大陸への帰還

1976年2月7日 佐世保軍港 佐世保鎮守府

 日本陸軍西部方面軍の上層部は大陸への上陸作戦について話し合っていた。

「佐世保から釜山・仁川・大連・天津・青島に、高雄から上海・福州・香港・澳門・広州に上陸か…だいぶ無理矢理だが本当に成功するのか?」

「制海権はともかく、上陸後が心配だ…」

 そのとき、ドアがノックされた。

 「入れ。」

 「報告です。先程、シベリア人民連邦がモンゴルに宣戦布告。既にチタは陥落し、ウランバートルへ迫っています。」

 「……奴らがシベリアに構っている今が好機だ。」

 「ああ、作戦を実行する。」


1976年2月10日 蔚山港

 ここには長春政府軍10個師団が日本本土上陸の計画を練っていた。

 「はあ。アメ公も余計なことをしてくれるなあ。釜山が使えないんじゃあ、最短攻略は無理だろう。」

 「まあ、落ち着け。取り敢えず上層部の計k」

 「失礼します!日本軍が釜山に上陸!偵察の情報によると、敵は7個師団の模様!」

 「クソッ!海軍は何をやっていたんだ!」

 「それが、先日の大連港への攻撃により、海軍は半壊。制海権を完全に喪失しました!」

「…日本攻撃は中止だ。平壌まで撤退しろ。そこで防衛線を構築する。」

 しかし、平壌への撤退は、日本の仁川への上陸によって、阻まれた。南北から挟撃された長春政府軍は崩壊。更に、シベリア軍がウランバートルを占領し、モンゴルが降伏し、長春政府に矛先を向けた。既に長春政府には三方面の戦線を支えられる余力は残ってなく、2月23日に長春政府は降伏した。


 長春政府の降伏後は中華民国領土の解放が開始された。レジスタンスだけで手一杯な占領軍は正規軍の攻撃に耐えられず、次々と壊滅。3月上旬には全土が解放された。


1976年3月19日 ベトナム どっかの密林

 パン!

 「ヒット。」

 「クソ!こちら大韓民国第18大隊!敵ゲリラ部隊の強襲を受けている!至急増援を!」

 ベトナムへ進軍した上海条約機構軍はゲリラ部隊に悩まされていた。そのせいで5月に入ってもあまり進軍できなかった。それどころか補給切れで撤退している戦線もあった。


1976年6月20日 上海条約機構 広州軍司令部

 ここでは枯葉剤の使用についての議論が行われていた。

 「馬鹿野郎!そんなことをすれば関係のない一般市民が犠牲になる!」

 「それでは、奴らが我が領土で行ったことを許すというのか!」

 「復讐の連鎖は悲劇しか生まないぞ!」

 会議は全く進まなかった。結局多数決をとることになり、枯葉剤使用の賛成が反対を僅かに上回り、使用が決定された。だが、これは後に中越関係の急速な悪化を招くことになる。

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