第58話 到着
※お久しぶりです。前回の更新から一年以上も間が空いてしまいました……読んで面白い話にしたいのにできなくて、悩んでいたらこんなに時間が経ってしまいました
その柔らかな額に手を添えると、わずかに熱を持っているような気がする。
「さあ、顔を良く見せて見ろ」
日が沈み始めるころ、旅の目的地である延家の集落へ到着した。私が馬車から身を乗り出すと、延家の者がすでに私たちを出迎えのために並んでいた。人影の数が多いのは、明日の宴会とその後に控えている祭に参加するために集まった者たちもいるからだ。
延家はかつてこの大陸を手中に収めた久族の子孫だ。彼らは基本的に定住をしない。一から三程度の家族を基本単位として、季節ごとに家畜を伴って草原を家ごと移動する。その土地は代々長子に受け継がれ、かつては、次男や三男は成人すると他の土地へと旅立つのが習わしだったという。しかし、今は他国や他民族との衝突から新しい土地へ移り住むことは容易ではなく、そのため、長男家族に土地を借りて細々と暮らすのが大半だそうだ。
しかし、延家はこの草原を統べる一族として、夏と冬のための家を持っている。夏は草原の北にある家で過ごし、冬は草原の南にある家へと家畜と家族を連れて移動する。羊をはじめとする様々な家畜は全て延家につかえる分家に任せ、自分たちは牧畜以外の様々な仕事に従事する。年中行事の主催から家族内、家族間の揉め事の仲裁と解決、裁判、公共事業、婚礼葬儀、そして商人を介した他領との交易や中央つまり私とのやり取りなど多岐にわたっている。
そういった種々雑多な仕事を効率よくこなし、それによって生じる利益を自分たちで独占するために、延一族の本家と、近しい分家が寄り集まっている。その集落が夏の家と冬の家というわけだ。それらは小さいながら一つの村と呼んでも良いかもしれない。草原では貴重な井戸を中心として小さな集落が作られ、その周囲をぐるりと石壁で囲っている。
日没の最後の残光が西の空に朱色の帯を作っている。その灯は徐々に群青色に溶けていき、夜闇の天蓋が世界を覆い隠しはじめている。辺りには煌々と篝火が焚かれ、明るく暖かい。それでも昼間よりはずっと薄暗く、少し離れてしまえば人々の表情をはっきりとうかがい知ることなどできはしない。結局、我々は相手の心の内を窺いしることができないように、光がなければ他人がどんな表情をしているのかすら読み取ることはできない。
侠瞬に促され、気を引き締めると、私は衆目に晒されながら馬車から降りる。冬の気配を孕んだ冷たい風が頬を撫でた。一瞬その寒気に身震いし、あたりを見渡すと、私が顔を向けるのを待っていた様子で延家当主夫妻、その弟一家、それから延家肝入りの各家の家長らが一歩前に出た。まるで獲物を前に舌なめずりをする獣のように見えた。
宴会は明日なので、まだ到着していない者たちもいるだろうが、それにしては人数が少ない。一目で一国の長を出迎える体勢ではないことが分かる。時間が時間故、正式な出迎えがないにしても、慣例に則った略式の歓迎の儀式を執り行うべき場ではあるが、その準備がなされているようには見えなかった。背後に立つ侠舜の土器を孕んだ気配が伝わってくる。
とりあえずぐるりと集まった面々を確認する。次期当主と目される延赤駿の姿がないのが気になった。
どこにいるのだろうと私が訝しんでいると、少し遅れて紅花たちが馬車がから降りる準備が完了したようなので、そちらの方へ向きなおる。
紅花が最初に、豪奢な着物を着て、優雅な足取りで降りてくると、それに続いて瑠偉が、そしてそのあとから乳母の葉児に抱かれて、瑠偉の妹の風花が顔を出した。
風花は疲れからかぐっすり眠っているようで、葉児の腕の中で大人しくしている。
琉偉は、兄とは言え、まだ年端もいかないながら、疲れを見せないしっかりとした足取りで私の元へやってきた。
