前奏曲

増田朋美

前奏曲

前奏曲

今日は、九月にしては暑く、なんだか夏に逆戻りしたような、そんな感じの一日であった。なんだか、ここまで暑いと、疲れ切ってしまうようなそんな気持ちがしてしまう、そんな風に感じる一日でもあった。でも、そんな中、可愛い来訪者が川にやってくるようになった。マガモの大群である。バラ公園の池には、頭の緑色の雄と、茶色の頭のメスが寄り添って泳いでいる姿が見られるようになったのだった。これが来訪してくれると、もう秋なんだなということが、少しわかって来たような気がするのである。

そんな気候が続いている中、今日も杉ちゃんと由紀子は、水穂さんにご飯をたべさせようと、一生懸命あの手この手を使っているのだが、水穂さんは一口二口たべれば、もうよくなってしまうらしく、それ以上口にしてくれないのだった。

「ほらあ、頑張って食べろ。食べないと、余計に弱ってしまうぞ。」

と、杉ちゃんが、改めて、水穂さんの口元にご飯のおさじを持っていくが、水穂さんは、また首を

横に向けてしまう。

「そんなに、ご飯がまずいのかしら。あたし、おかゆの味付けだって、ちゃんとしたつもりなんだけどな。」

由紀子は、はあとため息をついて、水穂さんにこういってみた。

「水穂さん、本当のことを言ってちょうだい。なんでご飯をたべようとしないの?それはこのご飯がまずいから?それとも、単に二口たべて、もういいことになっちゃうわけ?どうなのよ、たべないんなら、ちゃんと理由をあたしたちにも聞かせて。」

水穂さんは、応えようとしたが、その代わりせき込んでしまった。

「咳で返事してら。」

と、杉ちゃんが、またため息をつく。

「咳で返事をしないで、ちゃんと言葉で答えてよ。そうじゃないと、水穂さんだけがずるいことしていることになるわよ。」

由紀子がちょっと強い口調で言うと、水穂さんは、口元に付着していた内容物をふき取りながら、

「食べる気がしなくて。」

と、一言だけ言った。

「それじゃあダメだい。僕たちだって、朝昼晩とちゃんとご飯をたべているんだから、ご飯は食べなきゃだめだよ。」

「そうよ、食べる気がしなくても、食べないと、病気が治らないわよ。食べる気がしないという気持ちに負けないで、体はダメでも、心は元気でいなくちゃ。」

由紀子と杉ちゃんが、そういうことを言うと、水穂さんは、また激しくせき込んで、文字通り、咳で返事を返すのであった。

「ほんと、これはどうしたら、解決できるんだろうか。食べる気がしないということはだな、本当に味がまずいのか。」

と、杉ちゃんが聞くと、水穂さんは、せき込みながら、首を横に振るのだった。

「じゃあなんだ。味はちょうどいいなら、食べる気しないってことにはならないよな?由紀子さん、このおかゆどうやって味をつけた?」

杉ちゃんは、由紀子に質問した。

「ええ、ポトフスープのもとでご飯を煮て味を付けたわ。」

由紀子は答える。

「ちょっと味が濃いのかな。ああいうものは、一寸味を濃く作ってあるからな。まあ確かに、万人にに受ける味にするには、一寸濃くなっちまうからな。じゃあ、次は薄味にするから、必ず食べてくれよ。よろしく頼むな。」

まあ確かに、スーパーマーケットなどで売られている原液をそのままスープにするというタイプのスープのもとは、少々味が濃いということは確かだった。それは、鍋などの料理に使うためであって、それに罪はないのだが。でも、由紀子はそれを聞いて、いやな気持になった。食べないのは水穂さんのほうなのに、なんで私たちが薄味にしなければならないのだろう。あたしは、一生懸命作っただけなのに、なんで、わざわざあたしたちのほうが引き下がらなければならないの?それは、なんで?杉ちゃんのほうは、それで納得しているようであるが、由紀子はちょっと納得できなかったのであった。

「まあ仕方ない。これ以上咳でお返事をしないように、気を付けてもらうためにも、これからは薄味でおかゆをつくろう。」

杉ちゃんがそういうことを言うと、水穂さんの口元から、勢いよく内容物が流れ出すので、由紀子は超スピードで水穂さんの口元へタオルをあてがってやらなければならない。畳を汚したら、また畳屋さんに張り替えてもらわなければならなくなるし、それは、同時にお金もかかる事にもなる。しかしそれでも成功するのはまれである。大概は着物や畳などを汚してしまう。今回も血液のほうが先に流れて、畳を汚すことには至らなかったが、枕にしっかりとついてしまった。

