第7話 6.啓蟄とインク壺より引き出しぬ

 ワード6.『インク壺』である。

 決まってノートを書くときは万年筆を用いる。万年筆もインクもノートのリフィルも、20年来同じものを使用している。そんなこともあり、『インク壜』もしくは『インク瓶』というワードは自分には親しいものであった、のだが、なぜか提出したワードは『インク壺』なのである。

 「壺」? 僕は自分が「壺」と指定したことをまったく失念していた。

 イメージは、市販の万年筆インクが入っている、さまざまな意匠の硝子製の瓶、または壜である。(ところで、瓶と壜。個人的に、丸っこいのが壜で、背の高いものが瓶というイメージで、このように併記しているのだが、検索すると以下の記事があった。

『漢字文化資料館 漢字Q&A

 Q0170 「瓶」と「壜」は、どちらもビンですが、意味の違いや使い分けなどあるのでしょうか?

 A.「壜」は、現在ではビンと読んで、主にガラス製の液体用容器の意味で使われます。しかし、漢字が生み出された遠い昔の時代には、ガラスは「超」の付く貴重品でしたから、もともとは土器の壺のことを表していました。そのことはこの字に「土へん」が付いていることからもわかります。

一方、「瓶」はというと、こちらには「瓦」が付いています。瓦というと、私たちはすぐに屋根瓦のことを思い浮かべてしまいますが、もともとは陶器一般のことです。実はこの「瓦」、たいへん地味ではあるのですが部首の1つで、漢和辞典でその「瓦」の部首のところを調べてみると、陶器に関する漢字がたくさん並んでいるのです。

そういうわけで、「瓶」はもともと陶器の壺を意味していた漢字ですから、「壜」も「瓶」も、大昔においては、ほぼ同じ意味であったといえます。ただし、そのころの「壜」の音読みは、ビンではなくて、タンであったようです。この漢字がビンという読み方でガラス製の容器を表すようになったのは、実は日本独自の用法だとされています。これに対して「瓶」の方は、もともとの音読みはヘイで、ビンという音読みは、それが時代とともにに変化したものです。つまり、ビンという読み方を表す漢字としては、「瓶」の方が正統派なのです。

このように、「瓶」と「壜」は、意味の上からはほぼ同じなのですが、ビンという読み方として用いる場合には、「瓶」の方が由緒正しいといえます。現在の『常用漢字表』で、「瓶」だけが採用されている理由も、このあたりにあるのでしょう。一般生活では、こちらを使っておく方がよさそうです。

( https://kanjibunka.com/kanji-faq/mean/q0170/)より引用』


 形も素材も元来は区別はなく、むしろ陶製の壺をさすものであるという。

 だから、『インク壺』も『インク瓶』も同じであり、それが硝子製であることを、きちんと示したい場合は『ガラス製のインク瓶』と書かねばならない。(「壜」がガラスを指す用法が一般的であれば「インク壜」を用いるべきか)

 だが『インク壺』で検索をかけると、ほぼ市販のガラス製のインクビンの画像ばかりであることから、『インク壺』で、インクが入っている硝子の容器、という認識を期待することは誤りではないだろう。

 だが、「壺」というと僕はどうしても「蛸壺」や「墨壺」や「骨壷」が紐付けされてきてしまうし、「備前」「伊万里」「信楽」などの、ずんぐりとした陶器というイメージも強い。単に「壺」と聞いてまず、それが硝子だと思ってもらえるかどうかは、やはり疑問だ。


 ついでに、『インク壺語』という言葉があった。

 これは、英語圏で語源にこだわる衒学的な専門バカが、やたらとラテン語を多用することを揶揄した呼び方だそうだ。ソースはこちら。


『現代英語を英語史の視点から考える 堀田隆一

第六回 なぜ英語語彙に3層構造があるのか? ――ルネサンス期のラテン語かぶれとインク壺語論争

 英国ルネサンスの花咲いた初期近代英語期は,英語史上,ラテン語借用が大爆発した時代でした.特に1530-1660年は,英語史において語彙が最も速く成長した時期とされますが,ラテン語はその時期に最大の貢献をなした言語でした.


しかし,この「ラテン語かぶれ」には,負の側面もありました.ラテン語を格上の言語として仰ぐ学者たちは,半ば盲目的にラテン単語を借用しましたが,衒学的な用語が多く,借用の速度もあまりに急だったため,保守的な論者から “inkhorn terms” (インク壺語)と揶揄されるようになりました.学者のシンボルであるインク壺に引っかけた,巧みなネーミングです.1553年に,代表的な批判家の1人であるトマス・ウィルソンは,著書 The Arte of Rhetorique において,最近はやたらと外来の “ynkhorne termes” ばかり使うヘンテコな言葉づかいが流行しており,母語が忘れ去られてしまったかのようだと不快感を表明しています.別の論者サー・トマス・チェロナーも,そのような語彙を操る者は,“foolelosophers” (fool と philosopher を合わせた「バカ学者」ほどの意)であると非難しています.

(http://www.kenkyusha.co.jp/uploads/history_of_english/series/s06.html)より抜粋』


 因みに、「壺」のイメージに「墨壺」を挙げたのは、父方の祖父が大工だったためでもある。幼稚園から小学生の頃は、家庭の事情で本家に預けられていた。そこは回遊庭園があるような家で、薪をナタで割って風呂を炊く、といった生活様式に親しんでいたのである。それは今思い返せば、文化としてとても豊かな暮らしではあったが、祖父は非常に厳格で怖かった。趣味として洋蘭の栽培も本格的にしていた風流人でもあって、今思えば、もっと話をしておけばよかったと後悔している。


 さて、俳句を作らねば。

 だが一体、『インク壺』の季は何か? ともかく情景が浮かんだままを、書きなぐってみる。


 インク壺色濃き影を晩夏光

 冴へ返るものの一つにインク壺

 冬怒涛机にインク壺ぽつん

 凍曇抽斗奥のインク壺

 冬怒涛父の不在のインク壺

 春昼をゆつくり落つるインク壺

 インク壺はゆつくり春昼を落つ

 春昼をまつさかさまのインク壺


 春? なんとなく春に焦点が合ってくる。


 うららかやインク壺満たししことも

 避暑の部屋部屋それぞれにインク壺

 春炬燵出てインク壺取りにいく

 インク壺買い来し町の鞦韆よ


 思うに、『インク壺』はフェティッシュだ。というより、俳句における「物(の名)」はみな、フェティッシュである。それらは一度「意味」を剥ぎ取られ「形象」のイデア風(僕はイデアを認めないが、イデアという概念は便利に用いる癖があった)なイメージへ還元したところで「名前」と「形」とを再び巡り合わせる、というようなところがありはしないか? などとこねくりまわす。ようは、決まらないのだ。


 そして、表題句


啓蟄とインク壺より引き出しぬ


 昨日読んでいた、トマーゾ・ランドルフィの『カフカの父親』という短編集の、『手』という話に、鼠が腹から細い腸を長々と引き出されていく描写があり、そのイメージと、やはり「壺」という、なにか「生々したもの」が潜んでいる感じとが相まってできた句である。

 啓蟄「と」、で、それがインクで書いた文字であることが、伝わればよいがと思いながら、万年筆のペン先の割れが、ピンセットのようにも見えてきて、そこに『インク壺』から糸ミミズのような蟲を引っ掛けてくるようなイメージである。ちなみに、父は釣りが趣味であった。

 今回はこれで。

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