見世物師彦六

セイン葉山

第一部「本草学と見世物と」

プロローグ 竹仙手習い塾

 作務衣を着た竹仙先生は、頃合いを見計らって立ち上がると縁側に置かれた太鼓をドドンと叩いた。手習いの小さな子どもたちは、その音を合図に習字道具と小机を片付け始めた。

「午前の部は終わりじゃ。午後の部は今日は算盤じゃ。間違えてはいかんぞ」

 そして片付け終わった子どもから、一人一人正座してきちんと先生に挨拶をし、それぞれの家に帰って行く。ここは多摩川を望む崖の上の雑木林にある竹仙塾。小さい子どもたちが帰って行くと、入れ違いに年の頃なら十五、六歳ぐらいの大きい生徒たちが手荷物を持って入ってくる。

「先生、今日は勇作の家のマスを酢でしめたマス寿司です。きっとおいしいですよ」

「いやあ、毎日すまんな。さ、上がりなさい」

 生徒たちは決められたきちんとした所作で履物をそろえて玄関から入り、お辞儀をして行儀よく部屋に入る。挨拶や言葉遣いが正しくできなければ、世界を己から狭くする。それが先生の教えであった。

 竹仙先生が奥方にお茶を入れてもらい、縁側で生徒の用意した弁当を食べていると、大きい生徒たちは手慣れた様子でいつもの勉強をそれぞれに始める。三人ほどは書斎に上がり、貴重な書物を読んだり、習字を始める。別の二人は和算の本を出して、算盤で早解きの勝負を始める。一人は弁当を食べている竹仙先生の横に正座し、家で書いてきた本草学の絵を見せる。

「崖下の湧水で育てているワサビと、同じく湧水にいるスナヤツメを書いたんですけれど」

「ううむ、彦六はいつも凝り性だなあ。砂利の中のワサビの根もちゃんと掘り起こして書いてあるのう。この間注意された葉っぱの形も今日はいい出来だ」

「スナヤツメの方はどうですか?」

「エラ孔や尻尾の感じがよくできている。ただ口の感じがこれでは普通の魚と同じに見えてしまう。ちょっと工夫が必要かもな…」

「ふむ、なるほど、ありがとうございます」

 すると先生は和算をやっている勇作に声をかけた。

「勇作。今日の弁当はまた一段と美味じゃ。本当にありがとう」

「いいえ、先生にはなんでも教えていただいてて、口では言えない恩があります。ほんの気持ちです」

 弁当を作ってきた勇作は誇らしげだった。

 竹仙先生は、崖下に広がるワサビ田や水田、養殖池や雄大な多摩川を見下ろし、深呼吸をした。

「江戸から、この深大寺の方までやってきたのは、ここならば多摩川の魚や植物が学べるだけではなく、崖下の清らかで冷たい湧水が多く、深山にしかないワサビをはじめとする清流の珍しいものが普通に見られたからじゃった。だが、住んでみると人もいいし、蕎麦をはじめ、とにかく食べ物がおいしいわい」

 思えば七、八年前、江戸から来た有名な本草学の先生が手習いを教えてくれると言うので、みんな期待してこの塾の門を叩いたものだった。最初は怖そうな先生だと思ったが、奥さんは優しいし、先生はとても物知りで、手習いだけでなく、算盤は勿論和算、魚や生き物のこと、草や漢方のこと、挨拶や言葉遣い、所作のことまでなんでも教えてくれる人だった。口癖は、「学問に貴賤はない、だれでも自由に学べるし、対等に意見を交わせる。ともに学問を究めようぞ」。大きい生徒たちも、家業の手伝いをしながら、昼過ぎの空いた時間に連れだってやって来ては、まだまだ教えを乞うのであった。

 弁当を食べ終わった竹仙先生はみんなのところを回っては、真剣に書物や和算のことなどを教えてくれた。

 最近は江戸湾にオランダやイギリスの商船が姿を見せたり、実際に日本から大砲を撃ったモリソン号事件も起きていた。先生はそんな情報も生徒たちに教え、

「お前たちが大人になった頃には、外国からどんどん新しい学問が入ったり、誰かは外国に行くかもしれん。そんな時代は遠くないかもしれん。今のうちによく学んでおくのだぞ」

 そう言ってみんなを励ましてくれた。やがて算盤を持った小さい子たちが集まり始めた。彦六や勇作たちは何度も先生にお辞儀をして、それぞれの家に帰って行った。

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