「もう、お前さんは何度それをやったら気が済むんだろう。たまにはさ、僕たちを喜ばせるようなこともしてくれよな。」

杉ちゃんの口調は優しいが、顔つきはいらだっていることは確かだった。口元を拭いてやっている由紀子も同じ気持ちだった。

由紀子が、水穂さんの口もとを拭き終わったときと同時に、

「こんにちは。みんな元気?」

と、玄関先からでかい声が聞こえてきた。中年の女性の声である。どこかで聞いたような声である。でも由紀子は名前を思い出すことができなかった。

「あの、前田です。福島の郡山から参りました。」

今度は男性である。こちらの方が、幾分若い男性という感じがする。

「前田さんって誰かしら。」

由紀子がそうつぶやくと、

「おう、恵子さんに秀明君だね。今ちょっととりこんでるから、上がってきてくれるか。」

と、杉ちゃんがでかい声で、玄関さきに答えを出して、由紀子はやっと思い出した。そう、確かこっちにいた時は、塔野澤と名乗っていて、ここを辞めたときに前田姓に戻った、前田恵子さんだ。その当時は確か調理係のおばさんと呼ばれていた。

「言われなくてもそうするわ。お邪魔しまあす。」

二人は、そういって、鴬張りの廊下を歩いて、四畳半にやってくる。こんにちはあ、という明るい声が、今までの憂鬱な雰囲気をかっ飛ばしてくれるような。恵子さんはそんなに明るい女性だっただろうか?

「こんにちは。お久しぶり。どう元気?」

恵子さんと、秀明は、水穂さんの枕元に座った。

「毎日暑い日が続いていますけれども、ご精が出ますね。こちらではまだ残暑が厳しいのでしょうが、郡山ではもう夜は寒いくらいです。」

そういう秀明は、左腕がなかった。着ている着物の、主のいない左袖が、何だかむなしそうにぶら下がっていた。

「そうなのよ。まあ、小濱君の話では、北海道の留萌に比べたら、郡山も結構あったかいみたいだけどね。」

そうか、旧姓は小濱秀明さんと言った。なんでか、恵子さんは、結婚してからも、旧姓の小濱君と言っている。もうとっくに、小濱秀明から、前田秀明に改姓したはずなのに?

「まあ御覧の通り、ご飯をたべれなくて、困っていたところだ。元気どころか、毎日毎日、せき込んで倒れるありさまだよ。」

杉ちゃんが、そういうと、恵子さんは、

「だめねえ、水穂ちゃんは。せっかく由紀子ちゃんたちが作ってくれたんだから、無駄にしないで食べないと。」

と軽やかに笑うのだった。以前、恵子さんが調理係をしていた時は、水穂さんの世話は彼女が担当していた。その時の恵子さんは、一寸きつく当たっていたこともあったけど、こうしてたまにしか会わなくなると、柔らかくなってしまうのだろうか。由紀子は不思議で仕方なかった。

「まあ、そういうことはどんどん言ってくれ。このままだと餓死しちゃうから。ほんと食べてもたくあん一切れとか、食べないから。」

と、杉ちゃんがあきれた顔をしてそう言った。

「それじゃあ、これだったら食べてくれるかしらね。」

恵子さんは持っていた風呂敷包みを開けた。中に入っていた重箱のふたをとると、緑色の大きなブドウがたくさん入っていた。

「マスカットよ。種に気を付けて食べれば、たべられると思うわ。」

「はああ、なるほど。リンゴだけではなく、ブドウの栽培も始めたんか。」

杉ちゃんが相槌を打つと、

「ええ、リンゴだけではつまらないじゃないの。ほかの果物もやってみたくなったのよ。ほかにも、キウイとか、そういうもやってみたいわ。」

と、恵子さんはにこやかに言った。秀明が、隣の家の土地も借りて、ブドウ園も始めたと言った。最近は、農業をやりたがる人がいないので、土地を手放す人が多く、その土地も借りて新しい農業を始めたという。

「本当はね、恵子さんが、一人で全部やって、僕は絵を描いているんですよ。隻腕では、農作業何てなかなかできませんから。でも、それでいいと思っています。恵子さんは、農業をやりたいという目標があるし、僕は僕で次の個展も開きたいですからね。」

秀明が種明かしをしたので、杉ちゃんは笑っていたが、由紀子はなぜか笑う気になれなかった。農業というと結構力仕事も多いのではないか、と思うのだが、秀明はそれができないで、作業をしている彼女の絵をかいたりしているんだろうか。

「それからね、これ、東京の美術館のお土産よ。ここに来る前にちょっと寄ってきたの。さすがに、お昼前にこっちへ来たら迷惑でしょ。だから、東京の美術館によって、時間をつぶしてきたの。これ、音楽やってる、水穂ちゃんなら喜ぶと思って。」

