第二十七話 笑顔
康之は振り払われた手を見せつけるようにブラブラさせる。
「そこまで嫌われた覚えはないぞ」
「……もうっ!」
殴られた。
デスクワークがメインの女の拳だ。胸板に精一杯殴られたところで痛くも痒くもない。けれどどこか彼女の声は震えている。
「強盗か何かかと思ったじゃない! どこから入ったのよ!」
「どこって、裏口しかないだろ」
この店のマスターキーを見せる。
万が一のことを考え、かつてマスターが渡したものだ。今思えば、何時かこの時が来るのを予見していたのかもしれない。
「お前こそこっちに何の用だよ」
「どこかの誰かさんが誕生日パーティーだって教えてくれなかったから、今からご馳走作るのよ」
「そうだっけか? ジュリアは教えてくれなかったのか」
「アンタが連絡寄こしたんだから、アンタが教えるのが筋でしょ」
「ごもっとも。悪かったな。ご馳走楽しみにしてるぜ」
「アンタとホークアイには食べさせてやんない」
「そう言うなって」
肩を叩いてすれ違う。その時だ。
「……そのネクタイ」
足を止める。
視界の先のユキと目が合った。
「似合ってないわよ」
「分かってるよ」
鼻を鳴らし、言うだけ言って、エミリーはバックヤードの奥に行く。
意識を前に戻し、駆け寄るユキの姿に微笑んで、腕を伸ばす彼女を抱き上げた。
抱きしめれば、ネクタイはユキと密着する。
「早かったね」
「遅刻したくなかったからな。ギリギリ間に合ってよかった」
自分以外のメンバーは揃っていて、準備も後はエミリーの料理を待つだけだ。
テーブルには所狭しとご馳走が敷き詰められ、飲み物もすぐ取れるようにカウンター席に並んでいる。
「酒が少なくないか?」
「メインはユキだ。別にいいだろ」
「ところがどっこい。今日みたいな日にこそ酒は必要だ」
ユキに向けるのとは別の笑みに、二人の大人は目を合わせる。
ついつい笑みが深くなるのを隠すように、カウンター席の椅子を一つ取り、高さを調整してお誕生日席にした。
そこにユキを座らせ、康之も隣に、ホークアイとの間に座る。
「……ワインか?」
ホークアイの目が隠し持ったものを見抜いた。
「おっと覗きはダメだぜ。メインディッシュが来てからだ」
「もったいぶるな。そんなに良いワインなのか?」
ジュリアも人数分のグラスを用意して席に着く。
疑問には、そうだな、と首を縦に振る。良いワインだ。それは間違いない。
「少なくとも今日に限ってはどんなワインより特別だ」
「なんだそれ」
まあまあ、と嗜める、まだ明かすタイミングではない。
小さな音を立ててエミリーが戻ってくる。手にはいくつかの食材があり、キッチンに置くと、どこに何があるか確かめる動きをしながら必要な調理器具を集めていく。どうやらレシピは決まったようだ。
そうとなれば康之のすべきことはただ一つ。
ユキを飽きさせないようにすることだ。
「ねえ」
どの話題でそれを実行するか決める前に、ユキが康之の顔を見て問うた。
「マスターはどうしたの? ここマスターのお店だよね?」
無垢故に、残酷な問いかけだ。
ユキは、マスターが死んだことを知らない。エミリーとホークアイはそれぞれの手段で当時を見て、ジュリアにはユキが寝てから別れた後の経緯を話した。
エミリーは一瞬だけ調理の手を止め、ジュリアは視線だけ動かし、ホークアイは変わらない。
マスターのことはこの子にとっても重要な案件だ。何せ影の親のような存在であり、姿を見せることはなくても、ずっとユキの為に行動していた。
そんな人の手料理を、大好きなオムライスを、この子は二度と食べることが出来ない。
「ユキ」
それを伝えるのは康之の役目だが
「マスターはな、遠くへ行ったよ」
直接的な表現は言い憚れた。
「酷いやつだよ。言うだけ言って、全部人任せだ。この店だって、俺が鍵預かってなければどうだったか」
「どこ行ったの?」
「さあな。あまりにも唐突だったもんで聞きそびれたよ」
望み通りになるとしたら、彼は迷いなく地獄へ足を進めるだろう。
叶うならば、蜘蛛の糸が垂れることを、切に願う。
「じゃあ、いつ帰って来るの?」
「そいつも分からないな。まあ帰って来なかったらこの店の酒を飲み尽くすだけさ」
「ねえヤス」
「なんだ?」
「泣いてるの?」
驚き、頬を触れた。
しかし肌は乾燥し、濡れた跡はない。
「なんだかそんな顔してる」
「……そうだな」
あの日あの時。涙を流さなかったと言えば嘘になる。そして今、思い出している。
ならばきっと、泣いているのだろう。
「別れってのはいつだって悲しいもんさ」
慣れることはない。慣れたくない痛みだ。その痛みを
「大丈夫だよ」
ユキが掬い取る。
「悲しいって感じるなら、次は楽しいって感じるから。ヤスが言ったことだよ?」
そうだ。ユキと出会ったばかりの頃に、彼女に言った言葉だ。覚えていてくれたことに何だか嬉しくなり、同時に恥ずかしくもなって、髪型が崩れるくらい撫でてやった。
「生意気だ!」
「えー!」
嫌がりながらも笑い声が木霊する。
……絶対守るさ。
これは依頼で、約束で、ポリシーで、――そして家族だから。
