第10話 9.まはり道きゝしにまさる冬いちご
ワード9.回り道
例によって、検索してみるが、「回り道」を用いた句はとても少なかった。俳句の気分として「回り道」は似合うと思うのだが、「近道」「早道」「抜道」などのほうがよほど多い。俳人はせっかちなのだろうか。それとも「回り道」にもなにかしら、意義を見出して、むしろそちらを季題としてしまう性があるのか。「探梅」とか、「踏青」とか。
「回り道」に、「強制」や「探索」と捉えることは俳句っぽくないと僕は思う。しかし常に「句を拾おう」という欲に突き動かされていれば、「回り道」に積極性を見出したくなるのは当然のことで、ゆったりとこれを「回り道」としてのみ享受しても、俳句は拾えないだろう。ジレンマだ。
悟りたい、という欲望も、欲望なのだからそれを離れるべきなのであって、俳句を拾うという精神もまた、同様であるとモノの本に書いてあるのだが、それこそ、呼吸や血肉や五感の全てが「俳句器官」とならないかぎり、そのような境地は不可能に思え、しかも「俳句器官」という存在はまさに、「業(カルマ)」そのものではなないのかとも思われる。『全身小説家』という作品を思い出しながら「俳句」はそのうえさらに「韻律機関」としての働きをも兼ね備えなければならない。
器官と機関。これは長らくテーマとなっている。
受動的な「回り道」と、自主的な「回り道」がある。そんな気付きから、今回は始まった。「回り道」の理由なのか、その途上の景なのか、した結果遭遇した事物なのか、回り道の後なのか。回り道に、そもそも理由など必要なのだろうか。
品川から戸塚に戻る際、川崎から南武線で立川を折り返す道程は、回り道と呼べるのか? 学校帰り、家を通り過ぎてわざわざ長い坂を下って友達の家で遊んで、急坂をズブ濡れになりながら自転車を押し上がることはどうか? 大学を退学し、結局今こうしてここにいることは、目的なき回り道(の途上)ではなかったのか? 目的地がなければ回り道はできない。ならば、目的地をもたない回り道とは? これらを俳句にこめることができるのだろうか?
昼食後。気持ちの良い風を受けながら、「回り道(まわり道)」を寒い季節で作りたいと思って、片っ端から作る。
人日を手持無沙汰に回り道
回り道とて懐手してをりぬ
初明り回り道の長き途上
門松を指折り数え回り道
回り道名刺受ある門二軒
年玉の袋もなくて回り道
賀状手に回り道して後不詳
初日記に書くこともなく回り道
取り札を回り道する歌留多取
難しい。回り道黙って考え込む秋麗。
寒稽古回り道する子の素足
七草を集めんとしてまはり道
かまくらにしつらへありぬまはりみち
回り道寒し近道なほ寒し
節分やほとぼりさます回り道
凍雲を目印として回り道
凩に吹き飛ばされて回り道
雪国のいづこの道もまはり道
雪原に幾筋もある回り道
まはりみちもちあげてゐる霜柱
着ぶくれの人に挟まれ回り道
回り道して来るといふラツセル車
まはりみちして冬眠のくまとあふ
冬の蝶死は悉く回り道
冬薔薇一輪憶え回り道
そして、表題句。
まはり道きゝしにまさる冬いちご
やはり「回り道」には何か期待してしまうのであった。
今回はこれで。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます