に火消錦絵、火事に喧嘩は江戸の華って言ってな、名物なのさ、喧嘩もね」

 なかなかの名口調である。聞けばおじさんは見世物小屋で一番の呼び込みの名人で、呼び込みの半助と言われてるらしい。

「へえ、そうなんだ。でもおじさん、なんとなくわかるんですけど、その二番目に入ってるカツオってのは何でですか? 江戸はカツオがたくさん取れるんですか?」

「へへ、それがね、俺もよくはわからないんだが、江戸ではね、財布の中身を全部はたいても、初鰹の季節になったら、それを一番に食べるのが粋だってことになってるのさ」

「財布の中身を全部はたいても、ですか? まあ、カツオはおいしいんだろうけど…」

「そうよ、それが粋なのさ。隣の熊さんなんか、けがしてひと月ほど仕事を休んでいた時期があってな、それで、金も何もないってのに、女房に断りもなく初鰹を頼んじまったのさ」

「え? お金はどうしたんですか?」

「仕方ない、熊ときたら自分の着物を全部質に入れて金を作ったのさ、あきれかえるおかみさんの横で、裸で、うめえ、うめえって言いながら初鰹食ってたよ」

「ええ? 本当なんですかその話…?」

「さあてな、どうだったかなあ。ハハハ…」

 おじさんは陽気に笑うとまた歩き始めた。

 途中で半助おじさんは、新しい筆や炭を一式、日本画に使う絵具を一式、そして新しい大判の暦を買ってくれた。

「さあ、ここが俺たちの城だ。まあ、長屋だけどな。ハハハ」

 おじさんの話では、大店の呉服屋の主人福蔵さんの持っている長屋で、なかなか住み心地はいいらしい。

「男の一人暮らしだから、なんにもなくてごめんな。へへ、でも、意外と片付いてるだろう」

 こぎれいな部屋に上り込む。いちおう彦六はおじさんに確認してみた。

「おじさんは、心に決めた女の人とかいるんですか?」

 するとおじさんはちょっと苦笑いをしながら答えた。

「いるにはいるんだがよう…。その女は、仲間の幸せばかりを考えて自分が幸せになろうなんて、今のところこれっぽっちも考えていねえんだな、これが…。はは、つまらねえこと言っちまった、彦六、これから長屋のあいさつ回りだ。行くぞ」

 大家の福蔵さんは今仕事で出ているとかで、とりあえず半助おじさんと一緒に長屋のあいさつ回りだ。

「へへ、ちょいと失礼します、半助です。今日はね、これからうちの手伝いをしてもらうことになった甥っ子の件でね。ええ、一緒に住むんですよ。だから、長屋の皆さんにもご迷惑をかけるんじゃないかと思ってね…」

「…彦六と申します。よろしくお願いします」

「あら、陽気な半助さんと違って、物静かで賢そうね。私はここで三味線を教えている、小春です、こっちが飼い猫のクロ。よろしくね」

 小粋な三味線の師匠の部屋の隅ではかわいい鈴をつけた黒猫がお行儀よく座ってこちらを見ていた。

「へへ、おいらは大工の八五郎ってんだ。へえ、半助さんの甥っ子だって。おい、おかよ、来てみな!」

「あらあ、半助さんに似てなくはないけど、ずーと男前じゃないの。なんか困ったことがあったらいつでもうちに来るんだよ」

 他にも仕立て屋のお絹さん、八百屋の熊さんとおさよさんやら、長屋のみんな出てきて優しく声をかけてくれた。

「おにいちゃん、遊ぼう!」

 絹さんのところの鉄之助、八つぁん熊さんのところの大八、アヤはやんちゃ盛り、長屋の中を走り回っていた。

 ところが、次の浪人の藤巻さんの家の前に来た時だった、

「おや、だれか先客がいるようだ。ちょっと待ってな彦六。大家さんが帰ったらそっちを先にするかな…」

 半助おじさんがちょっと見てくると歩き出した。すると部屋の中の声が少し大きくなって彦六にも聞こえてきた。まずいと思いながらも好奇心の強い彦六は、つい、聞き耳を立ててしまう。

「…え、じゃあ、アメリカの直接の狙いはなんだというのだ? 亀太郎殿」

「もちろん水や食料を補給するのも目的だがそれだけじゃない。船上で捕獲したマッコウクジラから油を搾り取るための大量の水と燃料の薪だ」

「油を搾りとる? 日本人は鯨を食べるために捕まえるが、やつらは違うのか?」

「なんでも潤滑油やランプの油に大量に使うらしい。それを鯨で賄っているんだとさ」

「そういうことか」

「とにかく、アメリカの大統領は補給基地としての日本の開国を迫って動き出している。間違いはない。…おや、外に誰かいないか?」

 すると、ドドンと足音がしてあっという間に戸が開き、刀を持った浪人、藤巻が現れた。その後ろには行商人風の男がそっとこっちをうかがっている。

「…あ、このたび、半助おじさんのところに厄介になることになった彦六と申します。」

 目をつぶってお辞儀する彦六のつま先から頭のてっぺんまで黙って見つめる藤巻。そこに半助おじさんが、飛んできた。

「これはこれは藤巻の旦那、うちの甥っ子の彦六が、何かそそうをしたのでしょうか? まことに申し訳ありません」

 だが頭を下げる半助をみた藤巻はにっこり笑った。

「なんだ、本当に半助さんとこの甥っ子なんだ。雰囲気が違うかなと思ってな。これは拙者の勘違いであった。すまん、許せ。拙者は藤巻龍之新と申す、よろしくな、坊主」

 悪い人ではないみたいだ。だが、何だったんだろう今の話は? 一緒にいた男は長崎帰りの行商人の亀太郎さんだと半助おじさんが教えてくれた。その時文字通り、井戸端会議をしていたおかみさんたちから声がかかった。