あの日マスターに言っていなかったことがある。そうでもしなきゃ形見を受け取れそうになかったから。
ユキの祖母の名――それは康之の命の恩人の名だった。
偶然ではないと確信している。ユキの母もミュータント化能力のミュータントだった。であれば祖母もそうであっても不思議ではない。互いの歳を加味してもおかしなところはない。
その祖母によって己は命を救われ、ミュータントとなった。
つまり、康之とユキは同じ血が流れている。
お互い天涯孤独の身の上。であればこの血の繋がりは家族と呼べるのではないだろうか。
一度そう考えてしまった以上、康之にとってユキは掛け替えのない存在となった。
だから絶対守る。マスターや恩を返せなかった彼女の為にも、必ず。
その後はひたすらに話した。バカみたいな、どうでもいい雑談を繰り返す。彼を想うことはあっても、哀しみの感情は今日に相応しくない。この光景を見ているとしたら、きっと彼も笑っているだろうから。
そうした談笑の中、とうとうエミリーが出来上がった料理を手に、カウンターから出てきた。
「待たせたわね」
フルーツでも使ったのか、ほのかに香ばしい中に甘い香りが漂う。
既にギリギリのテーブルを更に詰め、出来合いではない、出来立ての料理が湯気を纏ってユキの前に出される。
「ポークソテーのシードル煮よ」
皮に焼き目が付いた豚肉がスライスされ、共に煮込まれた野菜を着飾る。甘い香りがシードルらしく、肉の香りと合わさって食欲を増す。これだけでも十分に美味そうだが、エミリーの遊び心か、薄く切られたリンゴがウサギを形取って皿の中を飛び回っていた。
「普通のシードル煮にしようと思ったけど時間がかかるし、あえてソテーにしてから煮込んだわ。味が十分に染み込まないからリンゴを摩り下ろして風味を増したけど、お口に合うかしら」
「すごく美味しそう! 食べてもいいの?」
「待て待て。まずは乾杯が先だ」
タイミングを見計らって、伝家の宝刀を抜き取る。
ホークアイには見抜かれたが、何故これを持ってきたかまでは分かるまい。
「白ワイン? 名前は、えーっと……フ、ロラ……」
「フロレゾン。フランス語ね」
エミリーが即答した。
「よく知ってるな」
「ワインなんてたまにしか飲まないけどね。色々調べてると流行り物とか気になる前に分かっちゃうのよ。結構昔に流行ったワインじゃなかった?」
「ああ。歴史も浅いな」
ほんの数十年前に生まれたばかりで、歴史を振り返ればまだまだ若造のワインだ。
意味は開花。その名の通り、花の甘い香りが広がるような風味が特徴だ。まろやかな口当たりでアルコール度数も低く、かなり飲みやすい。白ワインの共通としてフルーツ系とよくあう。シードル煮は抜群のチョイスだ。
この日を迎える為に、マスターが用意したものだ。
遺言に従って店の中を探すと、奥の方に大切に保管されていた。
ワインセラーには無い、唯一のフロレゾン。
その理由は今日の日、そして製造日を見れば一目で分かる。
「これは二十年前の今日に製造されたものだ。この意味が分かるか?」
返答はない。誰もが互いを伺って答えを探す。
まあ分からないだろう。自分も研究所の資料を見なければ分からなかった。
ユキと正面から向かい合い、ワインと一緒に保管されていた手紙を差し出す。
「マスターからの誕生日プレゼントだ。――
同じ音の、しかし康之が付けたのとは違う意味が込められた名を呼ばれた少女は、ぽかん、としながら、その名の書かれた手紙を受け取った。
そして周囲は
「うっそ! 嘘でしょ!? ユキちゃんが二十歳ぃ!? どう頑張ったって中学生までしか見えないじゃない!」
「康之、もうちょっとマシな冗談考えろよ」
「冗談で子供に酒飲ませるかよ」
これも資料で確認したことだ。
最初に見たときは信じられなかったが、生まれた時からユキを研究していた組織だ。加えてマスターが用意した酒。疑いようがない。
特殊な状況下に置かれていたのだ。内面が幼いのは仕方ないし、背丈も実験や薬物が原因だろう。
様々な表情を見せる大人達を適当に相手し、ユキに手紙の中身を問う。
「なんて書いてあったんだ?」
「分かんない」
手紙を返された。
「読めないよ」
「そうだった。まだ勉強中だったな」
教育をほとんど受けていなかったユキはひらがなさえ読むのが難しい。
教師の真似事など慣れないことをしているが、まだまだ教えることは多い。
拝借し、目を通す。
書かれた文章は短いが、何度も消された後があった。その都度に頭を悩ませている姿を想像すると、なんだか笑えた。
「じゃあ言うぞ」
文字を追う。
「君の幸せを願って」
短い文にどれだけの意味が込められたのか、康之には分からない。
「ヤス」
けれど少なくとも一つは伝わったようで
「私が幸せなら、マスターも幸せなのかな」
「――ああ」
彼女はもう高嶺の小さな花ではない。
「なら、きっと今もマスターは幸せだね」
咲き誇るのは、大輪の笑みだった。
エーデルワイスの少女 千束 @senzoku
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