ひび割れガラスと幻想師
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ひび割れガラスと幻想師
不意に気付いて傘を下ろすと、なるほど雨は止んでいた。静かだと思っていたのだ。そういえば、頭上から落ちる雨音が聴こえない。
日に曝されると、視界がチカチカと瞬いた。
眩しい……気持ち悪い、忌々しい。
ひび割れガラスの瞳に、太陽の光は眩しすぎる。
私は一度視線を落とし、地面を見る。まだ残像が残っていて、地面の上には変わらずチラチラと光が揺れていた。
私の瞳はひび割れガラスで出来ていた。物心ついたときからこの瞳はひび割れていたから、もう慣れっこだった。けれど視界もひび割れているから、太陽や蛍光灯のような強い光が入ると瞳の中に光が乱反射してしまう。そのままでは生活できないが、偏光サングラスさえしていれば光は幾分かはましになり、日常生活を送れるようになる。
雨の日は好きだった。傘を差せば、偏光サングラスをしなくても歩くことが出来るから。雨の日の光くらいならば、目に入ってもさして眩しくは無いのだ。むしろ丁度良いくらいの光なので、雨の日は機嫌良く外へ出掛ける。
しかし雨は雨でもうっかり狐雨に出くわすと、それこそ化かされたように目の前が光に眩んでしまう。光だけでもきついのに、その光が雨にも反射して、何も見えなくなってしまうのだ。
今日は好みの雨の日で、気分良く歩いていたのに、こんな風に晴れてしまえば些か気分も落ちるというもの。残像の消えてきた視界には、雨に濡れて艶々になった石が煌めいている。
さすがにもうこの光はダメだ、と観念して、私は潔くサングラスを掛けた。
「やっほー」という声に顔を上げれば、友人がバス停の長椅子に足を伸ばして座っていた。片手を上げて「おいで」と招き、その手がポンポンと隣の席を叩く。誘われるままに座ると、友人は嫌な予感をさせるようににやりと笑う。彼の輝く笑顔には注意だ。良からぬことを考えているのは間違いない。
彼の指が目の前に伸びてきて、あろうことかサングラスの真ん中に指を引っ掛ける。
「ぅぁあ」と情けない声が自分の喉から漏れた。
「今日も綺麗な目をしているね」
私からサングラスを奪い、指で回しながら彼が笑う。眩しさに襲われる前に、目を伏せて指を揃えた手を傘にして光を避ける。
「幻想師、何のつもりだ?」
「ひび割れガラス、こんなサングラス邪魔じゃない?」
「やめてくれ」
真っ直ぐ前を見れないから、私は幻想師の膝を見ている。身体が動いて、下から幻想師の顔が現れる。
「こっち見てくれないの?」
「それを出来なくしたのはそっちだろう」
目を細め、眉間の皺を感じながらため息を吐く。
幻想師はいつもそうだ。少々強引で、いつも私を困らせる。昨日だって、カフェで私のパフェのケーキを許可も得ずに一口食べ、さくらんぼを私の口に突っ込んだのだ。
「偏光サングラスって、直線の光しか通さないんだろう?」
「ああ。反射光は通さない。あとこれは色が付いているから普通よりも暗く見える」
「ふぅん、反射光を通さない、ね……それはこっちにとっても同じでね、ちょっと勿体無いと常々思っていたんだ」
不意に何かに気付いて、幻想師が天を仰ぐ。
次第に、サーと砂嵐のような音が広がって、同時に肌に細かい粒を感じた。
これは霧雨。
狐雨だ。
思わず私は目を閉じた。
私の周りが、光の海になるのだから。
「幻想師、頼むからサングラスを返してくれないか」
「どうしよっかな」
「冗談は止してくれ」
「あ、あれ」
「眩しいから」
「ねぇ、ひび割れガラス」
「早くしろと」
「虹だ」
その言葉に、思わず目を開けた。
虹は見たことがなかった。眩しい視界ではその姿を捉えることが出来なかったし、偏光サングラスは屈折した光の塊である虹を映すことは出来ない。
どんなものなのだろう。
美しいものだと人は言う。
「あぁ……」
堪えきれず、目を閉じた。
やっぱり眩しい。あまりの眩しさに気持ち悪くなって、目の奥が疲れたように痛くなって、自然と涙が浮かんでくる。
私の目には、虹を見ることが出来ない。見ようとしても、光が邪魔をしてしまうから。
やはり私は、地面が好きだ。
そうに違いないんだ。
そうして下を向いていると、顎を指でついと上げられて彼の方を向かされた。急に現れた彼の顔と眩しさに、私の頭はくらりと眩む。
「どうしたの?」
心配しているらしい。不安そうに顔を覗き込まれている。間近な彼の顔が堪えられなくて、私は弾くように指を払った。
「大丈夫だ」
「体調悪い?」
「違う」
「じゃあどうした?」
「虹は」
どうしてだろう、頬が引きつるような感覚があった。
「虹はそんなに綺麗なものなのか?」
その言葉を聞いて幻想師は真顔になり、次に柔らかく表情を崩した。
「……泣きそうな顔で、そんなに懇願されるような声で言われたら、僕は抗うことが出来ないよ」
はっ、とその意味に気付いて「頼んでない」と慌てて言うも「はいはい、分かってるから」などと軽くあしらわれてしまう。
彼は再びにやりと笑う。
嫌な予感がした。
「虹を見せてあげよう」
彼は幻想師。
人に幻想を見せることが趣味の男だ。
彼の片手が私の両目を塞ぎ、光の無い手の中で私の瞳は闇を映した。
甘く透る声が、私の耳に囁いた。
「ひび割れガラス、君は僕とバス停の長椅子に座りバスを待っている。今日は美術館に行く予定だったね。かつて長崎の出島にて取り引きされていたギヤマンの展示だ。君は楽しみで昨日の夜は眠れなくて」
「十時には寝ていたが?」
「失敬。よく眠った君は朝起きて、耳に雨の音を聞いた。君は雨の日が落ち着くんだ。安堵した君は身支度を整えて傘を肩で支えて家を出る。それでね?バス停で落ち合って、僕は雨が止んだことに気付いて、空を指差して君を向く」
幻想師の言葉が呟かれるごとに像を結び、暗闇にバス停にいる君と私が映し出される。今日と同じ服装で、同じように君は私を待っていた。違うのはまだ雨が降っていることだけ。映像は古い映画のような覚束無さはあるが、はっきりと情景は見てとれた。そして雨は止み、君は笑いながら指を差し、私はつられるように空を見上げた。
そして。
「ね?綺麗だ」
幻想師の手が私の前から消える。
空を見上げ――言葉を失った。
「……これが、君の見る虹か?」
色とりどりのアーチ。青い空をバックにして、半円が空にかかっている。
「内側は赤、色はグラデーションに変化して外側は紫へ。どう?見えてる?」
「これが本当に、君の見ている虹なのか?」
「語気が荒いけど、どうした?」
「こんなもの……こんな忌々しいもの、いつも嫌というほど見ている!」
なんて、皮肉だ……。私は両手で目を塞ぐ。
私の瞳はひび割れガラス。私はいつも瞳の中で、こんな色とりどりの光を見ている。屈折した光はガラスの中で分光されて、虹のように瞳の裏に像を為す。それは謂わば縦横無尽に走る虹。
この虹を綺麗というのなら、この忌々しい色ばかりの世界を綺麗というなら、なんて皮肉なんだろう。
言い様のない悔しさに、唇を噛んだ。
「絶望なんてしないで」
幻想師が私の耳に口を寄せ、言葉を落とした。
「ひび割れガラス、君は自分では見えないんだよね。虹を見ることの出来ない瞳は、自分の目の中の光も鏡で見ることは出来ないんだもんね」
幻想師の君は私の手を外す。太陽の下に、自分の瞳が暴かれる。
目の前には君。瞬きの音も聞こえてしまう距離に君がいる。頭を押さえられて、私は他を見ることが出来ない。
君に……瞳を、ガラスを、見られている。
抗おうにも、押さえる君の力は強くて、何より離す気のない意志を感じられた。
「君のガラスは特殊なガラス。本来であればカメラや映写機の奥にひそむ、いわゆるプリズムと呼ばれるガラスだ。強度があるはずだけれど、どうしてか君のは割れているね」
光のせいでまともに目を開けられないまぶたを、君は指で開いて、尚もよく見ようとする。君の瞳があまりに近い。
「知ってるかい?光を通した君の目の中には、いつも虹が見えるんだ」
嫌がろうにも腕は掴まれ、君は私の意思なんてそっちのけ。いつもそうなんだ。だから私はされるがまま。だから私は白んだ視界で、目の前の君の瞳を同じように見ている。もしかして、こんな風に明るくなければ、君の瞳に私が映るのも見えるのだろうか。
「それでね、僕はそんな君の瞳が好きなんだよ」
ふふ、と楽しげに微笑む君は、いとおしむようにひび割れガラスにキスをして、一度ぺろりと舐め上げる。その熱に、ぞわりと背筋が凍ったが……どうしてだろう、悪い気はしなかった。
「幻想師、いつか私はこの瞳を愛すことが出来るだろうか?この欠陥品の瞳を」
「それはどうだろうね?分からないな」
「無責任なことだ」
「僕は無責任な男だからね」
そう言って君は私を解放して、サングラスを掛け、髪を整えてくれた。
「けれど僕は君が好きだよ。その瞳が好きだ」
サングラスの収まりが悪いので、ツルを触りながらそっぽを向いた。地面ではやっぱり、濡れた石が地面で嬉しそうに艶々と輝いている。
「綺麗だ」
白々しくそんなことを言うものだから、気恥ずかしさに私は彼の方を向けずにいる。
「そう言われるのは嫌?」
「……悪い気はしない」
今度は強引に向こうを向かせようとはしないで、くしゃくしゃと後ろから頭を撫でる。
遠くから、バスのやって来る音が聞こえた。幻想師は席を立ち、私に手を差し伸べた。
「じゃあ行こうか」
「そうだな、行こう」
霧雨は降っていて、おそらくまだ虹も出ているのだろう。今はサングラスを掛けているから分からないけど、きっと私の瞳の中にも虹がある。
狐雨でも今日はいつもより少し気分が良くて、私は差し伸べられた手を取った。
ひび割れガラスと幻想師 2121 @kanata2121
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