恵子さんは、重箱の二段目を開けた。杉ちゃんには読めなかったが、由紀子には読める。ショパン展と書いてあった。

「ショパンの愛用品とかそういうものを展示してある展示会をやってたの。これ、水穂ちゃんだったら、一発で弾ける曲なんでしょうし、ほかの版も持っているんでしょうけどね。でも、楽譜は、何冊持っていても損はないかなと思って。」

と、恵子さんは説明し、ショパン展と書かれている袋の中から、一冊の楽譜を取り出した。

「ウイーン原典版ですか。僕は、外版ばかり持っていたので、ちょうど良かった。ありがたくいただきます。」

と、水穂さんは、布団に寝たまま、その楽譜を受け取った。

「なあ、なんて書いてあるんだ?」

と、杉ちゃんが聞く。

「ショパン、前奏曲集ですよ。」

水穂さんは静かに答えた。

「そうなのよ。あたしは、音楽のことは詳しくないけど、ショパンのなんだか涙もろくて、壊れてしまいそうな感じがなんか好きでね。それで、最近聞くようになったのよね。まあ、動画サイトとか眺めているだけだけど。」

と、恵子さんは、にこやかに笑ってそういうのだった。それを聞いて由紀子はちょっと複雑な気持ちになった。ショパンという音楽家は、どうも苦手だ。甘ったるい雰囲気と、激しい雰囲気が複雑に入っていて、これほど裏表の激しすぎる人物はそうはいない気がする。

「僕は、クラシック音楽は好きなんだが、ショパンという人はあまり好きじゃないな。なんだか、甘いというか女々しい感じもあるので、、、。」

と、杉ちゃんは頭をかじった。

「でも、日本人が好きな作曲家としては、筆頭ですよ。なぜか、詫び錆のせかいにもつながるとかいうひともいました。僕は、さほど弾きませんでしたけどね。」

水穂さんがそういうことをいうが、由紀子は、好きにはなれなかった。

「水穂ちゃんはショパンよりもゴドフスキーだもんね。」

と、恵子さんは笑っているが、秀明がなんだか悲しそうな顔をしているのを由紀子は見逃さなかった。

「最近ね、あたしピアノを習ってみたくなったのよ。歌丸師匠の落語もいいけど、こういう趣味を持ってもいいかなって。まあ、ただの百姓が音楽やるのはおかしいって言われるかもしれないけど、でも今はそんなこと追求する時代じゃないじゃない。思い立ったら即実行よ。すぐに電子ピアノを買ってさっそく練習始めてる。ヘッドホンで音を消せるし、彼には迷惑かけないわ。今は、いいわよね。こうして個人的に楽しめる時代になったんだから。」

「へえ、そうかあ。じゃあ、腕のいい先生を見つけるんだな。まあ、恵子さんが一人で楽しむのもいいけどさ、秀明君にも少しは考慮してやってくれよ。彼、片腕ということで、かなり苦労していると思うからな。いくら個展を開いて充実しているように見せても、中身は全然ってやつは結構いるよ。」

杉ちゃんは、恵子さんの話にそういうことを言った。確かにそれは考慮してやってほしいと由紀子も思った。他人に迷惑をさせていなければ何をやってもいいという、文化の国家も確かにある。でも、日本ではまだ、同じ家庭に属しているものにも、同じくらい幸せがあってほしいという思想がまだ強く残っている。いや、その可能性がある。

「ええ、今インターネットでなんでも調べられるからいいわよね。有名な先生だってすぐ探せるし。幸い、水郡線で少し走ったところに、ピアノの先生が引っ越してこられてね。そこへ師事しようと思ってるの。最近、音楽学校なんかで教えていた偉い人が、定年で学校を終わると、田舎へ引っ越したくなるのかしら、この福島にも、偉い人が結構来てるのよね。東京へ定住するという人は大体少なくなっていくのかな。」

恵子さんは、にこやかにそういうことを言った。

「まあ、子供のころ、ピアノ習っていたから、楽譜は読めるんだけどね。それで、その延長線でまたピアノを習うのもいいわよね。今はいいわね。大人でも習えるんだから。」

「へえ、いま何の曲にチャレンジしてるんだ?」

杉ちゃんが聞くと、恵子さんは、ショパンのワルツ一番と答えた。まだやっと両手で弾ける程度であるけれど、何とかやっているという。

「そうですか。あれは軽やかに弾くのが難しいと思うけど、頑張ってください。」

と、水穂さんが、恵子さんに言った。恵子さんは、そんなすぐには弾けないわよ、なんて言っているけれど、由紀子は、それをちょっといやな思いというか、複雑な思いて聞いていた。恵子さんには、自由にピアノを習うという権利が与えられている。でも、水穂さんが再度ピアノを習いたくなったとしても、習わせてもらうことはできないだろう。もし、身分がばれてしまったら、一発で取りやめになってしまうにきまっている。そういうのが、身分の差別というものにつながっていく。

