貴方が好きだと気付いたから。

Ryoooh

貴方が好きだと気付いたから。

 週に3日、多いときは4日。


 私が中学生になったときから、お母さんは私に家庭教師を付けた。

 と言っても、大学生がバイトでやってくるようなものではなくて、近所に住んでいるお兄さんが晩御飯ついでに来てくれているだけだったりする。

 共働きだった両親に代わって、小さい頃から私の面倒を見てくれた人だ。

 優しくて周りに流されやすいタイプだったから、私のワガママもよく聞いてくれていた。困ったような笑顔を浮かべて、「しょうがないな」って言いながら頭を撫でてくれるお兄さんが、私は好きだった。


 お兄さんが大学生になったとき、私は中学生になったばかりで。

 男の人として好きって言うよりは、お兄ちゃんって感覚の方が強かった。お父さんはずっと前に事故で亡くなってしまったせいで、お兄ちゃんやお父さんに憧れることが多かったから。だから私は、お兄さんの事を家族のように思っていたのだ。


「お兄さん、今日お母さん遅いってー」


 わかった、とキッチンの方で声がした。

 お母さんが作る晩御飯がバイト代だったのに、今ではお兄さんが作る事がほとんどだ。

 大学を出て一人暮らしを始めたお兄さんは、私の住むマンションの隣に越してきた。お母さんもお兄さんの事は気に入ってるからか、ほとんどウチに入り浸りの状態になった。今となっては、自分の部屋に帰る方が少なかったりする。

 そんなこんなで、必然的にご飯は3人で食べるのが当たり前になっていったのだった。


「ねー、今日の晩御飯なに?」


 鼻を擽る良い香り。

 ぐつぐつと煮えた鍋を掻き回す度に、ふわりと香るその匂い。答えを聞くまでもなく、私の大好物だと分かった。


「ビーフシチューだよ。今日はちょっと奮発しちゃった」

「何か良いことあったの?」

「詩織ちゃんの模試の結果が良かったご褒美」


 やった、と私は喜んだ。

 お兄さんが作るビーフシチューは絶品なのだ。お肉も結構良いやつを買ってきたりなんかして、作り方もやたらと時間を掛けたりと本格的。

 昨晩から何かコソコソ仕込みをしていたのは、このためだったのか。うん、素直に嬉しい。


「もうすぐできる?」

「んー、まだもう少しかな。ちょっと煮込んで、香織さんが帰ってきたら食べようね」

「えー、お母さん遅いって言ってたのに……」

「我慢。みんなで食べるんでしょ?」


 その困った笑顔を浮かべられると、私は何も言えなくなってしまう。

 たいていのワガママは聞いてくれるけど、お母さんのことになると意外に頑固な一面を見せるのだ。まぁ、私も分かってて言ったりするけれど。どちらにせよ、ウチのルールはご飯は家族揃ってから、だから。

 

 私は拗ねたフリをして、可愛らしく頬を膨らませてみた。

 高校3年生、花の女子高生なのだ。自慢じゃないけれど結構可愛いほうだと思うし、身なりだってかなり気を遣っている。大学受験を控えているからって、手抜きはしない。

 お兄さんにはいつも可愛い私を見ていて欲しいし、そのための努力くらいは、惜しむつもりはなかった。


「おやつ買ってきてあるから、それで我慢してね」

「え、マジで?さすがお兄さん!」

「はは……それに、今日は大切な話もあるしね」


 照れくさそうに笑うお兄さんの言葉に、私は首を傾げた。

 手渡されたチョコのせいで見逃す寸前だったけれど、私はそういうコトには敏感なのだ。普段と違う仕草や態度は隠してたって分かる。特にお兄さんとお母さんのは。


「さ、勉強しよっか。今日は何やるの?」


 切り上げるように、お兄さんは私の頭をぽんぽんと撫でた。

 他の人に髪を触られるのは嫌いだけど、お兄さんになら良いと思ってしまうから不思議だ。許せるのはお母さんとお兄さんだけで、それはきっと家族だからだと思っている。流石にきっちり髪を巻いた後とかにやられると、少しイラっとするけれど。


