『ある少女の日記』

鯉昇

第1話

四月八日

 今日は私の十才のたんじょう日。お父さんが家じゅうをキレイにかざりつけて、お母さんはとてもすてきなごちそうをたくさん作ってくれた。お母さんの作るおりょうりはいつもおいしいけど、今日のはいつもよりももっとおいしかった。二人とも、私のためにおくりものをよういしてくれたの。お母さんは、イエスさまが付いた小さな十字かのぎんの首かざりと、小さなマリアさまの木のお人形。お父さんは、このかわばりの高そうな日記ちょうを買ってくれた――日記をつけるのは、おべんきょうがわりになるからだってお父さんが言っていた――おべんきょうはあんまりすきじゃないけど、お父さんがそう言っているし、この日記ちょうをお友だちがわりにしましょう。

 でも、お父さんとお母さんは、なぜだかずっと泣いていたの。どうしてそんなに泣いているの? ときいても、二人とも何でもないのよ、うれしくて泣いているのよ、と言っていた。どうして、うれしいのに泣いていたのかしら? お父さんもお母さんもヘンなの。



四月九日

 今日はあさからお母さんとちかくの森でこうそうやキノコをとりに行ったの。森の中にはキケンなどうぶつもいるから、ぜったいにはぐれちゃダメよ、とお母さんはいつも言うの。オオカミやクマがいるんだって。私は見たことがないけど、とっても大きくておそろしいどうぶつなんだって。だから、ずっとお母さんのそばをはなれなかったの。ずっといっしょにいて、いっぱいこうそうやキノコをとったのよ。お母さんはやくそうのこともしっていて、いっぱいつんだの。おりょうりやおくすりにして、あまりは干してほぞんするのよ。こんどなつになって、キャラウェイがとれたら、やきがしをやいてくれるってお母さんがやくそくしてくれたの。たのしみだな。お母さんのやくやきがしは、せかいいちおいしいのよ。早くなつにならないかしら。



四月十日

 今日はいつもとかわらない日よ。いつもどおりニワトリの声でおきて、いどへお水をくみに行って、お母さんといっしょにパンをやいたり、おりょうりをしたり、あみものをしたり、小さな畑にお水をまいたり、ニワトリたちにエサをあげたり、お祈りをささげたり、せいしょのおべんきょうをしたり――かんがえてみれば、毎日そんなことばっかりよ。だからよっぽどのことがないと、日記にかくことなんてないわ。でも、とにかく何かかくことを見つけるわ。だってそうでしょ? せっかくお父さんがりっぱな日記ちょうを買ってくれたんだもの。おべんきょうのためにも、何かかきこむわ。



四月十三日

 おべんきょうのために、この日記ちょうにせいしょのおことばをかきうつそうとおもうの。ぜんぶじゃないわ。気に入ったおことばだけよ。なぜかって? だってそうでもしないと、この日記ちょうにかくことなんて、何もないんだもの――毎日おんなじことのくりかえしなんだもの。

 さいしょは、私のいちばん好きなこのおことば。



  天におられる私たちの父よ

  御名が聖とされますように。

  御国が来ますように。

  御心が行われますように

  天におけるように地の上にも。

  私たちに日ごとのかてを今日お与えください。

  私たちの負い目をおゆるしください

  私たちも自分に負い目のある人を

  ゆるしましたように。

  私たちを試みにあわせず

  悪からお救いください。



 よくかけているでしょう? むずかしい字ばかりだから、お父さんにてつだってもらったのよ。これからせいしょのおことばのおべんきょうと、何か日記にかけるようなことをここにかいていくわ。お母さんも、『そうしたらきっと神さまが、あなたの人生をよいものにしてくださるわ』って言っていたの。だからもしかしたら、お父さんがまちへつれて行ってくれるかもしれないわ。



  神が私達をあわれみ、しゅくふくし

  その顔を私たちに輝かせてくださいますように。



四月一六日

 今日はお父さんがあさからばしゃでとおくのまちへでかけに行ったの。山でお父さんがかったシカのお肉や、お母さんと私でとったこうそうや、お母さんが作ったおくすりをうったりするの。とってもとおくのまちまで行くから、ニワトリがなくまえからしゅっぱつするの。まちはちかくにもあるのに、どうしてわざわざとおくまでいくのってきいたことがあるの。そしたらお父さんは、『とおくのまちのほうが、たかくうれるんだよ』っていってた。私もつれて行ってっていったら、『もっと大きくなったらね』っていってた。私もう十才よ。じゅうぶん大きいわ。でも、お父さんはわらってとりあわなかったわ。いったい何才になったら、つれて行ってもらえるのかしら?



  私は信じます

  生ける者の地で主の恵みにまみえることを。



  正しい人たちのたましいは神の手の内にあり

  いかなるせめくも彼らにふれることはない。



四月二十日

 今日はとおくから、お父さんのしんせきのおじさんたちがお家にたずねてきたの。私にはわからない、むずかしいお話をしていたわ。あとでお父さんからきいたんだけど、おじさんたちはシュトラースブルクという名まえのまちにすんでいて、お父さんにそのまちへ来たらって言いに来たらしいの。そのまちには私たちの助けになってくれそうな人たちがたくさんいるんだって。またおひっこししなきゃいけないのかな? せっかくすてきなところに来たのに。でも、まちはもっとすてきだってお母さんも言っていたし――どんなところなんだろう? シュトラースブルクっていうまち。

 夕しょくは、みんないっしょになってとったの。おりょうりは、私もお母さんをてつだって、二人で作ったの。とってもおいしいってみんな言っていたわ。でも、たくさん作りすぎちゃって、のこりはあしたのあさのためにとっておいたの。

 おじさんたちはシュトラースブルクのまちについて、いろいろと私におはなししてくれたわ。木ぐみの家々とりっぱな大せいどう、それにちかくには大きなかわと森もあるんですって。おはなしをきいているだけでも、とってもすてきなところなんだなっておもった――今日はとってもたのしかったなぁ。



四月二十一日

 あさはやくに、おじさんたちはシュトラースブルクへ向けてかえって行ったわ。お母さんがかごいっぱいにあたらしくやいたパンやきのうたべきれなかったおりょうりを入れて、おじさんたちにわたしたの。たびのとちゅうに、おなかがすいたときのためよ。おじさんたちはとってもいい人たちだったなぁ。それにシュトラースブルクっていうまち――行ってみたいなぁ。

 


