南洋作戦
1974年7月17日、日本国が中華民国盟主の陣営「上海条約機構(S.T.O.)」に加盟。翌日、両国が植民地主義の打倒を理由にドイツに宣戦布告。同日、中国軍がドイツ租借地の香港と湛江市へ侵攻を開始。香港は深圳から侵攻してきた中国軍と日本海軍の艦砲射撃で10日足らずで陥落。湛江市も中国軍の人海戦術で駐在ドイツ軍は壊滅し、8月2日に南方の海南島へ退却した
ドイツ海軍は海南島への支援をするため、シンガポールから戦艦ドイッチュラントを旗艦とするドイツ東洋艦隊をシンガポールがら出港させる。だが、これはSTO加盟国のベトナムが航空偵察で発見。直ぐに中国に連絡。これを受け取った中国空軍は南沙諸島沖で東洋艦隊を発見。すぐさま攻撃を開始する。
1974年8月11日 南沙諸島沖
グーン ドカーン
「敵艦一隻撃沈!」
中国空軍の激しい攻撃にドイツ東洋艦隊は耐えられず、次々と軍艦が沈んでいく。
「我がドイツの誇らしき東洋艦隊がこんなことになるとは…」
ドイツ海軍の水兵はただ目の前の仲間が沈んでいく様子を見るだけであった。そして、やがて彼らの乗る船も沈む運命にある。
……8月12日 午前2時頃
「敵艦隊の撃滅を確認。これより帰還する。」
南沙諸島の海には無数の鉄が沈むことになったこの海戦は「南沙諸島海戦」と呼ばれ、ドイツ東洋艦隊はドイッチュラントを含む戦艦3隻、重巡5隻、軽巡1隻が撃沈され、ドイツ東洋艦隊はシンガポールに停泊していた軽巡4、駆逐10を除き全滅した。これにより、海南島にいたドイツ軍は支援物資が届かなくなり、17日に全軍が中国に降伏した。
だが、ドイツ海軍にはまだ太平洋艦隊があった。これを使い、日本本土への攻撃作戦を発令した。しかし、こちらも事前に察知され、横須賀より空母富士を旗艦とする第二艦隊が出撃。8月20日に両軍はマリアナ近海で激突した。だが、ドイツ軍は未だに大艦巨砲主義から抜け出せないのに対し、日本は太平洋戦争の教訓を生かし、空母機動戦術を取り入れた。ここで大きな違いが出た。ドイツにも一応空母はあったものの、戦艦と比べると数は5分の1くらいだった。そのため、制空権はすぐに日本に奪われ、激しい航空攻撃にドイツ海軍の軍艦は次々と沈んだ。結果、ドイツ太平洋艦隊は壊滅し、日本本土攻撃計画は頓挫した。それどころか逆に日本の侵攻を許してしまうこととなり、ミクロネシアが日本軍に占領されてしまう。ドイツ極東方面軍はポートモレスビーとシンガポールへの防撤退を指示。両都市で徹底抗戦をする構えを示した。
9月7日、ポートモレスビーを日本軍が包囲し、ポートモレスビー攻囲戦が始まり、10日にはシンガポールも中国軍の攻撃にさらされるようになった。ドイツ軍は最初の一か月は耐えていたが、徐々に疲弊が増え、それと反対に食料は減っていく。両都市では餓死者が次々と現れ、地獄絵図となった。限界を感じた司令部は10月20日に降伏。翌日には両都市が降伏し、南洋作戦はSTOの勝利に終わった。
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