決断
*
宴の晩以降、帝は藤壺に足繁く通っていた。以前のように、昼間、宮達が起きている時分だけではない。灯を消してからも、藤壺から出て行くことはない。
「――子……――子――!」
愛しい相手の名を呼びながら、狂ったように彰子を掻き抱いた。
毎夜の御渡りに藤壺が華やいだのは、最初の半年ほどだけだった。
帝が藤壺の彰子の元で寝泊まりするようになって、2年が経過した。懐妊の兆しは、未だない。
*
能面のような表情をした男の顔が、明かりも灯さぬ薄暗闇に浮かぶ。
藤壺の中宮の父・左大臣である。
入内させた中宮が帝の寵愛を受けていると聞いた時、左大臣はようやく自身の願いが叶うと信じていた。
帝の子の祖父として、国の頂点に立つ。
長い長い時の中、兄達の踏み台として泥水を啜って来たのがようやく実を結んだ。
忌々しい皇后もようやく死んだというのに、中宮は2年経っても懐妊の兆しが見られない。
側近達は授かりものだから、と憐みを述べるが、左大臣はそうは思っていない。
――これは、呪いだ。
「全く、しぶとい女だ」
亡き皇后が自分を深く恨んでいたことも、生家の再興を願っていたことも知っている。
帝の寵愛以外を全て失ったまま、皇后は死んだ。皇后が残したのは、宮達だけ。そのうち一人は親王。順当に行けば、皇后の遺児が春宮になる。
左大臣は脇息を蹴飛ばした。
「おのれ……! 死して尚、我が願いを阻むか、定子……!!」
闇の一点をじっと睨み付ける。答える女はいない。だが、きっと左大臣をどこかで嘲笑っているに違いなかった。
「お困りのようだな」
子ども特有の甲高い声に左大臣は振り返った。
立っていたのは、
「これはこれは――」
左大臣は取って付けた笑顔を浮かべた。
「宮の主殿。斯様な場所にお越しいただけるとは、至極光栄にございます」
「よいよい」
「取ってつけるな、楽にせい」
藤と菊はにたりと唇の端を歪めた。唇の隙間から、獣の牙が鋭く光った。
「そなたは、皇后にひどく憎まれておる」
「……そうでございましょう」
左大臣は眼の光を捨てた。
皇后にとっては、父の死後藤原北家を乗っ取り、兄を失脚に追い込んだ。その上、新たな妃として今の中宮を送り込んだのである。
小賢しい皇后が左大臣の狙いに気づかぬわけがない。
「中宮が子を産めば、皇后の産んだ親王はどのように扱われるか分かったものではない」
「皇后にとって、愛しい息子が日陰に追いやられることほど悲しいことはなかろう」
「無論、丁重には扱わせていただく」
「そうは言うても、そなたの言葉なぞ誰が信じるか」
「だからこそ、皇后はそなたの娘に宮達を託したのじゃ」
中宮に自身の子を託すことで、皇后は帝に自身のことを忘れられなくした。
左大臣は拳を握り締める。なるほど、確かに呪いである。宮達は皇后の面影を背負っているのだろう。そして藤壺の中宮は皇后と
近頃御簾越しにしか会っておらず、女房を通してしか会話もしていない。しかし、中宮は左大臣が思う以上に皇后の面影を引いているのでは――と思った。
(定子……彰子に取り憑き、子も産ませぬつもりか。皇子は、己の生んだ
左大臣の目を見た藤と菊は喉を鳴らした。
「安心致せ、左大臣」
「今のままならば、何も起こらぬ」
「今のままならば、とは、如何様な意味にございましょう」
「そのままの意味だ」
「都に咲くは、生い茂る藤の花に非ず。白き梅の花である」
「藤が咲いていないわけではない。だが――そなたは如何じゃ?」
「梅と藤、どちらも愛でる気はあるのかえ?」
左大臣は、童の姿をした人外の者達を見つめた。
「もし」
藤と菊が、衣を翻した左大臣に言葉を掛ける。
「彰子に子を産ませたいか」
左大臣は後ろを振り返った。
童達は、笑みを浮かべている。人ならざる者特有の笑みである。恐らく、左大臣も同じ表情をしているに違いなかった。
「都の主殿。――ぜひともお知恵を賜りたく」
藤と菊は左大臣に顔を近付けた。
左大臣が望んだのは、三日月ではない。そして、梅や桜や藤、沢山の花が咲く庭でもない。
望むのは、欠けたところがない望月と、一面の藤の花だけだった。
(私は、そのためならば鬼にでもなろう。――欠けた月にも、梅の香も不要であるぞ――)
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