四月二十三日

 今日、とってもきみのわるいことがあったの。何があったっていうか、何もなかったの。私とお母さんで森へ入っていったの。またこうそうやキノコをとりに行ったの。でも、何ていうか、まったくといっていいほど、きみがわるいほどしずかだったの。いつもはないている、とりの声もしなかったの。まったくよ。音一つすらしないのに、なぜだか何かに見られている気がしたの。ずっと見られてる――そんな気がしたの。何も見えないし、何もきこえないんだけど、何かがいる気がしたの。お母さんも、森に何かがいるって小声で私にいったわ。私、知らず知らずのうちに、お母さんの手をにぎってたわ。ギュッと、ずっとにぎってた――ほんとうにぶきみだったの。だから、今日はほんの少しだけこうそうとキノコをとって、かえってきたの。森のおくまでは行かなかったの。きっとキケンなどうぶつがひそんでいたんだわ。何だかイヤなにおいもしたもの。くさい――くさったお肉のような、けもののにおいのような、そんなにおいだったわ。



四月二十四日

 きいて。今日のおひるに、お父さんがまっさおなかおをして、かりからかえってきたの。とってもこわいかおをしていたわ。それで、ずっと何かをかんがえこんでいるみたいだったの。お母さんが何があったのかきいても、しばらくは何もこたえなかったの。きっと何かおそろしいものを見たのか、こわい目にあったんだわ。森にはキケンなどうぶつがいるみたいだし、私、とってもおそろしいし、イヤなよかんがするわ。



四月二十五日

 今日、お父さんがまた森へ入っていったの。きのう見たものが何なのか、たしかめに行くっていってたわ。キケンな目にあわないように、私、お母さんとずっとおいのりをしていたわ。神さまと、イエスさまとマリアさまに。そうしたら、おひるぐらいにお父さんがかえってきたの。けがはしていなかったけど、とってもあおざめていたわ。それで、私に『今日からは決して家のそとの、木のさくのむこうがわへでちゃいけないよ』っていったの。とってもこわいかおだったわ。私はお父さんのそのかおが、あんまりこわかったから、りゆうをきけなかったわ。りゆうをきいたら、なんだかとってもおこられそうな気がしたの。だから今日から、お家のそとの木のさくからむこうへは行っちゃいけないの。きっととってもおそろしいどうぶつがいるにちがいないわ。だってお父さんのあんなにおそろしいかおは、今まで見たことなかったもの。



  わが神、私をてきから助け出し

  立ち向かうものから高く引き上げ、守ってください。



四月三十一日

 あの日から、ずっとお家のなかにいるの――たいくつよ。やることといったら、お母さんのお家のおしごとのおてつだいだけなんだもの。おそとにでたいわ。



五月五日

 今日、お母さんとけんかしちゃったの――ほんとうにとっても小さなりゆうでよ。私、きげんがわるかったの。だって、ずっとあの木のさくのむこうにでられないんだもの。だから、ほんの小さなことで、お母さんにあたっちゃったの。けんかして、口をきかずに今馬ごやにいるの。でもお母さんだってわるいのよ? あんなに口うるさくしなくったっていいじゃない。



五月六日

 お父さんにいわれて、きのうお母さんとなかなおりしたの。けんかしたら、どっちかがさきにごめんなさいっていわなきゃね。だから、私がさきにごめんなさいっていったの。だって大人はなかなか、自分からごめんなさいっていえないでしょ。お母さんも、私にごめんなさいっていって、だきしめてくれた。だから、もういいの。今日からまた、いつもと同じことのくりかえしだけど、私気にしないわ。もうけんかなんてしないわ。



五月七日

 今日はいろいろなことがあったの! お父さんとお母さんと、ちかくの小川まで行くことができたの。木のさくのそとにでられたのは、何日ぶりかしら? 本当にうれしかったわ! 

 私たちは小川まで行って、そこでお母さんがお洗たくするのをてつだったの。おそとはすっかりあたたかくて、ポカポカしてきもちがよかったわ。でも、小川のお水はまだヒンヤリしていて、お洗たくしているあいだじゅう、ずっと手足がかじかんじゃった。

 お洗たくがおわったあとは、小川のきしべでひなたぼっこをしたの。とってもねむくなっちゃって、私はお母さんのおひざの上ですっかりおひるねしちゃったの。お母さんと、お花のいい匂いがしていたんだもの。とってもきもちよかったわ。

 でもおひるぐらいに、お母さんが私のほほにふれて私をおこしたの。とってもおびえてるようだったの。お父さんはこわいかおをして、私たちに音をたてたり、声を上げたりしちゃダメだって言ったわ。私はこわくなって、お母さんのむねにかおをおしつけてだきついたわ。そしたら、お母さんが、『だいじょうぶよ、何があっても、お父さんとお母さんがあなたをきっと守るからね。それにあなたにはイエスさまがついていらっしゃるわ。だから何もしんぱいしないで』って言ったの。お母さんの声はとってもふるえていたわ。きっとお母さんも、私みたいにこわかったのよ。だから、私はお母さんをこわがらせないように――ほんとうはとてもこわかったけど――「私、ちっともこわくなんてないわ」って、そう言ったの。そうしたら、お母さんはギュッと私をだきしめて、ハラハラと声をたてずになみだをながしたの。私はおどろいちゃったわ。でも、何もきかなかったわ。だって、お父さんが声をたてるなって言っていたし、それにお母さんに泣いているりゆうをきいても、きっとこたえてくれないきがしたから。

 そうやってずっと音をたてずにしていると、やっとお父さんが、『もうだいじょうぶだよ』って言ってくれたの。それで、ようやく私とお母さんはかおを上げたわ。あたりを見まわしてみたけど、私には何も見えなかったわ。でも、お父さんはずっとこわいかおをしていたの。見たこともないようなこわいかおよ。それで、私はまたこわくなったの。こわくなって、きゅうに泣きだしちゃったの。お母さんが私をまただきしめてくれたわ。お父さんはやさしく私のあたまをなでてくれたわ。

 そうしてしばらくしてから、私たちはお家にかえってきたの。お家につくと、お母さんが色とりどりのお花をあんで作った、お花のあたまかざりを私のあたまにのせてくれたわ。私がおひるねをしているあいだに作ってくれたの。とってもすてきなあたまかざりよ。あたらしい私のたからものよ。マリアさまのお人形のとなりにかざって、大切にしているの。