 まぁ、何はともあれ。

 訊いても今は話してくれないのだろうし、受験勉強はしなきゃならない。

 胸の内に渦巻くモヤモヤしたものを抱えたまま、私は自分の部屋に戻ることにした。







 お母さんが帰ってきたのは、午後9時を回った頃。


 チョコくらいじゃ満足しなかった私は、盛大に腹の虫を鳴らしていた。

 お母さんは笑いながら謝って、上着を脱ぐや否や缶ビールを煽っていたりする。どうも会社で色々あったようで、大声で上司の愚痴を吐いてはお兄さんに絡んでいた。

 母子家庭で頑張ってくれている感謝もあるし、家にいるときくらいは好きなことをさせてあげたい……けど、ストッキングを脱ぎっぱなしにしてお兄さんに拾わせるのはどうかと思う。お母さんはまだ若いんだから、もう少し女らしくしてほしい。


 ビーフシチューを温めて、ダイニングテーブルに夕食が並んだとき。

 お母さんは珍しく、お兄さんの隣に座った。何か問題を起こしたときの、がみがみと説教する定位置みたいに。違うのは、お兄さんもお母さんも言いづらそうにしている事だった。


「詩織、大事な話があるんだけど」


 ほくほくと湯気を立ち上らせるビーフシチューを前に、お母さんは私に向き直って言った。

 心なしか顔が紅潮しているみたいだ。それは隣に座るお兄さんも同じで、2人は目と目で会話してたりもする。なんだか、居心地が悪い。


 すう、と大きく息を吸った後、お母さんは言った。


「お母さんね、お兄さんと結婚しようかと思ってるの」

「は?」

「実は結構前から付き合ってて……アンタも大学生になるし、いい機会だから結婚しようかって、ね」


 ね、と言いながら、お母さんはお兄さんに視線を送る。

 お兄さんははい、と小さく応えて、何やらはにかんだような笑みを浮かべた。ほとんど見たことのない、知らない笑顔だった。


「詩織ちゃん?」


 ぽかん、としていると、お兄さんが心配そうな表情を浮かべて私を見ていた。

 我に返って、何とか言葉を捻り出そうとする。けれど、喉から出るのは「あ」とか「え」とかそんなのばかり。

 大好きな2人が一緒になるのだから、嬉しくない訳がない。なのに私は、おめでとうの一言が言えなかった。


「式は挙げないし、籍を入れるだけにはなっちゃうけど。私、ドレスとかってガラじゃないしねぇ」

「僕は見たかったんですけどね」

「やーよ、アレ面倒臭いんだから」


 ははは、なんて笑ったりして、2人は楽しそうに話していた。

 そんな中でも時折見せる、私の反応を伺うような視線。お母さんは鈍いから、私が驚いているだけって思っているんだろうけど。

 それでもお兄さんは、乾いた笑みばかり浮かべる私の事が心配で仕方ないようだった。


「あー……いや、そうなんだ。おめでとう。びっくりしたけど」


 ようやく、マトモな言葉を絞り出せた。

 頭の中はぐちゃぐちゃで、何を言っていいのか分からないけれど。それでもお母さんの幸せが嬉しいっていうのは本当だ。うん。本当に。


「なんかアンタにも言いづらくてねー。歳の差だってあるしさぁ」

「いいじゃん、お母さんまだ若いし」


 そうだ。

 早くにお父さんを亡くしてから、お母さんはずっと私のために頑張ってきた。

 私服はどこかの安物ばかりで、メイク道具だって私が半分以上使ったやつを持って行く。携帯代や遊ぶお金くらいは自分で稼ごうとしても、「学生の本分は勉強と遊びだから」とバイトだって許してくれなかった。大学までの学費だって、お母さんは死に物狂いで働いてきたのだ。私のために。


