おばあさんの樹

 

ある日わたしはある町を歩いていた

吸い寄せられるように

どうしてわたしがその町を歩いていたのかは

今となっては全く思いだせない

仕事だったのかプライベートだったのかも

 

それは閑静な住宅街だった  

色とりどりの屋根

きれいに剪定された植栽

可愛らしい玄関

いろいろな形の窓


その住宅街を歩いているだけでなぜか心が弾んだ


 『ようやく着きましたね』

どこからともなく声が聞こえた


 『あなたを待ってたんですよ』

 「わたしをですか?」

わたしは心の中で応えた


 『そう、あなたを』

わたしの心の声に対して返ってきた


歩いていると住宅街が開けて広い一角にたどり着いた

一般の区画の十倍はありそうな空地だった

遠くの方に枝ぶりの立派なクスノキがあった

わたしはその樹の美しさに惹かれて近づいて行った


クスノキのたもとに誰かがいた

  

近づくとおばあさんが眠っていた

木製の椅子に座り胸を木に寄りかけて


 『よく来てくれました』

眠っているおばあさんは嬉しそうに言った

 

 『昔はこのクスノキの枝にぶらがったブランコがあってね』

 「大きな枝ですからねえ」


 『みんながそこでよく遊んでいたんだよ』

 「そうですか」


 『こどもたちが走り回って遊んでいたよ』

 「そうだったんですか」


 『でもね』

 「はい」

わたしは小さな声で応えた

  

 『土地の買主はこれを切ってしまうんですって』

 「この樹をですか?」

わたしはこのクスノキを見上げた

大きすぎて切ることができない気がした


 『立派な樹だと思うんだけど』

 「もったいないですねえ」

おばあさんは依然眠っていました


 『あなたもそう思いますか?』

 「はい」


 『この樹はわたしのお父さんが苗木を植えたんです』

 「そうだったんですか」 

 

 『植えた時にお父さんは周りに柵を作りました』

 「そうですか」


 『誰かが踏んだりしないように』

 「そうですか」


 『お父さんはいつもをお水をあげ』


 『お父さんはいつも肥料をあげ』


 『お母さんはあげすぎだと言い』


 『お父さんは害虫が付くと夜まで取り』


 『台風が来る前には添え木をし』


 『お父さんはいつも剪定をし』


 『お父さんは秋になるとクスノキの落ち葉をきれいに掃き』


 『お父さんは雪が降ると一番にクスノキの雪かきをして』


 『お父さんはわたしとクスノキの写真をたくさん撮り』


 『わたしが病気のとき、お父さんはこのクスノキに祈り』


 『わたしが結婚するとき、このクスノキにお酒をあげ』


 『お父さんはいつもこの樹を守り』


 『お父さんはいつも嬉しそうにクスノキを見つめ』


 『お父さんはこのクスノキが大好きだと言い』



 『このクスノキはね』

 「はい」

 

 『わたしが生まれた日にお父さんが植えたんです』

 「そうですか」



 『だからこの樹はわたしなんです』


おばあさんは言った

わたしはなにも返事ができなかった

 


 『日が暮れて来ましたね』

 「家に帰りましょう」


 『いいの、わたしはもう少しここにいるから』

 「風邪をひきますよ」


 『いいの』

 「いいんですか?」


 『おじいさんをここで待っているの』

 「おじいさん、遅いですね」


 『寒くなってきたよ』

 「おばあさん、大丈夫ですか?」


 『早くお帰り』

 「いいんですか?」


 『いいんだよ』

 「帰りますね」

ホームセンターで小さな毛布を買って来てあげよう

わたしは思っていた


 『でもよかった』

わたしはおばあさんを見た

おばあさんは微笑んでいた


 『あなたが来てくれて』

わたしはクスノキを見上げた

荘厳な枝ぶりだった

 

 『本当によかった』

わたしは夕陽を眺めた

カラスの親子が飛んでいた

おばあさんは泣いているかもしれなかった


 『ありがとう』


クスノキが見えなくなる角を曲がるとき

わたしは振り返った

そこにおばあさんはいなかった

大きなクスノキも広い空地もなかった


ただ住宅街がならんでいた

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