心にしみる、こい紅茶

添野いのち

こい味わい

「あー、やっと終わった」

 僕は1つ背伸びをした。時刻は午前4時。今日の授業で提出するレポートを何とかまとめ終えた。睡眠時間が無くなったのは辛いが、ちゃんと課題を出さないと僕みたいなバカは単位を落としてしまう。それに徹夜にはもう慣れた。僕はカバンにレポートをしまい、パソコンの電源を落とした。

 その時、レポートを間に合わせることが出来た安堵からか、疲労と眠気が僕を襲った。今すぐにでもベッドで横になりたいが、もしそうしてしまったら、待っているのは遅刻と提出遅れによる絶望のダブルパンチである。

 それを何としても避けたい僕は、キッチンへ向かった。そこにある戸棚を開き、紅茶の茶葉の入った缶を1つ取り出した。お湯を沸かし、茶葉をティーポットに入れ、お湯を注ぎ、蓋をして蒸らす。蒸らしている間に戸棚にある缶を整理し、数分後、カップに紅茶を注いだ。このようないつも通りの淹れ方は、もう体が覚えていた。

 紅茶の入ったカップとティーポットを持ち、自分の部屋に戻った僕はベランダの扉を開けた。開けた瞬間、深夜特有の冷たい空気が部屋に流れ込んでくる。僕の肌を刺す冷たさを感じながら、僕はベランダへ出た。

 ここで紅茶の香りを少し嗅ぎ、その後そっと口に含んだ。

 甘い紅茶の香りが鼻を駆け抜けるのと同時に、ほろ苦さと甘酸っぱさを感じた。香りと味わいの絶妙なハーモニーがたまらない。十分に味わったあと、紅茶を喉の奥へ流した。温かい紅茶が、冷えたお腹を温めてくれるのが分かった。

 1つ深呼吸をした後、深夜の街を見下ろしてみる。ここはマンションの15階なので、街の様子を見渡すことが出来るのだ。静まり返った住宅街、ぽつぽつと光る街灯に信号、ポケットに手を入れて歩く人の姿。昼間のやかましさなど全く無く、虚無感に包まれている。静かな時に僕は、知らずのうちに空想にふけるのがお決まりだった。

 また紅茶を一口含む。あのハーモニーが再び蘇ってきたのと同時に、ふとある人のことが頭に浮かんだ。

 それは小野江おのえさんのことだった。中学の時に出会い、今は僕と同じ高校に通っている。優しい性格で成績優秀、スポーツ万能、おまけに可愛い顔と低身長を合わせもっており、彼女に飢えた男子生徒達の格好の的である。僕は中学校が一緒だったということもあり、しばしば友達から小野江さんについての質問攻めにあうのだった。

 僕も例にもれず、小野江さんのことが大好きだ。中学2年の時に同じクラスになり、席も近かった僕と小野江さんは、授業の合間や休み時間に話をする仲になった。そんな日が数ヶ月続いたある日、僕は小野江さんのことが好きだと気づいたのだった。しかし僕は告白することが出来なかった。それは今も同じだ。それにはある理由があった。

 小野江さんは恋人を作るつもりはない、ということを知ってしまったからだ。中学の家庭科で、将来の生活についての授業を受けていたときに小野江さんとこんな話をした。

元弥もとやくんはプリントのここ、何て書いた?ほら、〈自分の10年後の生活を考えてみよう〉のところ。」

「うーん、とりあえず1人暮らしで大学に通ってる、ってことにしておこうかな。僕、将来は医者になりたいからさ。」

「じゃあ、20年後のところは?」

「出来るかどうか分からないけど、結婚して子供と一緒に住みたいな、なんてね。小野江さんは何て書いたの?」

「うーん、私は何て書いたら良いのか分かんないんだよね。将来の夢なんて無いし、結婚はおろか恋人すら作るつもりもないからなぁ。」

 僕は正直ショックだった。好きになった相手が、恋人を作るつもりが無かった。僕の片想いは、決して実ることの無いものだと分かってしまったのだ。

 それでも僕は、小野江さんを諦めきることが出来なかった。その時既に、僕の小野江さんへの想いは、スパッと諦めがつく程小さなものでは無くなっていたのだ。小野江さんに対する恋心の芽を摘み取ることなど、僕には出来なかった。その芽が二度と、花を開くことも、実を結ぶことが無いと、分かっていたのにも関わらず。

 結局今の今まで、伝えられない想いを、花の咲かない恋の芽を、心に抱いたまま生きてきた。

 ここで一口紅茶を飲む。あのハーモニーはそのままだったが、少し冷めてしまっていた。

 この行き場の無い想いをどうするのが正解なのだろうか。いっそのこと小野江さんに告白して、振られればスッキリするだろうが、その場合僕は嫌われてしまうかもしれない。小野江さんとの関係を今よりも悪化させるわけにはいかないのだ。結局どれほど考えても、出てくる答えはいつも同じだった。