 そんなお母さんが再婚して幸せになろうって言うのだから、嫌なハズがない。

 お兄さんは就職していて、それなりにお金も稼いでいる。今まで出会った誰よりも良い人だって胸を張って言える。お母さんの事を大事にしてくれるのは間違いないのだ。私のことだって。


 それなのに。

 そのはずなのに。

 なんで私は、上手く笑えないんだろう。

 

 大好きなビーフシチューの味は分からないまま、夕食が終わるまでひたすら笑うことにした。







 勉強するから、と言って、私は部屋に閉じこもった。


 普段は禁止されている鍵も掛けて。

 厚手のパーカーを着て、フードも被った。お兄さんから誕生日に買ってもらったイヤホンを付ければ、私だけの世界が出来上がる。

 あの二人はリビングでお酒を飲んでいるから、声を掛けてくることはないだろう。明日は休みだからきっと朝まで飲むのかもしれない。どっちにしろ、私には好都合だった。


 イヤホンから流れる音楽は、私の好きな洋楽のR&Bのミックスリスト。

 洋楽なんか聴かなかった私だけど、お兄さんの影響で聴くようになってからはハマりっぱなしだ。

 アイツのニューアルバムがどうだ、とか、ミュージックビデオは微妙だった、とか。あんなに楽しく話していたのが、何でかずっと昔の事のように感じてしまう。

 あんなに楽しかったのに、可笑しな話だ。


「~~~♪」


 単語帳を繰り返し、何度も見直す。

 何度も、何度も、何度も。お気に入りのアーティストの曲を口ずさみながら。

 英語は得意だ。お兄さんが得意だから。分かりやすく教えてくれたし、私が英語のテストで良い点数を取ると、他の科目よりも嬉しそうに笑うから。

 それが嬉しくて、私は必死になって英語を勉強したのだ。



―――時刻は、午前12時30分。



 大学受験に向けて、今は追い込みの時期である。

 眠いなんて言ってられない。それなりに偏差値の高いところを狙っているのだから、ここが踏ん張り所だ。絶対に合格して2人を喜ばせてあげたい。


―――単語帳をめくる。

 可愛らしい文字で書かれた単語を読む。口に出しても聞こえはしないが、どうでもいい。


 大学に入ったら、お兄さんに案内して貰うのもいいかもしれない。

 第一志望はお兄さんが通ってた大学なのだ。とっくに卒業はしてしまっているけれど、OBが敷地内をウロウロしてたって問題ないはずだ。そう考えると胸が高鳴って、私はくすくすと笑ってしまった。


―――単語帳をめくる。

 この単語を読むのはもう何回目だろう。冗談じゃなく、1000回は超えているかも。はは、と笑ってしまう。なんでそんな頑張ってるんだっけ。


 合格したら、みんなで旅行に行くらしい。

 場所は私が決めていいと言っていた。色々悩むけど、やっぱりハワイに行ってみたい。ベタだけど、やっぱり南国が好きなのだ。

 新しい水着を買って……と思ったけど3月はまだ寒いかも。だったら逆に寒い所に行くのも面白い。スノボとか、雪の降る温泉宿とか。ちょっと大人っぽくて、良い感じ。


―――単語帳を、めくろうとする。

 「これは重要!」と赤いペンで書かれた文字が滲んでいる。

 何だろう、と思った途端に、ぐにゃりとその文字が歪んだ。ぽたぽたと垂れる雫が、長方形の髪を濡らしていく。同じように歪んだ視界に、私は泣いているのだと気が付いた。

 

 私は必至になって、口元を抑えた。

 リビングにいる2人に聞かれてはいけないのだ。要らない心配はさせたくない。そもそも、何で私が泣いているのかだって分からないのに。

 それでも、私の口から漏れ出る嗚咽は止まらなかった。

 やっぱり理由は分からないけれど、とにかく悲しかった。嬉しいはずなのに、私の心の中は後悔ばかりが占めている。上辺に張り付けた気持ちの下で、私の本音が暴れまわっているのだ。