「まあ、恵子さんよ。楽しむのもいいけれど、一寸小濱君にも考慮してやってね。両手がない小濱君には、一生かかってもピアノを弾くことはできないんだからね。」

杉ちゃんがちょっと戒めるように言った。

「ああ、気にしなくていいですよ。僕は音楽することはできませんが、ほかの方法で、楽しむことはできますから。恵子さんがピアノを弾いている姿とか、そこらへんを絵にすればいいという楽しさもありますし。」

秀明はそういうことを言ったが、由紀子は、彼に少し恵子さんは考慮してあげてほしいと思った。夫婦はなんでも共用というわけではないことは知っているけれど、一寸恵子さんは、やりすぎなのではないだろうか。

「若いころ、合唱やったりしていましたから、楽譜は少し読めるんですけどね。恵子さんは、ピアノが弾けるようになるのを楽しみにしているようですので、それをつぶすわけにはいかんでしょう。だから、僕は、恵子さんの意志に従うことにしましたよ。」

秀明はそういっているが、由紀子はなぜか秀明のいう通りだとは思えなかった。秀明さん、男らしく、自分は弾けなくて悔しいと言えばいいのに。それをわざわざ耐えている何て、ちょっとかわいそうだ。また水穂さんもそれは同じだった。水穂さんだって、音楽をやっていかなければならなくて、体を壊してしまったのだから。

「まあ確かに、音楽というものは楽しいよな。でも、僕は、一人で楽しんでいるだけっていうのが音楽じゃないと思うんだよ。特にショパンの音楽はそうだよね。なんかすごく気取ってて、高尚な人間でないと近づけないよ。だから僕はちょっと苦手で。一寸、一緒に暮らしている人に対して、一人でやりすぎてしまうというのは、どうかと思うのよね。」

杉ちゃんが、由紀子のいうことを代弁するように言った。こういうことは、杉ちゃん出なければ口にできないことだった。暗黙の了解のようなことを、平気な顔して口にすることができるのは杉ちゃんならではである。

「なあ、小濱君、ちょっと寂しいよなあ。恵子さんがこんなに楽しい気持ちになってるの。」

と、杉ちゃんが笑うと、秀明は、申し訳なさそうに頷いた。それを見た恵子さんは、まあ、そんなことを思っていたなんて、わからなかったわと驚きの顔をしている。でも、恵子さんでは具体的に秀明に何かしてやることはできないのだった。音楽を共有するというのは、かなりレベルの高い地位にある人でないとできない。

「じゃあ、僕と一緒に弾いてみますか。秀明さんが右手の部分を弾いてもらって、僕が左手を弾きますから。」

水穂さんが、少しせき込みながら、布団の上に起きた。由紀子に支えてもらいながら、水穂さんは布団から立ち上がって、ピアノの前に座った。そのげっそりと痩せた体を見て、恵子さんも驚いたようであるが。

水穂さんは、持っていた前奏曲の楽譜を譜面台に置いた。そして、秀明をピアノのイスに座らせる。

「僕、この曲が一番好きなんですよね。」

秀明は、楽譜を開いて、前奏曲4番ホ短調の譜面を出した。右手だけであれば簡単に弾くことができる曲だ。水穂さんは、立ったまま、秀明に続いて弾き始める。二人の息はぴったりだ。二人は、本当に短い曲だけど、ショパンらしいちょっと憂鬱な一面を奏でることができた。一ページしかない曲であるが、これほど重たいメロディーはないだろうと思われる。

「おお、すごい。さすがねえ。やっぱり水穂ちゃんには、音楽を聞かせる才能があるってことね。いいなあ、二人でそうやれるってことも、また楽しみじゃないの。私にはそれはできないわよ。」

恵子さんは負けじとそういうことを言うが、水穂さんと秀明は何回も同じ曲を繰り返した。由紀子はこのありさまを見ながら、水穂さんという人がかわいそうな気持がした。なぜなら、水穂さんは、音楽ができない人にたいし、提供してやらなければならない身分であるということになるからだ。水穂さんは、そういう身分なのだ。水穂さんは最後まで、そういうことをしなければいけない、いわば貴族に雇われている道化のようなものだ。それを感じ取ってしまった由紀子にとって、水穂さんと秀明の弾いている前奏曲は、悲しくて仕方ないものであった。

前奏曲は、その間にも悲しいメロディを奏で続けた。


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前奏曲 増田朋美 @masubuchi4996

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