「半助さん、大家の福蔵さんが、今帰ったみたいよ」

「そうかい、おかよさん、教えてくれてありがとよ。さて、彦六行くぞ」

 長屋のすぐ裏にある庭の広い家が福蔵さんの家だ。鯉の泳ぐ大きな池と、いくつもの大きな菊の鉢や見事な盆栽が並んでいる。福蔵さんは、優秀な息子ややり手の番頭に最近は店を任せ、半分隠居の状態だという。

「やあ、半助さん、待たせたようで悪かったね。大事な商談はまだまだ私がやらないと難しくてねえ。おい、お座ぶをすぐに用意して、いつものお茶と、確か芋羊羹があったね。すぐお持ちして…」

「このたび半助おじさんのところにお世話になることになった彦六と申します。よろしくお願いします」

「ほう、行儀もいいねえ。まあそんなに固くならず、座布団を使いなさい。へえ、それで…。ほう、調布の川漁師の四男坊で十五才、読み書き算盤もできるって…。そりゃあ半助さんも心強いねえ」

 そこに使用人が、お茶と芋羊羹を持ってきた。

「そうかい、おいしいかい、気に入ってもらえてよかったよ。ところで彦六さんとやら、この長屋に来てみてどうだい?」

「はい、みなさん優しくて、来てよかったです。小春師匠のところの黒猫がとてもお行儀いいので驚きました。それと、大家さんのところの菊の鉢、もうすぐ咲きそうですね。あんな立派な鉢がいくつもあって、凄いですねえ。咲いた頃にまたお邪魔してもよろしいでしょうか。盆栽も、どんな世話をしたら、あんな立派なものができるのかって、ずっと思いながら眺めてましたよ」

 その彦六を見て半助は、この子はよっぽど猫だの花だの生き物に関心があるんだと思った。だが福蔵の反応は全く違っていた。

「え、この彦六さんは、うちの菊の良さや、盆栽の技がわかるみたいだねえ、うれしいねえ」

 さらに、彦六は決定的なことをつい言ってしまう。

「あれ、床の間に置いてある石、きれいですね。多摩川の河原の石を毎日見ていたけど、こんな石はちょっとなかったですねえ」

 自分の趣味の菊の花や盆栽をほめてもらったばかりか、家内の者にも馬鹿にされていた、石まできれいだと言われると、もうメロメロである。

 福蔵さんはすっかり喜んで、お茶のおかわりを、勧める、勧める。今度は上等のお茶で、湯呑みもちょっとした名品だ。

「わあー、美しい柄の湯飲みだ。この魚の絵、今にも泳ぎだしそうだ。すごいなあ」

 生き物が大好きでいろいろなものに好奇心を持つ彦六が素直に感想を言っているだけなのだが、もう福蔵さんはにこにこが止まらない。少なくとも長屋の連中で大家の湯飲みをほめたものは、かつていない。すっかり上機嫌の福蔵さんに見送られて、二人は長屋に帰ってきた。ほとんど家具もない小ざっぱりした長屋の部屋で旅支度を片付け、近くの銭湯に出かけて旅の汚れを落とし、簡単に夕ご飯を済ませその日はぐっすり寝た。

 一晩明けて、さっそく仕事だ。まず、墨と和紙を用意し、色絵具を何色か水に溶く、そしてなぜか朝ご飯の残りをよくこねる。糊にするそうだ。それから買ってきた和紙をおじさんの言う通りの短冊に切る。

「よし、じゃあ、この短冊にな、文字を書いたら、糊をつけてな…」

 買ってきた暦に糊を使って暦に貼りたし、このあたりの寺社の催事の予定や、あらかじめ決まっている相撲や地方興行の予定を書き込んでいく。次にこっちですべて取り仕切る興業、手伝いだけの興業、旅興業などにそれぞれ、色絵具でしるしをつけてわかりやすくしていく。

「へえ、彦六、お前さんはじめてにしちゃなかなか器用だね。字も読みやすいし、とにかく早いのがいいね」

「半助おじさんが教えてくれた通りに書いただけです。色分けも憶えて、言われなくても書けるように頑張りますよ。でも、川漁師の仕事と違って、いろんな場所に行ったり、仕事の種類もたくさんありますねえ。こりゃ大変だ」

「そうなんだよ。重なることも多いし、まあ、でもこうやって暦をまとめておきゃ、間違いはねえ」

 季節にもよるのだが、月に一、二週間、おじさんは地方などに興行に出かけるようだ。

「本当は連れて行きたいんだが、彦六はまだ十五だからな…、夜は地元の連中と飲む・打つ・買うの接待だからなあ。まあ、調布の兄さんや義姉さんに怒られちまうから、しばらくはここに一人でいてもらうようになるかな」

「そうですか、でもその間何もしないでこの長屋にいるのももったいない気がする」

 不定期に一、二週間が休みになるわけで、どこかで雇ってもらうのも難しい。まあ、なんにせよ好奇心いっぱいの彦六が、じっとしているはずはなかった。

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