第44話 43.エーゲ海有線で聞く除夜の鐘

ワード43『エーゲ海』

 本物の『エーゲ海』を僕は知らない。

 池田満寿夫の『エーゲ海に捧ぐ』をテレビの映画劇場で、女優さんが陽光の下、スカートをたくし上げておしっこをしていたシーンのみ覚えている。青い空。白い壁。赤いワンピース。白い大きな麦わら帽。サンダルに白い尻。そして白い床を流れていくおしっこ。

 でも僕にはもうひとつ『エーゲ海』があって、それは「HOTELエーゲ海」だ。

 僕はそこで産まれた。

 もちろん、その時の記憶はなく、両親にきちんと聞いたこともない。出生の一風変わったエピソードとして息子に話すのは、難しかったことと思う。だいたい、高校生くらいまでは、両親の恋愛。両親のセックスを現実として受け入れることに猛烈な拒絶反応を覚えるものではないだろうか。自分が未体験であったために膨れ上がった恋愛セックス妄想に、両親が含まれると考えることすら、ある意味聖域を侵されるような怒りすら感じたはずだからだ。

 僕はラブホテル『エーゲ海』で産み落とされ、それから近くにあるS産婦人科に運ばれた。だから必要な検査や手続きはきちんとクリアしている。その当時の父と母との間に何があったのかは、とうとう聞く機会を逸したが、母が膨大な日記を残しているので、それを紐解けば或いは、僕が『エーゲ海』で生まれた経緯がはっきりするかもしれない。とはいえ、僕はそれを読んでみたいとは思わないのだが。

 もうひとつ。

 幼稚園当時、まだファミリーレストランがあまり一般的でなかったころ、ロードサイドの飲食店は「ドライブイン」などという看板を掲げ、レストランが主流だった。そうしたレストランは海の名前を冠したものが多く、「カリブ海」と「地中海」は、父とよく利用した記憶がある。「エーゲ海」はなかったようだ。ブロンズ色のガラスに囲まれた少し暗い店内には高級感があって、中には巨大な熱帯魚の水槽があったりした。そこでお子様ランチを頼むのは、幼かった僕の幸せのひとつだった。

 こちらの「海」には母の記憶がない。これも『エーゲ海』の経緯に何か関係があったのかもしれない。

 というわけで、僕は本物の『エーゲ海』については無知なまま、『エーゲ海』というワードで俳句を作らねばならない。実際に『エーゲ海』に取材していたなら、「写生句」として『エーゲ海』が動かない、という根拠にできるのだが、ワードとしての『エーゲ海』は、「地中海」「日本海」「カスピ海」などと入れ替えても成立してしまうような、『エーゲ海』である必然性のない句ばかりになりそうだ。と弱音を吐いた上で、ラブホテル『エーゲ海』の句を紛れ込ませたいと思うのである。

 十七音で、『エーゲ海』が、本当の『エーゲ海』か、ホテル『エーゲ海』かを明確に区別するのは難しい。そのあたりは、連作風にすることで、虚実によっていただければと願うばかりである。

 さて、俳句だ。


 去年今年エーゲ海てふラブホテル

 七夕やホテルエーゲ海の生まれ

 エーゲ海手探りすればさくらんぼ

 寒の海エーゲ海まで続くとや

 蛞蝓といふ字どこやらエーゲ海

(蛞蝓といふ字どこやら動き出す 後藤比奈夫)

 正月のエーゲ海からバスに乗る

 エーゲ海方面を向き昼寝の子

 エーゲ海にもよもぎ餅らしきもの

 山笑ふ白壁多きエーゲ海

 炎昼の影も真白きエーゲ海

 エーゲ海開かぬ窓から寒椿

 本当のエーゲ海なりかげろへり

 ベッドには蜻蛉の骸エーゲ海

 エーゲ海の回転ベッド朧月

 エーゲ海桜並木を過ぎて右

 エーゲ海といふホテルやヒヤシンス

 日盛の白壁くすむエーゲ海

 日盛の階段暗しエーゲ海

 水着着てエーゲ海まで下る坂

 エーゲ海も区民プールもこのビキニ

 ひぐらしやラブホテルエーゲ海にて

 冬ざるゝ壁に貼られしエーゲ海


そして表題句

エーゲ海有線で聞く除夜の鐘

今回はこれで。


 

  

 

 

 

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