この寒空の下で日が沈むまで間がない今、揉め事を起こしても詮無いことと思い、慣例から大きく外れているが、出迎えに対する感謝の口上を述べる。すると、私に続いて瑠偉が、事前に何度も練習したであろう挨拶の口上を完璧に述べることができた。延一族から感嘆の声と盛大な拍手が上がった。
葉児が良くできたというように何度も頷いているのが視界の隅に映った。紅花は当然だと言いたげな様子で、特に心を動かされたようには見えなかった。
私は延一族の集団に少し待つよう合図をすると、傍に静かに立っている瑠偉に向き直り、膝を折って視線を合わせた。琉偉が少し動揺したように視線を揺らす。
「立派な挨拶だった。よく頑張ったな」
乳母の葉児が浮かべていた笑顔を意識して、大げさに表情を作りながら語り掛けると、嬉しそうに弾んだ声で答えた。
「もうあんな立派な挨拶ができるとは、琉偉は本当に優秀だな」
「当然です。私の子なのですから」
横から紅花が嘴を入れる。私は、ああそうだなと同意して再び琉偉を見る。
「馬車でこれほどの長い旅は初めてだっただろう?疲れていないか?」
「はい。大丈夫です。父上」
そう言って小さく頷く。
西に沈む日のせいか顔が少し赤いように見えるし、寒さに頬が赤らんでいるようにも見える。なんとなくそのことが気に掛かり、そっとその顔へ手を伸ばした。昨冬、紅花から子供の体調が良くないとさんざっぱら聞かされたことを、この時突然思い出したせいもある。
思いがけず触れた手の平にわずかに熱を感じた。子供の体温は大人より高いのは知っているが、それでも気になった。つややかな頬から柔らかな額へ、そしてすらりと伸びた首筋へ手を動かすとわずかに汗ばんでいるようだ。
背けようとするその頬を両手の平で挟み込むようにして、顔を覗き込む。
「少し顔が赤いようだ。体温も幾分高いかもしれない。具合はどうだ?寒気や体のだるさはあるか?もしあるのならばいつからだ?」
そう矢継ぎ早に質問すると、琉偉は何と答えたらいいかを思いあぐねているようだったが、その小さな唇を開こうとした瞬間。
「琉偉は元気です」
紅花のはっきりとした声が聞こえた。
「少し前に私たちが体調を確認しましたが問題ありませんでした。ねぇ葉児?お前も確認したのよね?」
「……はい。少しお疲れのご様子でしたが、これといった問題は……、その時には、見受けられませんでした……」
「ほうら。琉偉は元気です」
鋭い視線が琉偉へ突き刺さり、琉偉は身をこわばらせたように見えた。
「あぁ、そうだな。瑠偉は丈夫な子だ。体調に問題はないだろう。きっと長旅の最中、あまりにたくさんの変わったものを見聞きしたせいで興奮しているだけなのだろう。ただ、知らず長旅の疲れがたまっているだろうな。幼いのだから。それに、馬車の揺れに酔ったせいもあるかもしれない。馬車の揺れは大人でも辛いものだからな」
もう一度額に手を当てる。私の手の冷たさが琉偉の熱を冷ましてくれるように。
「こんなに長い旅はつらかっただろうに、我儘も言わずに良い子にして偉かったな。私も馬車の揺れは苦手なんだ、瑠偉」
そう言ってゆっくりと頭をなでると、そうなのですか?と言う小さな声が耳に届いた。私は安心させるようにそうだと言って大きく頷く。さらさらと黒い髪が指の隙間から零れ落ちた。少し笑顔が戻ったようだ。今日はゆっくり休ませなければならないだろう。
一呼吸おいてから立ち上がると、腕に抱いた幼子が冷えないように抱き上げている乳母に近づく。
「風花の体調はどうだ。今はぐっすり眠っているようだが」
「大丈夫でございます。少し馬車の揺れに酔ってしまわれたようですが、食欲もあります。とても丈夫な御子です」
「それは良かった。お前も幼子二人の世話をしながらの長旅、ご苦労だった。道中、大変だっただろう」
「いいえいいえ、滅相もございません。坊ちゃまが大変良い子にしてくださったのと、風花様のお相手を積極的になさってくれたおかげで、馬車の中でも退屈なさらなかったようです。今も坊ちゃまと遊び疲れて眠っているだけでございますので」
そうかと、相槌を打ちながら、眠る風花の額もそっと撫でた。こちらは特に問題ないようだった。冷えた私の指にわずかにむずかるようなそぶりを見せたので、私は起こしてはまずいと手を引っ込めた。私に気付かずぐっすり寝入っているさまが何とも愛らしい。
「今日は夕餉を摂らせたら早めに寝かしつけてくれ。食事には消化の良いものがいいだろう。匂いの強いものはだめだ。それに、できれば食べ慣れたものが良い。ここの食事は慣れるのに時間がかかる。私に言われたと言って、料理人に指示をだしておいてくれ。それから、体調が悪くはないのは承知しているが、万が一ということもある。念のため薬湯を琉偉に」
「かしこまりました。そのように手配いたします」
私の意図をしっかりくみ取ってくれたのだろう。葉児が小さくうなずくのを見て、満足した私は紅花を振り返る。
すると、こちらのやりとりが一段落するのに合わせて、ひときわ恰幅のよい男が、私の感覚としては随分下品なように映る華美な衣装と装身具とを身にまとって近づいてきた。
延大毅だ。
私はこの男の表情や話し方が苦手だった。
「主上に置かれましてはこのような辺境の地へはるばるお越しいただき、誠に嬉しく思っております。お元気そうで何よりです。久しぶりにこうして顔を会わせることができ、こちらといたしましてもご報告申し上げることは多々ございますが、それは明日でも遅くはないでしょう。まずはお体を休めて頂きとうございます。あちらが、私どもが普段使用しております館となります。主上からすれば手狭とは思いますが、その分手入れも行き届いておりますれば、お寛ぎいただけるものと思います。使用人も都に倣った礼儀を弁えた者を誂えましたので、ご滞在中不便は感じないものと信じております。何かございましたら、どのような些細なことでもご命令ください」
「これから世話になる。よろしく頼む」
「はい。全て心得てございます。紅花と御子らにつきましては、私どものおります別邸のほうに部屋を用意しております。久しぶりの再会となります。どうか今夜は親子水入らずで過ごす機会を、心優しき主上ならお許しいただけるものと」
「もちろんだ。親子の再開を邪魔するような無粋な真似をするつもりはない。それに今回は琉偉や風花も連れてきている。家族の仲を深めることに私も賛成だ。好きにして構わない。紅花。お前も今夜は子供たちと一緒に食事を摂るといい。気丈にも表情には出さないが、疲れているだろう?それに久しぶりの実家だ。家族と積もる話をしたら良い」
「ええ。お心遣いありがとうございます。お言葉に甘えて、御前を失礼させていただきますわ」
そういうと、幾人もの侍女を侍らせて、こちらを振り返ることなく紅花が女王然として歩き去っていった。
慇懃無礼な態度はいつものことで、目くじらを立てる気にもなれなかった。その言葉の端々に侮蔑の暗喩が潜んでいたとしても、私はただ受け流す以外にどうしようもない。
過去幾度か言葉尻を捕まえて不敬を非難したことがあったが、彼らは文化の違いを盾に言い逃れるだけだった。
「そのように聞こえましたら申し訳ございません。わたしどもといたしましては全く他意はございません。何分学のない卑しい田舎者ですから、高貴な方々と話をする機会も限られますれば、どうぞご容赦ください」
そういいながら、この程度のことで目くじらを立てるなど、器の小さい王だとねちねち非難してくるのが関の山だ。
延家配下の家の長たちが代わる代わる私へ挨拶を述べるのを聞いてから、ようやく侠舜と墨羅漢を伴って私は延大毅の家へと向かった。何年も前に初めてここを訪れたときから、建て替えたのだろう、外観が記憶にあるそれとは全くの別物になっていた。さらに、紅花が侍従に誘われて向かった別邸の他にも、新しい建物がいくつかあるようだった。
