花霞


      *


 左大臣の告げた言葉の衝撃に、帝は言葉を失った。


「皇后さまと、今一度相見あいまみえることができる、と申し上げましたら――御上は如何なさいますか」


 確かに、左大臣はそう言った。


「それは、まことなのか……?」


 御簾越しには、左大臣の顔を伺うことができない。

 帝は御簾を跳ね除けたい衝動をぐっと堪えた。


「都には、御上と対を為す主がございますことを、ご承知でしょうか」

「藤と菊のことか?」

 それならば、帝も知った存在だ。

 物心ついた時から、は宮中に暮らす者ならば誰もが知っている。


 御上とはもう一対の都の主である、と。


 御簾をすり抜けた2人の童は、ニィッ、と唇を釣り上げた。紅を塗っているのか、唇は血のような赤で染まっている。



「皇后と、もう一度会いたいか?



「当たり前だ」


 帝は躊躇なく答えた。

 最愛のひとを失ってから、5年。他に妃を迎えても尚、帝の心から定子の影が消えることはなかった。


「定子に会えるのならば、私は何でもする。何を犠牲にしても、構わない」



「その言葉、偽りはないか」

「たとえば、そうさな――皇后の姿をしていなくても?」



「構わぬ。……御霊が定子であるのなら、私はその者を愛そう」


 どのような醜女しこめであっても、男であっても、構わない。帝が惹かれたのは、定子の容姿だけではない。


 産みの母でさえ、帝を一人の人間として見なかった。無論、それは目の前の男も同じではあるが。

 懐仁やすひとという一人の男としてかなしんでくれたのは、定子ただ一人。


 定子が帝としてではなく、一人の男として己を見てくれたのだから、帝もまた、定子がどのような存在に成り果てようと、受け入れる覚悟があった。



「お見事」



 藤と菊が手を打った。



「天晴だ、帝」

「そなたの望み、必ずや叶えてくれる」



「……だが……本当にそのような真似、できるのか?」


 定子の体は既に荼毘だびに付され、現世うつしよには存在しない。

 墓を暴いたとしても、5年も経てば、そこにあるのは骨だけだ。骨であろうと愛しさは変わらないだろうが、あの黒髪を愛でられないのは寂しくもある。



「なぁに」

「簡単なことじゃ」



 童達が唇を舐めた。



「器がなければ、移せばいい」



「移す……?」



「別の者の体に、皇后の御霊を移す」



 何てことのないように言う二人の神霊の言葉に、帝は問い返した。


「……その体の持ち主は?」


「当然、消えるでしょうな」

 左大臣が藤と菊の言葉を引き継いだ。

「御霊だけでは、現世を生き延びることは、不可能かと」

 帝は、臣下が放つ冷淡な物言いに、思わず唾をのみ込んだ。


      *


 藤壺の、中宮の私室の御簾が揺れる。寝衣姿で、彰子は頬を擽る髪を撫でた。


 挨拶を述べる暇も与えられず、彰子は帝の腕の中へ閉じ込められる。

「御上」

 呼び掛けるが、返事はない。帝の異変は、腕の振動が伝えて来た。

「寒いのですか?」

 顔を上げると、帝は荒々しく彰子の唇を奪い、呼吸を吸い上げた。離れて覗き込むと、帝は光のない目を向けた。


「中宮」

「はい」

「……頼みがあると言ったら……聞いてくれるか?」

「何なりと、お申し付けください」


 彰子は帝の物だ。

 触れる頬も、腕も、耳も、目も、髪の一筋さえも。


 帝が望むのであれば、どんなこともする。あの晩、そう誓ったのだ。


 帝は「すまない」と頭を下げた。


「いけません」彰子は慌てて制する。

「天に立たれる御方が頭を下げたりなんて」


「死んでくれ」


 続けられた言葉は、頭に水を浴びせられたようだった。真冬の中に置き去りにされたように、心が凍て付く。


「……定子を、蘇らせる方法がある」

 帝が訊いてもいないのに答えた。

「皇后様は……」彰子の声は思いのほか冷静だった。「皇后様は、荼毘に付されたのでは……?」

「故に、定子の魂を移す器が要る。……そなたは、定子の従姉妹いとこ。そなたの体なら、定子の魂もよく馴染むに違いない……」


(……私は、定子様の代わりだと、思っていた)


 定子に代わって、定子の子をはぐくんでいた。


 定子を愛しむ想いごと、帝を愛しむ決意をした。


 そして帝は、そんな彰子の心を受け入れてくれたはずだった。


 たとえ、身代わりでもよかった。彰子のことを少しでも愛しい、愛いと思ってくれれば。


 しかし、実際は違う。帝は、端から彰子を定子の身代わりにしてなどいなかった。彰子は定子の身代わりにすら生り得なかったのだ。


(なんて、滑稽な)

 

 彰子は帝の表情を一つも見逃すまいと思った。帝が苦しんでいるのが目に取れて、少しだけ胸がスッとした。


「……すまぬ。今の話、忘れよ」


 すぐに後悔したのだろう。帝は怯えたように、彰子の頬を掌で包み込む。彰子は微笑みを湛えたまま、帝の掌に擦り寄った。


「1つだけ、お聞かせ願えますか」彰子は夫を真っ直ぐに見つめた。「ほんの一時でも、私のことをかなしいと――想ってくださいましたか?」


 帝は何も言わず、ただ黙って彰子の体を抱き締めた。それがこの想いへの答えだった。




(私は帝の物。帝の願いを叶えてあげるの。だから――いいの)




      *



「本当にそう思うか」



 聞き慣れたぶっきらぼうな二つの声を耳にする。


 彰子は今までで一番丁寧に髪を梳かせ、化粧も施した。

 水面に映る自分は、今までで一番綺麗だと自負できる。


「いいの」


 彰子は笑みを漏らした。


 帝は彰子がいなくなることを少しは惜しんでくれた。そのことだけで満足しなければならない。


「それはまことに帝の為か」藤は口の端を釣り上げた。


「勿論よ」


 菊は吊り上がった口を動かした。二人とも、心の底から楽しそうだった。「定子との約束はどうする?」


『宮達の母になってほしい』


 そう約束したのは昔のこと。


 その約束はもう要らない。定子が自分で面倒を見ればいい。


 これでいい、これでいいのだと言い聞かせた。私は幸せだ。愛する人の為に尽くすことができるのだから。



「全く、やはり人の世は純真なだけではいられない」

「今のお前は、自らを犠牲にしている状況に酔い痴れているだけに他ならん」



「……二人とも」彰子は目を細めた。「定子様達に何かしたら、私は貴方達を呪い殺すわ」


(たとえ都の真の主があなた達であろうと――私の主は、あの方だけ)


 女房に梳かせた髪から、香りが漂う。帝が褒めてくれた伽羅の匂い。指先はしっとりと濡れ、やや冷たくなって来た。


 童達の甲高い声を背に、もやのかかった世界に片足を入れながら、彰子はうっとりと微笑んだ。

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藤散華 水城 真以 @mizukichi1565

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