 時計を見る。

 午前12時55分。イヤホンを外すと、リビングから楽しそうな声が聞こえてきた。

 近く夫婦になる2人の幸せそうな声だ。大好きなお母さんと、大好きなお兄さん―――もうすぐ、お父さんになる人の。

 そんな笑い声を聞いて、私はぐっと胸を抑えて蹲った。ずきりと痛む胸は、まるで私を責めているよう。


 あぁ、と目を瞑って。

 私は気付いてしまった。心を食い破ろうとする本音が、私に気付かせた。

 喉から吐き出されるように、後悔ばかりが溢れ出た。

 

―――どうして私じゃないんだろう。

―――どうしてお兄さんは、お母さんを選んだんだろう。

―――どうして私は、お兄さんに好きって言わなかったんだろう。

 

 思い返せば、簡単に気付けたはずだった。

 誰かに告白されても全く興味が持てなかったり。お兄さんが家に来ない日には、どこか寂しく思ったりもした。ずっとあの人を目で追って、傍から離れようともしなかったのに。あの人のためにって、心の中で思っていたはずだったのに。


 その気持ちを無視し続けた結果が、これだ。

 お兄さんはお母さんを選んだ。

 お母さんはきっと、お兄さんに好きって言ったんだろう。歳が離れていても結婚したいって思うくらいに、お母さんはお兄さんに好きだって伝えたのだ。

 私が出来なかったことを、お母さんはやっただけ。

 一言で終わるような、たったそれだけの事で、私はずっと好きだった人を失ってしまった。だから後悔してるし、悔しいと思って泣いているのだ。


 がたん、と椅子が倒れた。笑い声がぴたりと止まる。

 私はいつの間にか立ち上がっていた。袖で涙を拭って、被ったフードを取り払う。ドアの向こうから足音がして、こんこんと控えめなノックが部屋に響いた。


「詩織ちゃん、大丈夫?」


 大丈夫なもんか。

 頭はぐちゃぐちゃだし、心はもうズタズタだ。

 それなのに呑気に「大丈夫?」と訊くなんて、私の気持ちをちっとも分かってくれていない証拠だ。悲しさに混じって、今度は怒りが沸々と湧いて出てきた。 

 私はもう一度涙を拭って、ドアの方へと歩いていく。

 歳の離れたお母さんと付き合えるなら、同じくらい歳の離れた私だって良いはずだ。歳上よりも、歳下の方が良いって言わせてやる。若さは武器なのだ。ばーか。


 かちゃり、と音を立てて鍵が開いた。

 それでもお兄さんはドアを開けようとはしない。必要以上に気を遣うタイプだからか、勝手に部屋に入ろうとか、ドアを開けようとかは思わないのだ。そんなところも好きだけど。


「詩織ちゃん、その……」

「お兄さん」

 

 扉越しに、弱々しい声。

 やっぱりお兄さんの声は良い。あんなに悲しかったのに、急に元気が出てきたような気がした。


「私もね、話があるの」


 ごめんねお母さん。

 やっぱり私、諦められないかも。お母さんの事は大好きだけど、同じくらいお兄さんが好きなんだ。

 

 ドアが開く。

 目の前には少し顔を赤らめた、私の大好きな人が立っていた。

 優しくて、私を大事にしてくれて、誰よりも素敵な人。小さな頃から私を守ってくれたお兄さん。改めてそう思うと、私の中で何かが弾けた気がした。


「お兄さん、私ね―――」


 午前1時ちょうど。

 想いが伝わるかは、分からないけれど。

 でもお兄さんは、私のワガママをいつも聞いてくれるから。


 私は精一杯の想いを込めて、お兄さんに言ってやった。

 

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

貴方が好きだと気付いたから。 Ryoooh @Ryoooh99

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