延家の本邸は、貴族の基準から見ればこじんまりとしたものではあったが、この辺りの基準としてはずっと立派なものだった。遊牧を生業とし季節ごとに棲む場所を変えるのが本来の生活様式であることに加え、ここでは木材が貴重なこともあって、これほど木材を贅沢に使用した家を構えることはまずない。
皇都の瀟洒な家屋を真似たそれは、中に入ってみれば、内部も貴族の邸宅を模した作りだった。
毛足の長い緻密な模様の絨毯が敷き詰められ、いかにも派手好きな者が好みそうな、調度品の類がこれ見よがしに並べられている。壁や天井には少し前に流行った文様が派手な色合いで描かれている。過剰な装飾が少し野暮ったくはあったが、今日から七日滞在する場所としては申し分ないと言えた。
久族は伝統的に派手なものを好む。地位のある者ほど、家も家具も身に着ける物も全て金や銀の細工が施されたものを選び、また、それが地位の高さを象徴する印となっていると聞く。
これは民族ごとの価値観の違いのため、私の好みとは異なるが、理解はできる。この国の周囲にもそういった趣向を好む国や民族は多い。
延家の自慢話を聞かされながら客間へと案内され、茶を飲む。しばらくたつと、食堂の用意ができたと言われて、さらに屋敷の奥へと案内される。延々続く自慢なのかおべっかなのか分からない話を、右から左へと聞き流しながら、私がずっと話とは関係のないことを考えているとやっと食堂へ辿り着いた。大食堂だと言って案内された部屋の中央には、円卓と椅子とが並べられ、その周囲には所せましと絵画や美術品が並べられている。給仕を担当するらしい男が、延大毅より引継ぎ、私を席へと案内した。
一応上座へと案内されたことに安堵する。延大毅に、自身が上座に座るような低俗な嫌がらせをしないだけの理性がまだあったようだ。けれどほっとしたのもつかの間だった。
私の席の側に花を生けた花瓶が置かれた。美しい竜胆と小菊に女郎花が、派手さには欠けるが美しく首を並べている。視線が数舜釘付けになる。
これは……。
さっと視線を走らせると侠舜も驚愕に固まっていた。
延大毅を見るといかがですかと問うてきた。
ここが他の土地であったなら私は何も思わなかった。誰か、四家の他の家でのことなら何とも思わなかった。問題は、ここが旱涸州であるということだった。
古くからこの土地では花を手折る習慣がない。野に生えた美しい花を、花瓶に生けて楽しむという習慣そのものがなく、彼らの伝統として、特別な時以外は花を摘むということをしない。そう習った。野にあるものは野に、というのが信条なのだという。
死者に慰霊の意味で手向ける時を除いては。
私は視線を延大毅から外せなかった。
「美しいでしょう。妻が庭で育てた花々を、都風に倣って生けたのです。どうでしょう?なかなかのものだと思いませんか。この花瓶も私がこれはと思って購入したのです」
純粋に自慢するように語っている風にも、下心を隠してそれらしい理由を語って聞かせるようにも見えた。心の底から得意げに笑っているようにも、下卑た笑いに顔がゆがんでいるように見える。私の被害妄想だろうか。
「そうか。……とても美しい」
狙ってやったのかどうかはわからない。この一族ならこれくらいの嫌がらせならやりかねないと思われる。過去にも幾度か、子供じみた嫌がらせをされたことがあった。
もう一度、美しいでしょうと言われた花を見遣る。花それ自体がかすむほど派手な花瓶に、この男の単純な性質が表れているようだった。この屋敷もそうだ。少なからず都に憧れがあるというか、劣等感のようなものを持っているのだろうと推察される。ここまで徹底的に、干涸州の特色を削り、都風を前面に押し出した延家の城。外観も中の作りも。そういったことを考慮すると、この男が説明したこともあながち嘘ではなく、本当にただ都風の歓待を目指したが故の結果なのではないかとも思われた。私は人が良すぎるだろうか。
考えても答えは出ないし、考えるほどに憂鬱な気持ちになっていく。今は問題を起こすべき時ではない。私は、この場は言葉通りに受け取ることに決めた。