「告白はせず、今まで通り友達として接していく」

 僕がこれ以外の選択肢を取ることは、これからも無いだろう。

 カップに入っていた残りの紅茶を飲み干した。既に冷めた後で、苦味が強かった。僕は身震いをした後、カップに紅茶を注ぐために1度部屋に入った。時刻は午前5時をまわり、東の空が赤く染まり始めていた。カレンダーを確認すると、今日の日の出は5時14分と書かれていた。

 勉強机の上にあるティーポットを手に取り、紅茶を注いだ。するとほわっと湯気が立ち、あの甘い香りを感じた。口に含むと、さっきの一口が苦めだったせいか、普通よりも甘酸っぱい味がした。

 もう一度ベランダへ出て、薄明るくなってきた街を見渡してみる。新聞屋のおばさんが自転車を乗り回し、朝刊を配っているのが見えた。おばさんを目で追っていると、小野江さんの住んでいるマンションが目に入ってきた。おばさんは自転車を降り、新聞を五、六部抱えてマンションに入っていった。

 僕は紅茶を飲みながら小野江さんのマンションを眺めた。口に入ってきた紅茶はあのハーモニーを奏でていた。

 ここから小野江さんのマンションまではおよそ70メートルで、その間に高い建物は無い。あるのは眼下に見えている一軒家ばかりで、互いのマンションがはっきりと見える。

 小野江さんの部屋で思い出した。僕は1度、クリスマスパーティーに呼ばれ小野江さんの部屋へ行ったことがある。僕の部屋とは違い物がきれいに整理されていた。小野江さんの几帳面な性格の表れなのだろうが、それにも憧れを抱くほど僕の好意は高ぶっていた。それは今も同じであるが。

 小野江さんは僕のことをどう思っているのだろうか。秘かに僕に好意を抱いている、何てことがあれば良いのに。そう思う度に、あの言葉が蘇ってくる。

「恋人すら作るつもりもないからなぁ。」

 ふぅ、と1つため息を吐き、紅茶を飲んだ時だった。

 〜♪

 部屋にあるスマホからLINEの通知音が聞こえてきた。ちらっと時計を見ると、5時09分を指している。こんな時間に誰だろうか。

 部屋に戻り、スマホの電源を付けると、

「恋花 1件のメッセージ」

 という通知が目に入った。恋花れんかというのは小野江さんの名前である。僕は少し戸惑いながらも、嬉しく思っていた。好きな人からLINEが届いて喜ばない人がいるのだろうか。

「元弥くんおはよ!私見えてる?」

 僕はまたベランダへ出た。すると小野江さんの部屋のベランダに、ジャンプしながら目一杯手を振っている人が見えた。顔は分からないが絶対に小野江さんだ。僕はメッセージを返した。

「おはよう、何で僕だって分かったの?」

 すぐに返信が来た。

「こんな時間にベランダに出ている人なんて、私は元弥くん以外知らないよ?どうせ徹夜でレポート仕上げた後に、紅茶でも飲みながら休んでたんでしょ?」

 図星だった。

「よく分かったな、その通りだよ」

 と返す。

「全く、徹夜すると体に悪いことくらい分かるでしょ。レポートくらいさくっと終わらせなよ」

「僕みたいなバカには絶対無理」

「でも元弥くんさ、徹夜のせいで倒れるのは止めてよね。学校で今まで何回倒れたことか」

「徹夜でもしないと本当に終わらないから仕方ないの!」

「分かった、分かった。でも、体には気をつけてよ」

 しばらく小野江さんとメッセージを交わした。メッセージから恥ずかしさが感じられないかもしれない。好きな人とLINEしてるのに、全然緊張してないように見えるだろう。それは、僕が恥ずかしさを隠すのに慣れたからだ。花の咲かない恋の芽を抱えておいて、隠さずさらけ出す訳にはいかない。小野江さんに勘付かれたら終わりだ。

「そうだ、話変わるんだけど」

 小野江さんからのLINEだ。

「今日一緒に学校に行かない?」

 思わず首を傾げた。確かに中学の時も、高校に入ってからも、たまたま会ったら一緒に行くことはあった。でも誘ってきたことは今まで1度も無かったのだ。

「良いけど、どうして?」

 メッセージを返した。

 〜♪

 すぐに小野江さんから返信が来た。紅茶を飲みながら確認しようとしたとき、ちょうど夜が明けた。差し込んできた太陽の光がベランダにいる僕と小野江さん、そして紅茶を照らした。紅茶が紅く、また金色に輝いて見えた。あの新聞屋のおばさんはちょうど僕のマンションに着き、朝刊を抱えてマンションに入ってきた。僕の目に入ってきたのは、次のメッセージだった。

「実は、元弥くんに伝えたいことがあるの」

 口に入った紅茶は、格別に甘く、少し酸っぱかった。

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