 今日はいろんなことがあったから、なんだかとってもつかれちゃったわ。今日はもう、これでおしまいね。



五月八日

 とってもおそろしいことがあったの。よなかにとつぜん、うまごやの方から大きなもの音がしたの。私はおどろいて目をさまして、お母さんの体にだきついたわ。お母さんは私の体をつよくだきしめて、しずかにしているように小さな声で言ったわ。おそるおそるお父さんの方を見ると、たんけんを手にしてまどからそとのようすを見ていたの。とってもこわいかおをしていて、私はよけいにおそろしくなったの。だってお父さんのかおが、まえに見たときのようにおそろしいかおをしていたんだもの。

 お父さんは、しずかに、ゆっくりとそとへでて行ったわ。少しして、お父さんの声がきこえたの。でも、それっきり何もきこえなくなったの。ほんとうに何もよ。まったく何もきこえなくなって、私はもっとおそろしくなったわ。だってそうでしょ? お父さんの声すらきこえなかったんだもの。

 それからずっと私はお母さんとだきあっていたわ。それでしばらくしたあとに、お母さんが私を体からはなして、そとのようすを見に行ったの。それから少しして、お父さんと二人でもどってきたわ。お父さん、あたまから血をながしていたわ。私はこわくなって、泣きだしちゃったの。お父さんがそれで私におこったような声で、泣くなっていったの。でも私はもっとこわくなって、もっと泣いたの。そしたらお母さんが私をまただきしめて元気づけようとしたの。それで、しばらく泣いて、ようやく私は泣きやんだの。お父さんはあたまをおさえながら、大きなかわぶくろににもつを入れてたわ。でていくじゅんびをしていたの。お母さんにいわれて、私も大切なものだけもってにげるじゅんびをしたの。私の大切なものは、イエスさまのくびかざりとマリアさまのお人形、お母さんが作ってくれた花のあたまかざり、それからこの日記ちょうとひっきぐだけ。私はそれだけを私のかわのふくろに入れてきがえて、お父さんたちにじゅんびできたっていったの。それで、私たちはお家からでたの。ばしゃにのるとおもってたの。でも、お父さんが、馬はころされたっていったの。私それでまたおそろしくなったわ。でも、泣きださないようにがまんして、お母さんの手をギュッとにぎっていっしょにはしってにげたの。お父さんがお家に火をつけたの。あのけだものたちをまくためだっていってた。私には何が何だかわからないけど、とにかくはしったの。いっしょうけんめいはしって、私たちは森のなかににげたの。

 おひるちかくまでにげて、私たちはお父さんが見つけたほらあなにかくれたの。今、そこでこの日記をかいているの。よるおそくなったら、またいどうするんだって。それまではここにじっとしているの。



五月九日

 よるおそく、あけがたまえにほらあなをでて、またいどうしたの。ずっとひがしのほうへ。シュトラースブルクへ行こうって、お父さんがいったの。でも、お父さんはあたまのキズがいたそうで、とちゅうで何かいもきゅうけいしたの。そうしているうちに、だんだん何かの声がちかづいてきた気がしたの。私とお母さんはこわくなって、どこかかくれるばしょがないかひっしにさがしたの。それで、大きな木のねっこのぶぶんにくうどうがあるのを見つけて、私たちはそのなかにかくれたの。


 お父さんが辛そう――お母さんがお父さんのあたまにまいた布をとりかえたけど、血がまだでてた。神さま、どうかお父さんを死なせないでください。


 だれかが私たちをさがしているみたい。お父さんがくるしそうに、ぜったいつかまっちゃダメだっていった。つかまったら、おそろしいめにあってころさるんだって。

 神さま、どうか私たちをお助けください。



五月十日

 あけがたちかくになって、お父さんが私とお母さんの二人だけでさきにシュトラースブルクへにげろっていった。お父さんはしばらくうごけそうにないから、さきに行っててくれって。うごけるようになったら、すぐにおいつくからって。でも、私にはお父さんがウソをいってるんだとわかったの。お父さんはもうすぐ死んじゃうんだってわかったの。だから、私はお父さんとはなれたくなかったの。でも、お母さんは、わかったっていって、私の手をひっぱったの。むりやりお父さんから、私の体をひきはなそうとしたの。お母さんはお父さんのことなんてどうでもいいんだっておもったの。だってそうでしょ? お父さんはもう死んでしまいそうなのに、お母さんは自分が助かりたいから、お父さんをおいていこうとしたのよ。私は行かないっていったの。ずっとお父さんといるって。でも、お父さんが私の手をほどいて、お母さんが私を力いっぱいひっぱって。私、イヤだって大声でさけんだの。そしたら、お母さんが私のほっぺたをたたいたの。とってもいたくて、また大声をだそうとしたけど、お母さんが泣いているのを見たの。それで、私も泣いたの。泣きながら、二人であるいたの。だっていちばんお父さんとはなれたくなかったのは、お母さんなんだってわかったから。だから、二人だけでひっしにはしってにげたの。うしろのほうから、けもののような声がしたの。ひっしにはしって、がけしたのいわかげにかくれたの。


 いわかげからでて私たちがはしっていると、何だかあの、くさいにおいがしてきたの。そしたらとつぜん大きくてけむくじゃらなばけものがとおくに見えたの。私はおどろいてひめいを上げて、お母さんとはしったの。でもそのばけものはとっても足がはやくて、私たちにぶつかってきたの。私はつきとばされて、お母さんの体の上にそのばけものがまたがったの。とても大きくて、かおはよく見えなかったの。くろくてけむくじゃらで、とにかくおそろしくてよくわからなかったわ。今おもいだしてもおそろしい――そのばけものが手の一本のするどいつめで、お母さんの体をひきさこうとしたの。だから私、むちゅうでそのへんにあった石をなげたの。いっぱいなげて、大きな石をつかんで、そのばけものの体におもいっきりたたきつけたの。そしたら、ばけものがお母さんの体からはなれたから、お母さんをひっぱって、またいっしょにはしったの。うしろから大きなおそろしいさけびごえがきこえたわ。今まできいたこともないような、おそろしい声だったわ。私はおそろしさで気をうしないそうだったけど、ひっしになってはしったの。そして、ほらあなを見つけてそこにかくれたの。

 ほらあなのなかで、お母さんが私にいったの。

『ぜったいにあいつらにつかまってはダメよ。あいつらは血もなみだもない、ケダモノよ。もし、お母さんがあいつらにつかまっても、かまわずににげなさい。ぜったいにもう、私を助けようとしてはダメよ。ひがしへにげなさい』

 私はとってもこわくなって、「あいつらは何なの?」ってきいたの。そうしたらお母さんは、『あいつらはね。私たちをにんげんともおもわない、あくまの手先よ。あいつらは私たちのようなにんげんが、このせかいに生きていてはいけないとかんがえているの。あいつらにとって私たちは、生きていてはいけない、ころさなければならないそんざいなの。だから私たちのような人々をおいまわすの。おいまわして、おそろしいごうもんをくわえて――そしてころすの』っていったの。私はおそろしさでふるえ上がって、「どうして? どうして私たちは生きていちゃいけないの? どうしてころされなければならないの?」ってきいたの。

『あなたにはまだこのせかいのことが分からないでしょうけど、このせかいではいろんなところで、みんなで神さまをとりあっているの。だれが神さまにいちばんちかいのか、だれがいちばん神様のおしえを正しくりかいしているのかで、あらそっているの。ほんとうは神さまは、みんなをひとしくあいしていらっしゃるのに、そのことにみんな気づいていないの。そのことに気づかないで、神さまのおしえをまなんでいるつもりで、ほんとうのところはあくまと手をくんでいるの。あくまにたましいをうりわたして、ばけものになってしまってるの。だから、あなたはそんなことしちゃダメよ。あくまの声に耳をかたむけて、あくまにたましいをうりはらってはダメよ。あいつらみたいに、みにくくてけがらわしいばけものになってしまうから』

 お母さんはそういって、きゅうにくるしそうなかおをしたの。うでから血がでてたの。さっきのばけもののつめでひっかかれたんだわ――私はそうおもって、お母さんのうでに布をあてたの。お母さんは私をだきしめて、『しんぱいしないで。お母さんはだいじょうぶ。きっと神さまがあなたを助けて下さるわ』っていって、私のくびかざりのイエスさまにふれたの。

『何があっても、かならずイエスさまがお守りくださるわ』お母さんはそういったの。




 神さまは、私たちを助けてくれなかった。

 私たちのかくれていたほらあなに、あのばけものたちが入ってきたの。私とお母さんはひきずりだされたの。そして、あいつらは何かを話しているようだった――私にはわからないことばみたいなので。それで、あいつらのうちの何匹かが、お母さんの体をおさえつけてつめでふくをきりさきはじめたの。私はこわくて、大きな声を上げてあばれたの。私の体をおさえつけているばけものの体にかみついて、その手をふりはらったの。それで、お母さんの体にまたがっていたばけものたちにぶつかったの。でもあいつらにつきとばされて、たおれて、いたくて、ないていたら、お父さんが助けにきてくれたの。お父さんがお母さんを立たせて、私をひっぱってにげようとしたの。でも、あいつらがお父さんをたくさんなぐったの。ばけものたちの一人がお母さんをつかまえたの。私は、お母さんを助けたくて、ばけものにまたかみつこうとしたんだけど、お母さんがにげなさいってさけんだの。さけびながら、私をとおくにつきとばそうとしたの。お父さんは、ばけものたちにいっぱいなぐられてぐったりして、お母さんは、私をにがそうとひっしにばけものの体にくみついていたの。だから、私はにげたの。なきながらはしったの。あいつらは私をおってこなかった。いわかげにかくれて、あいつらがお母さんに何をするのか見たの。ばけものたちは、お母さんのふくをつめでひいきさいて、お母さんの上にのっかったの。お母さんのくるしそうなこえがきこえてきたけど、私はこわくてこわくて、何もできなかったの。うごけなかったの。あいつらは、かわるがわる、お母さんの上にのっかって、お母さんをいじめていたの。お母さんをたくさんなぐったり、つめでひっかいたり、かみついたりしてたの。お母さんが泣きさけんで、やめてっていっても、あいつらはお母さんをいじめるのをやめなかったの。それで、そのうちにお母さんがしずかになったの……あいつらは、お母さんのくびをしめていたの。お母さんがくるしそうにあばれるのを、あいつらは力いっぱいおさえつけていたの。それで、お母さんはうごかなくなったの。神さまは、お母さんを助けてくれなかったの。





 どれぐらたったわかない。ずっとひがしはしって、ほらあな見つけたの。ずっとそこくれているの。

 おなかすいた。のどかわいた。からだじゅういたい。

 ふくろにいれてた、おはなあたまかざりがかれちゃった。

 マリアさまのお人形、あたまおれちゃった。私、じごく行くかな? お父さんとお母さん、てんごくに行けたかな? そしたら、私だけ、じご行くかな? どして、あんなばけものいるの? どうしてあいつらは、私たちこんなことをする? どうして私たちが、こなめにあうの? いっしょけんめ、まいに神さまにおいのしていたに。イエスさまと、マリアさまにおいのりしてたのに。どおしてお父さんお母さん、助けくれかったの? どうして? どうて、私たち、ころされければならなの? ただふつうに生きていたけなに。どうて、だれ、助けない?

  かみさま、私のさけびおききさい

  わたのいのい心をおむけださい

 もの音する。なにかちかづくるおとする。あのくさいにお。ばけものく。かみさまたすてくだい。イエスさまたすけさい。マリアさまたす 







――この日記帳を読んだ諸氏へ――

 

 この日記を最後まで読んだあなた方へ、私は自身と仲間達が犯した恥ずべき、そして裁かれるべき罪をここに書き記します。

 この少女の日記を最後までお読み頂いた懸命なるあなた方ならば、もしかしたらすでにお察しの事かも知れません。ですが私自身の言葉で、この日記の最後のページの後に起こった少女の最期――それと私達が犯した数々の罪を告白致したく思います。


 まず、私達が何者かを説明せねばなりません。

 私達は――一般の人々がその存在さえも知らない――教皇庁直属異端審問及び思想調査・対魔女及び吸血鬼殲滅騎士団、通称〈魔女への鉄槌〉に所属する一隊でありました。

 そうです。この日記を書いた少女とその家族を追い詰め父親と母親を嬲り殺し、逃げる娘を捕えたのは私達なのです。その少女が辿った運命の最後をここに書き記す前に、なぜ私達がこの親子をつけ狙ったのかも説明致します。

 私達は元々、フランス王国と神聖ローマ帝国の国境にある某地方へ、その住民達の思想調査を行っておりました。その地方というのは、実は教皇庁が最も危険視する――例の〝伯爵〟と呼ばれる――不気味で異様なまだら服の男の領地に近かったのです。ですから私達は、あの〝伯爵〟の影響がどこまで及んでいるのかを調査する為に潜入したのでした。

 ご存じではないかも知れないのでここに記しておきますが、例の〝伯爵〟は魔術や呪術、錬金術と言った妖しく恐ろしい術を使い、時の神聖ローマ帝国皇帝の宮廷深くでその勢力を拡大させておりました。昨今ヨーロッパ各地で頻発する一連の事件――異端信奉者による教会への攻撃、及び魔女や吸血鬼による各都市・町村への襲撃と殺戮――には、あの死体のように青白い顔に血のように赤い唇を禍々しく張り付けて残酷な作り笑いを浮かべる、例の〝伯爵〟が関与している――教皇庁はそう疑っているのです。

 私達の任務はそう言った訳で、極秘の思想調査でした。ある地方に潜入して〝伯爵〟がこの世界の歴史に関与している証拠を集め、その陰謀を暴き殲滅する。それが私達の組織に与えられた、究極の目的でした。

 ではなぜそんな私達が、この親子に注目し追い回したのか? 

 それは全く恥ずかしい事に、私達の無知蒙昧、浅薄、悪しき先入観、偏狭な価値観、傲慢な正義感、残酷な性癖によるものでした。


 私達がその地で潜入調査を開始して一年近く経った頃、ある馬車に関する情報を得ました。それは一台の馬車が、数か月前に例の〝伯爵〟領から急いで走ってきて、人目を忍ぶように近くの山深くへ入って行った――というものでした。もちろんそれだけの話であれば、私達もそこまで気には留めませんでした。ですが村人の一人からの、『その馬車を御していた男が、どうも聖職者のようだった』という情報が私達の興味を引きました。

 というのも、当時私達は与えられた任務にほとほと嫌気が差し、不満が溜まっていました。極秘の思想調査とは聞こえが良いですが、それは実際には全く地味で退屈で億劫な末端の任務で――本当の事を言えば、私達の部隊は前の任務での失態により、左遷させられたようなものだったのです。

 私達の組織名――教皇直属異端審問及び思想調査・対魔女及び吸血鬼殲滅騎士団――にある通り、この組織は本来、神と教会に仕える聖職者であるとともに、名誉ある高潔な騎士でもある者達によって構成されていました。一般の聖職者が教会で信徒達に説教をし、懺悔を聞き、改悛を勧めるのがその主な任務であるのに対し、この組織の騎士達の任務はあらゆる異教徒・異端者・邪な術を使う輩・悪鬼を見つけ出し、駆逐し殲滅するのが主な任務でした。ですが昨今激化する異端者・魔女・吸血鬼の取り締まり及び戦闘による人員不足により、私達騎士団にも傭兵――盗賊まがいや贖宥状目当ての元罪人といった連中を含む――が混じるようになっていました。何を隠そう、私の所属する一隊もそういった連中が半数以上を占めていました。彼らにとっては極秘の思想調査などは退屈極まりなく、血沸き肉躍る危険な冒険が彼らのお気に入りの任務だったのでした。そういった理由で、私達はちょっとした気晴らしに、〝伯爵〟領から逃げてきたというその〝聖職者〟の事について調べ始めたのです。異端の信奉者か、あるいはもしかしたら例の〝伯爵〟の手先かも知れない。私達はそう思ったのです。もし〝伯爵〟の手先で、有益な情報を持っていれば手柄になる。こんなつまらない任務ではなく、胸がすくような派手で英雄的な任務に戻れる。そう言う目算も私達にはあったのです。

 まさかそれが、私達を決して赦されざる罪人へと駆り立てる事に繋がるとは思いもせずに。


 私達は山奥の木の柵に囲われた一軒の小さな家屋に、その男が住んでいる事を突き止めました。その家に住んでいたのは男一人ではありませんでした。妻と娘もいたのです。私達は奇妙だと思いました。その男はどうやら聖職者らしい……だがこんな山奥で、妻帯を禁じられている聖職者が人目から逃れるようにして住んでいる。私達はもしやと思いました。神の道から躓いた、異端者かも知れぬ。あるいは邪教を信奉するようになったのかも知れぬ。

 私達はこの家族に見つからぬように、獣達の毛皮に身を包んで監視する事にしました。きっと何かよからぬ秘密があるに違いない……そう思ったのです。

 男とその妻子は、実に慎ましい生活をしていました。小さな畑を耕し、鶏を育て、森で兎や鹿を狩っていました。妻と娘の方は木の実や山菜、キノコなどを取っていました。日に一度は男が必ず聖書を読み聞かせ、そして奇妙にも幼い娘に読み書きを教えていました。

 男は一度、近くの町ではなく、わざわざ馬車を御して遠くの町へ出かけました。夜も明けぬうちに出て、日がすっかり沈んでから帰ってきました。私達は彼が遠くの町で、異端の教えを広めようとしているのではないかと疑いました。実際その数日後、数名の男達が山奥の家に訪ねて来ました。私達は、男が彼らに異端を教えているのでは? また、彼らが妻から何かを籠いっぱいに受け取っているのを見て、もしやあの女は魔女の類で、籠の中身は呪いの為の薬や毒なのではと訝りました。幼い少女に読み書きを教えているのも、自分達の信じる邪教を教え、魔女に育てる為ではないかと。

 私達は隊の中から数名を選び、男を訪ねて来た者達が何処の何者かを調べる為に後をつけさせました。残った私達の方は、引き続きその家族を監視しました。ですがどうやら、一人の元傭兵が我々の食料の調達に行った際の何かの痕跡を見つけたらしく、男が私達の気配に勘づいたようでした。常に周囲を警戒するようになり、娘を一人では絶対に木の柵の外に出さなくなりました。

 私達は内心焦りました。いつこの家族がどこかへ逃げ出すかも知れない。そう考え、現状の報告と今後の対応の指示をフランス王国にある管区司令長官へと仰ぎました。私達には男が異端か邪教の信奉者で、その妻が魔女に思えたのです。そしてその逃亡を見過ごす事はできないからです。ですが管区司令長官からの回答は私達の期待したものとは違っていました。

『追手沙汰するまで、引き続き監視を怠るな』

 ただそれだけでした。ですがそれとは別に、私達の部隊にはある噂も入ってきました。それは例の〝伯爵〟が、近々何か大きな行動に出るというものでした。

 私達はその噂に不安と共に期待を抱きました。不安というのは、勿論〝伯爵〟の陰謀によって生じる社会的混乱や教会が被る打撃でした。期待というのは、遂に私達もこんなつまらない任務から解放されて、教会と人々の為に日々鍛錬したこの肉体と剣を振るう事ができるというものでした。

 そんな時、以前男の家に訪ねて来た連中の後をつけてその素性を調べていた仲間達が帰って来ました。彼らの報告によると、訪ねて来たのはシュトラースブルクのカルヴァン派に近しい者達との事でした。それで私達は、男が異端の信奉者であり、その教えを広めようとしているに違いないと確信したのです。そして彼らは驚く事も報告したのです。私達と合流する途中、どうやら異端の男に姿を見られたかも知れないというのです。その報告に私達が焦ったのは言うまでもありません。そこで私達は事を起こすと決心したのです。

 まずこの家族が遠くに逃げられないように、寝静まった時間を見計らって馬を殺しました。馬の悲鳴と物音に驚いて跳び起きた男が家屋から出てくると、馬小屋の影から男の頭を殴り気絶させました。そして狼や熊の毛を少し残し、馬小屋を荒らしてその場を離れました。大きな怪物の仕業に見せかける為です。もし私達の本当の正体が知られれば、邪教の神や魔女による呪いが降りかかるかも知れないと考えたからです。

 そうして私達は、夜が明けるまで様子を見ました。異端の徒と魔女が次にはどんな行動に出るのか見極めようとしたのです。

 しばらくして、女が家から意を決したように恐る恐る出てきました。彼女は馬小屋の方へ近づき、男が気絶しているのにすぐに気付きました。男を起こし、家の中へ一緒に戻って行きました。家の中では娘が泣いているようでした。女がそれをなだめ、男は怒鳴っているようでした。私達がいるのは静かな山奥なのです。私達が彼らを監視している場所からでも、十分にその声は聞こえてきました。やがて家の中で大きな物音がし始めました。逃げる為の用意をしているのでは? 私達はそう思いました。

 少ししてから、あの家族が大きな革袋を背負って出てきました。彼らが逃げるつもりなのは一目瞭然です。私達は意を決しました。すぐに監視場所から、彼らのいる家屋へ向かいました。私達の姿を遠くに見つけたのでしょう。家族は反対方向へ駆け出しました。男が家に火を着けるのが見えました。私達が追ってくるのを遅らせる為だったのでしょう。空気が乾燥していた為、火はすぐにまわりました。その煙に隠れて、私達はその家族を見失いました。しかしそう遠くにはまだ行けるはずはありません。私達は三手に別れてこの家族を捜索したのです。


 丸一日かけて捜索し、一隊が森の中で血痕を発見しました。まだ新しいもので、異端の男のものに違いありませんでした。私達はその血痕を頼りに捜索を再開しました。そして次の一日である一隊が男の姿を捉えました。しかし妻と娘が見当たりませんでした。しかも結局その男までも見失ってしまいました。私達は根気よく捜索を続け、仲間の一人が妻と娘を発見したようでした。ですがその男は功を焦るあまり、一人で先行してすんでの所で二人を逃したのでした。私達は、誰彼なく次第に苛ついて互いに激しく罵倒するようになりました。早くこんな追いかけっこを終わらせて、褒賞に与りたいと思い始めていました。

 そうこうしているうちに、私達の一隊が遂にある洞穴で妻と娘を発見したのでした。


 ここに書くのは、実におぞましく恥ずかしい。ですが私は告白せねばなりません。私達の醜悪極まりない悪行を。私の贖いきれない大罪を。


 先に母娘を見つけ捕まえたのは元傭兵の一隊でした。彼らは洞穴に隠れていた彼女達を引きずり出し、取り押さえました。彼らが言うには――彼らの言う事を信用するのならば――彼らは二人を縛り上げて私達別の隊と合流しようと相談したらしい。ですが私はここに誓おう。私は彼らが、初めから母と娘を凌辱するつもりだったと言える。実際彼らは元々は盗賊崩れで、あの若い母親と幼い娘が森で山菜を取っている時には、舌なめずりをして眺めていた連中でした。その連中の話とこの少女の日記の内容、私がちょうど合流した時の状況から考えて――どうやら彼らは引きずり出した母親を娘の目の前で犯そうとしたが、そこへ手負いの父親が救出に来たらしい。連中は父親を寄ってたかって撲殺したが、その最中に娘が逃げ出した……そして、実はその娘が近くの岩陰で恐る恐る様子を見ていた事にも気付かないままに、若い母親を邪まな欲望のままに輪姦し嬲り殺したのだ。

 私達別の一隊が到着した時、すでに連中のおぞましい行為は全て済んでいました。そして彼らは、私達にこう言ったのです。

『女が自分の体を差し出すから自分の命だけは助けてくれと言ってきた。俺達がその話に乗って女を愉しんでいると、男がふいに後ろから襲ってきたのだ。だから咄嗟に男を殴り殺し、女も殺すほかなかった。また寝首を掻かれるかも知れないと思ったのだ』

 連中はそういった後に、あろうことか私達にこうも言いました。

『殺したばっかりだからまだ温かくて柔らかいぞ。どうだ? お前達も愉しんだらどうだ? つまらん任務のおかげで溜まっているだろう?』

 私は絶句しました。自分達の醜い欲望の捌け口にして殺した若い女の遺体を冒涜したのです。ですが私を驚かせたのは連中の発言ばかりではありませんでした。仲間の騎士達は顔色一つ変えずにこう言ったのです。

『まだ娘がいたろう。その娘は我々に先にヤらせろ。こんな魔女の死体などとヤッたらそれこそ呪われるわ』

 そう言って騎士の一人が女の遺体に向かって唾を吐き、他の騎士達は下品な笑みを浮かべていました。

「本気で言っているのか、お前達? 娘は保護して然るべき修道院に預けるべきだ。例え魔女や異端の教えを受けていても、まだ救えるはずだ」

 私は彼らにそう言いました。だが彼らは呆れた表情や、私を小馬鹿にした笑みを浮かべるだけでした。

『お前こそ本気でそんな事を言っているのか? 異教徒・異端者、そして魔女・吸血鬼は皆殺しにするのが決まりだ。奴らは生きるに値しない悪魔の手先だ。そうだろ?』

『お前眠っているのか? だからそんな寝言を言っているのか? いいか、ただでさえこんな山奥で退屈なをしてるんだ。俺達には息抜きが必要なんだよ。分かるか? それでもまだ寝言が言いたいのなら、本当にここで寝てるんだな』

 強烈な一打が私の後頭部を襲いました。私は膝をつき、霞む視界の中で薄笑いを浮かべる仲間達を見ました。その笑みを私は今でもはっきりと思い出します。あれほど冷たく残酷で、不愉快な笑みを見た事はありませんでした。私はその時になってようやく、自分が殺すべき悪魔が誰なのかを知ったのでした。


 私は何かが近くで燃えている臭いと音で目が覚めました。すぐ近くで、あの男と女の遺体に薪が積まれ、燃え盛っていました。私は人体が燃えるあの異様な臭いに吐き気を覚え、むせ返りながら辺りを見渡しました。誰もいませんでした。きっと娘を探しに行ったに違いない。私は近くに転がっていた自分の武器を拾い上げ、娘の捜索を開始しました。家族は東に向かっていました。恐らく娘も東のシュトラースブルクへと向かっているに違いない。私は一路東へ走りました。せめて娘だけでも救わなければならない。その一念でした。


 一日中走って、私は数名の男達が先行しているのに気付きました。向こうはまだ私が追って来る事に気付いていませんでした。私は神に赦しを請いました。

「主よ、私がこれからする事を、どうかお赦し下さい。私は今からあなたの……教会の尖兵達を、同志達を皆殺しにします。異端者と魔女の娘を救う為です。私は教会の教えに叛逆します。私は悪に堕ちます。地獄へと行きます。私はそれで一向に構いません。ですが、どうかあの娘にはお慈悲をお与えください。どうか私にあの憐れな娘を助けさせて下さい」


 不意打ちは成功しました。先行する五人の同志達を殺しました。ですが、それはまだ半数でしかありませんでした。もう六人がまだ娘を追っているはずでした。それにその騒ぎで私の叛逆を残りの連中が気付いただろう事は簡単に予測できました。私は慎重に、ですが急いで娘を探しました。


 私がその洞穴の前の開けた場所に着いた時、娘はすでに男達に凌辱され残虐に嬲られていました。連中は初潮にも至っていないであろう娘を、まるで家畜を叩くように大笑いしながら叩きのめし、熱した短剣の刃でその柔らかい腕や背中に焼き印を入れていました。

 私は剣を抜いてそこへ飛び出しました。不意を突いて二人を一瞬で斬り殺し、他の二人の騎士を相手に打ち合いました。一人に致命傷を負わせて倒し、別の一人にも手傷を負わせました。私も多少の傷を負いました。無傷の二人が娘の首元に刃を突きつけました。人質に取ったのです。

『気でも狂ったのか? 同志達を殺すなど』と一人がそう言いました。

『悪魔に魂を売り渡したか』と別の一人が言いました。

 気が狂っている……確かにそうだったかもしれません。私は自分がそれまで信じ切っていたものを、一瞬で否定したのですから。まさしく悪魔に魂を売り払ったのですから。

 私は剣を近くに放りました。そして娘を解放するように言いました。ですが、私には解っていました。奴らが娘を殺すのを。ですから彼等の一人が私に近づいた瞬間、隠し持っていた二本の短剣を素早く抜き放ち投げました。一本は娘を人質に取っていた男の短剣を持つ手に、もう一本は近づいて来た男の胸に突き刺さりました。私はその男の腰の剣を抜き払い、人質を取っていた男に体当たりして娘から離し、そして斬り殺しました。最後に手傷を負っていた男が私に斬りかかりました。私は左腕を切り落とされました。ですが不思議な事に、痛みはまったく感じませんでした。私は最後の男の首を斬り飛ばしました。まったく何も感じませんでした。


 娘はすでに虫の息で、意識は朦朧としていました。何日も森の中を寝ずに走り回り、ろくに食事も水もとっていなかったのです。その上で純潔と尊厳は穢され冒涜され、体中酷い傷と熱傷だらけでした。私は一縷の望みを懸けて、近くの村か町へ娘を運ぼうと抱きかかえました。手当をしてもらおうと思ったのです。ですがその身体はとても軽く弱弱しく――唯一残った命の重さは、ふっとかき消えてしまいました。


 洞穴の残されたこの日記帳を見つけたのは、何か娘の家族についての情報がないかと思ったからでした。私は日記帳を見つけて読み、そしてやっと理解しました。自分達が犯した恥ずべき、決して赦されざる所業を。

 私は自分自身と仲間達を口汚く罵り呪い、憐れな娘とその両親の魂に赦しを請いました。そして神へ叫びました。

「なぜこの家族を救わなかったのです? なぜ私達に間違いだと教えなかったのです? なぜ私達を、罪を犯す前に正さなかったのです? なぜ罰さなかったのです? なぜ……なぜ、私だけを残したのです?」

 神は何も応えてはくれませんでした。ただ私は天へと絶叫しながら、その神の沈黙から自分自身で答えを見つけるしかありませんでした。

 神はこの家族を救いもしなかった。私達を罰しもしなかった。だからこの家族は殺されたのだ。私達が彼女達を殺し、私が仲間達を殺す事になったのだ。私は二重の罪を犯したのだ。決して赦されない、醜悪な罪を犯したのだ。神が私にその罪を犯させたのだ……この罪は、私の罪であると同時に、神自身の罪でもあるのだ。なぜなら神は、止めようと思えば止められたのに、見て見ぬふりをしたのだ。純粋で無垢な魂が穢されるのを見ていながら、救わなかったのだ。犯さなくても済むはずだった罪を、私達が負うのを見ていながら、ただそうなるに任せたのだ。私が悪魔に魂を売り渡すのを、ただ見過ごしたのだ。この憐れな娘があんなにも救いを求めていたのに、神は救いの手を差し伸べなかったのだ。神は何もしなかったのだ……救う事も、罰する事も放棄したのだ。そんな存在が、神であるはずがない。神であって良いはずがない――私はそう考えました。だから私は、この時からこの神を捨てる事にしたのです。この神を憎み呪う事にしたのです。私は教会から離れます。全てを捨てます。全てを捨て、私はあの〝伯爵〟の下へ行こうと思います。〝伯爵〟は、『この残酷で過酷で間違った世界の歴史を〝神〟から解放する』と宣っていると言います。全ての人間が死を超越できる、全ての人類にとっての〈神の国〉を打ち立てようとしている、と。その〈神の国〉では、全ての人間があらゆる不幸をも超越できる。全ての人間が、永遠の生と幸福の中で生きられる。この世界の歴史上に起こる、あらゆる悲劇も虐殺も回避できる……そう〝伯爵〟は言っているのです。それこそが、真の〈神の国〉だ、と。私はあの〝伯爵〟の、その言葉を信じようと思います。その〈神の国〉を打ち立てる為に、私は悪魔となります。〝神〟と教会、そして〈魔女への鉄槌〉の敵となります。もう二度と、この憐れな娘とその両親のような人間が、苦しみ死ぬ事の無い世界を創る為に。


 少女の遺体は、丁重に葬りました。そしてこの日記は、油紙と亜麻布に包んで丈夫な木箱に入れ、更に頑丈な鉄の箱に入れて然るべき場所へ隠します。この日記を発見した方――最後まで読んだ方。どうかこの日記を、後世にまで伝えて欲しい。決して破り捨てたり、焚書しないで欲しいのです。多くの人々の目に触れるようにして欲しいのです。そしてこの日記の少女と両親の魂が永遠の安らぎの中で眠りに就けるように、どうか私の代わりにあの〝神〟へ祈って欲しいのです。そして私と私の仲間達の魂が、永劫の罰を受けるように呪ってください。私達の魂は決して、赦されてはいけない存在なのですから。



主の年一五四〇年五月十三日

アルベール・ド・カリュー







――この日記帳について――


 私がこの日記帳を発見したのは主の年一七七四年十月、ストラスブール――旧名シュトラースブルク――のノートルダム大聖堂の周囲に回廊を建設している最中でした。鉄の箱と木の箱に厳重に保管されており、保存状態は誠に良好でした。

 私はこの日記帳を読み、深い憐憫の情を禁じ得ませんでした。しかし同時に、この古い日記帳に書かれた内容はあまりにも衝撃的で眉を顰めるような事も含まれている為、大々的に公表する事は躊躇しました。私が生きるこの時代にもまだ、異教徒や異宗派に対する偏見や差別、闘争――魔女や吸血鬼との争いは言うに及ばず――は、依然として存在し、特に例の〝伯爵〟やその〈神の国〉、それらに類するものに関する記述がある書物は、発見され次第内容の如何に関わりなく焚書となる決まりが教皇庁から出ているからです。

 そんな訳ですから、私はこの日記帳がいつか日の目を見る事ができる時代になるまで、大切に隠し保管する事にしたのです。

 私の死後、この日記帳を私の友人、親類縁者――あるいはまったく別の誰かが見つけて読む者が現れるでしょう。その者達に、私はこの場を借りてお願いしたい。

 どうかこの日記帳を破り捨てたり、焚書にしてしまったりしないでください。そしてどうか、私と共に祈ってはくれないでしょうか? この日記帳を書いた少女とその家族の魂が、永遠に安らかな眠りに就く事を。そしてたった一人、少女を救おうとした真の騎士の魂が主のお慈悲によって救われ、永遠にあの少女を守る騎士として天国へ引き上げてもらえる事を。私はこの騎士の罪は、赦されてしかるべきであると信じてやまないのです。



主の年一七七四年十月二十三日

フランス王国ストラスブール市ノートルダム大聖堂神父ジョルジュ・ド・フォワ







 マリカ嬢は古い革張りの本の黄ばんだページをゆっくり丁寧にめくり、そこに書きこまれた一語一語、一文一文を慈しむように読んだ。ジョルジュ神父の死後、この日記帳は何人もの人々の手に渡り、同時に何十人もの人々に読まれた。幸運にもその者達はみな、騎士と神父のささやかな――そして大きな願いを聞き入れて、この日記帳を大切に読み隠し保管してきた。その事はジョルジュ神父が書き込んだページから七ページに亘って、この日記の少女とその両親――そしてあの騎士の魂の冥福を祈る数々の言葉が、びっしりとそこに沁み込んでいる事からも判る。

 マリカ嬢はそれらの言葉を一つ一つ愛撫するようになぞりながら、幼くしてその命を落とす事となった少女とその両親の事を想った。その家族の事で判るのは、父親が恐らくはカルヴァン派の神父であったろう事。母親は恐らく単に薬草やハーブや山菜について詳しい知識を持っていた、ごくありふれた女性であったろう事――二人は恐らくは駆け落ちをしたのではないかという事。そして娘は純粋で無垢な、どこにでもいる普通の少女であったという事だけだった。もし生まれる時代がもっと遅ければ……マリカ嬢はその考えを、少し考えてやはり打ち消した。

 例え生まれる時代が五百年近く経った現代であっても、似たような悲劇は未だに世界中で起こっている。いや、少女が生きた時代よりも、もっと酷く複雑化している……彼女はそう嘆いた。

 宗教の違い。宗派の違い。思想の違い。民族の違い。言語の違い。文化の違い。歴史認識の違い。教育の違い。階級の違い。貧富の違い。肌の色の違い。精神・肉体上のあらゆる違い。あるいは多様化した性別の、その違いや多数・少数で、人はより高度に複雑に差別し偏見を持つようになった。差別はより細分化され、激しさを増すようになった。勿論だからと言って、この世界の過去の歴史上の差別や偏見による幾多の虐殺や悲劇を正当化したり美化していいという訳ではない。それでいいはずがない……マリカ嬢はそう思いながら、だけど人間はたった一つの疑念や思い込みや勘違いで、幾らでも悪魔になれるという事も悲しいほど深く理解していた。

 狂っていたのは、本当は誰だったのかしら? あの少女を助けようとした騎士も含む――騎士達全員だろうか? それともそんな世界と歴史を創って育んだ、人間全てなのだろうか? この世界の全てが狂っているのだろうか? 彼女はその疑問にゾッとして、振り払うように微かに頭を振った。

 マリカ嬢はこの日記帳を探し求めた自分の父親の事も考えた。彼女の父は、近世初期に書かれたこの古い日記帳を手に入れる為にずいぶんと時間と金をかけたらしい。彼にはどうしても、この日記帳を手に入れたい理由があったのだ。

 この世界の歴史上に度々現れ暗躍したという〝伯爵〟……わずかな痕跡しか残さず、しかもその痕跡すら教皇庁やそれに協力する政府や機関、人々が躍起になって消そうとしているらしい謎の存在。この残酷で過酷な世界を〝神〟から解放し、その間違った歴史を正そうとしたという、半ば伝説的な男。その〝伯爵〟に関係するあらゆるものや記録を世界は抹消しようとし、彼が創り出したという数多の〝魔女〟や〝吸血鬼〟の類は、先の大戦で遂にこの世界から駆逐されたという。

 その例の〝伯爵〟に関する記述がある日記帳。彼女の父は、行方不明になる前にそれを残した。

 ――やっぱり、私達の家系はこの〝伯爵〟と関係あるのかしら?

 マリカ嬢は、静かに『少女の日記帳』を閉じた。あの『無名の大傑作』を私に残したのも、父が私に〝何か〟を託したかったからなのだ……彼女はそう感じていた。

 それが何かは解らない。けれど今は……と、そう思ってマリカ嬢は『少女の日記』に両手を乗せ、そっと瞼を閉じてささやかな祈りを捧げ始めた。

 かつてあの騎士がそう望んだように。ジョルジュ神父がそう願ったように。そしてかって日記帳を読んだ人々が、そうしたのと同じように。

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『ある少女の日記』 鯉昇 @koi-nobori

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