「この花瓶は、魯州のものか。ここまで発色の良いものはなかなか見られるものではない。生けられた花々もよく手入れされているようだ」
女郎花の匂いは食事の場には不釣り合いだとは思ったが口には出すことはしなかった。大毅の口角がきゅうと吊り上がるのが見えた。
「さすが主上。花瓶の価値を一目で見抜くとはお目が高い。それに、花を育てたのも、生けたのも実は私の妻でしてな。主上が褒めたとなれば、妻もきっと喜ぶでしょう。ただ今は、娘と孫たちの様子を見るために、席を外しておりますが間もなく現れるはずです。慣れない長旅で疲れている家族を労いたいとのことで、どうか遅れてこちらへ伺わせていただくことをお許しください」
言外に、その家族には私は含まれていないのだと言っているようだった。
「それは良いことだ。私は一向に構わない。さきほど出迎え時に顔を見たので、それで十分だ。娘や孫に久しぶりに会うのだ。離れていた時間を埋める必要もあるだろう。それに、瑠偉も風花も延家の者たちに会うのを楽しみにしていた。水を差すのは忍びない。今夜の私へのもてなしは不要だと伝えてくれ」
そう言いながら、生けられた花をできるだけ視界に入れないようにして席に着く。
「そうおっしゃっていただけて心が休まります。さぁ、これ以上お待たせしては不敬でしょう。すぐに食事の用意を」
そう言って大毅が手を叩くのに合わせて料理が運ばれて来る。こちらの伝統的な料理にはない華やかな見た目と香辛料をふんだんに使った香り豊かな料理が運ばれ、種々の酒類が供される。どの酒も都では手に入るが、かつてはこちらではみなかったものだ。
「色々なものを取り寄せているようだな。これほどの酒の種類を揃えるとは。それに香辛料も」
「いやはや、主上のおかげで、街道を整備することが叶いましてな。それで、以前よりも活発に交易することが可能になったというわけです。ご覧ください。どうです?以前は夢のまた夢だった、香辛料や酒の類、さらに家具に美術品。今まではほとんど入手ができなかったものも、こうしてやりとりできるくらいにまでなりました。主上、見違えましたでしょう?もうこれで田舎者などとは言わせません。これからさらに交易を広げて、この家もさらに立派なものに立て替えようと計画しているところです」
そう言って、恰幅の良い腹を抱えて大きく笑った。ちらりと侠舜に視線を走らせると難しい顔をしている。
話している間に、温かな料理が次々と卓の上に並べられていく。壮大な延大毅の話に適当に相槌を打ちながら、頭を必死に働かせなければならなかった。
大毅の壮大な夢物語に適当に相槌を打ちながら、話の途切れるのを待った。
「そういえば、赤駿はどこにいる?まだ顔を見ていないが」
私は、大毅がのどを潤すために酒に手を伸ばした瞬間を見計らい、さも今思いだしたという風に、努めて平静を装って声を掛けた。大毅が一瞬、痛いところを衝かれたからか、苦い顔をしたように見えた。
延家の跡取り息子がいまだ顔を出していない事実を確認しなければならない。
「申し訳ございません。あれは今所用のために遠くへ出かけております。本日中に戻る手はずとなっておりましたが、予定が狂い明日の帰還となってしまいました。本来ならば主上の到着に合わせてお出迎えをするはずでしたのに、誠に申し訳ございません。明日、息子には本日の非礼に対する謝罪も含めて主上へ挨拶をさせますので、どうかご容赦を」
一瞬の奇妙な間を挟んで大毅が恭しく答えた。私は不快さを醸し出しながらしぶしぶ頷いて見せると、更に言葉を続ける。
「それから」
私は懸案事項の二つ目に話題を移す。これが今日の一番の目的だった。
「緩衝地帯の視察の件についてだ。道中欧陽善に難しいと言われたのだが、どうしても自分自身の目で確認しておきたい。こちらとしては、蛮族の侵入を防ぐ意味でも、また今後の久族の身の安全とを確保する意味でも、この機会にどうしても小競り合いとお前たちが報告するものを視察しておく必要があると考えている。今後の対応やそちらへ回す予算などを考慮するうえで非常に重要だ。これ以上、蛮族からの侵略が長引くようであれば、軍を派遣して本格的に鎮圧行動に移す必要もでてくるかもしれないからだ。州兵だけでの対応も厳しくなってくるだろう。干涸州は重要な拠点。私としてもこの地への対応に憂慮しているのだ」
「ええ、ええ。主上の懸念は十分に理解できますし、我々に対するご厚情にも大変感謝いたします。これ以上向こうからの介入が続けば、我々の軍では対応が難しくなるでしょうし、いただいている予算の再計算や、国軍の派遣も必要となるでしょう。そのための視察ということはこちらとしても十分理解いたしております」
わざとらしく沈痛な表情を作っている。
「ですが、主上。どうかご理解いただきたいのです。何も理由もなしに視察を拒んでいるのではございません。我々は、臣下としてこの国で最も貴き方の身の安全を第一に考えて行動しなければなりません。かの地は断続的に北方民族より攻撃を受けております。わが軍が命がけでその侵入を防いでおります。数日かの地から砲撃がなかったとしても、その翌日も何も起こらないとは限らないのです。万が一御身に取り返しのつかないことが起こっては遅いのです。どうぞご理解賜りたく……」
「もちろん、お前たちが私の身の安全を考慮してくれていることは重々承知の上だが、それでも統治者として久族の働きをこの目で見ておく必要があると考えている。決してお前たちの邪魔になるような真似はしないし、前線を乱すようなこともするつもりはない。二度断られていることではあるが、もう一度考え直して欲しい」
ここで引き下がるわけにはいかない。こちらが本気であることを見せるために、視線を逸らさずまっすぐに言う。聞き分けのない小さい子を諭すような、こちらを侮ったような大毅の表情に変化はないが、考えを巡らせているのだろう。返事まで一時の間があった。
すると、扉が叩かれて、取次の者が一人姿勢を低くして入室してきた。私に許可を求めると、足早に延大毅の側に来てそっと耳打ちをする。二言三言やり取りしたのち、一瞬驚愕の表情を浮かべた大毅が小声で幾度も確認するような素振りをした。
それから取次の男が退室し、延大毅がしばらく何やら考え事をしている風にみえたが、此方に向き直ると非礼を詫びて言葉を続けた。
「畏まりました。それほどまでの主上が私どものことを考えてくださっているのに、そのお心遣いを無下にすることなどできようはずもございません。なんとか手筈を整えましょう。ただし、日程につきましてはこちらの提案に従っていただきたいと思います。よろしいでしょうか」
「もちろんだ」
「それから、安全確保のためにどれだけ人員が必要か等、じっくり考える暇をいただきたく」
態度も内容も先ほどまでとは一転した。
「異論はない。そちらに万事任せよう。こちらからも人員は十分に割く心積もりだ。できるだけ、延家の負担にならないよう、必要なものがあれば申し出てくれ。できる限り対応しよう」
「承知しました」
そう言って、大毅がにやりと笑った。
何か下心があるのだろうが、私としてはやっかいな問題を先に片付けることができただけで十分だった。この視察こそが、今回の旅の私の一番の目的だったからだ。
延大毅は興奮しているらしく、最近の干涸州の様子と、自分の未来予想図を延々話し続けた。私はただ相槌を打ってその日の食事が終わるまでの時間を無為に過ごした。
用意された部屋に戻ると丸一日歩き続けたかのような疲れが、どっと襲ってくるのを感じながら、そっと深く息をついた。
明日のことを思うと、更に気持ちが沈んでいくのを感じた。
皇帝の寵愛 たろう @under_sorrow
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