ゴロンド

宇苅つい

ゴロンド

■■1


 義兄から電話がかかってくる。それは朝十時のこともあればお昼の三時のこともあり、はたまた夕方の時もある。外回りの仕事だと言うから時間の融通がきくのだろうか、それとも余程暇なのかそれほど腹に据えかねているのか。話してくる内容は毎度のこと姉に関するグチである。ちっとも掃除がなってないだとか、料理が美味しくないだとか、そもそも市販のお総菜ばかりで料理自体を作らないのだとか、アイロンすらかけないのだなどなど。姉の性格は知っているので義兄の言葉のおおよそは真実だろうと思われる。にしてもだ。分からないのは、そのグチのはけ口がなぜ私なのか、だ。姉とは八つ離れている。私が小学生の時に姉は東京の大学を受験してそのまま戻らず、ずっとあちらで暮らしている。子どもの頃から年の差がありすぎて言葉を交わせた記憶も薄い姉への文句を言われても、「はぁ、そうなんですか」と応えるしか私には術がない。適当な相槌を打ちつつ壁に貼ったカレンダーを見る。来週末に大きな赤丸。一人息子の直弘が付けたものだ。彼は高三にもなって未だに誕生日を主張する。ステーキとか大きなハンバーグとか、とにかくおなかいっぱい肉を食べさせろというアピール。我が家は老父母が同居していることもあって和食の献立が多い。


 姉とは八つ違いだが、直弘は姉の下の子と同い年で受験生。上の子が就職戦線真っ最中。姉は子育て中も今も私と違ってずっと働いてきた人だし、家事の手は自ずと疎かになることもあろう。そんな毎度の取りなしをすれば、義兄は「それはそうだけどね」とくる。あーあ、お昼ご飯はなににしようかな。お父さんがゴルフに行ってるから簡単にうどんか蕎麦。えーっと、小葱はまだあったかしら? 携帯電話を持ったまま冷蔵庫を覗きに行く。あった、あった。「そもそも光子って奴は……」グチはまだ続いている。私の方が「義兄って奴は」と言ってやりたい。そういうグチは自分の親兄弟なり同僚なりにこぼせばいいんじゃないのか。姉の悪口をさんざっぱらこぼされても実の妹の私としては、やはりなんとなく心中で姉の肩を持ってしまう。それが血の濃さというものだろう。せめてうちの父や母に「苦言をお願いします」というなら理解もしようが、そちらの方には「内密に」という。更に訳が分らない。私にも内密路線でお願いしたいんだけどなぁ。

「だってさ、逸子ちゃん、もう光子は夜の誘いにも応じてくれないんだぜ。俺達夫婦として終わってるんだよ」

 思いきり吹き出してしまった。なにをほざいているのだ、この義兄は。一回りも年の離れた義理の妹に何をどうして欲しいのか。私が今年四十五で、つまり義兄は六十にそろそろ手が届かんとしているくせして(確かそのくらいだったはず)新婚夫婦のお悩み相談じゃあるまいし。

 私が笑い続けているので気分を害したのかもしれない。義兄はなにかおざなりの挨拶を言って電話を切った。


「いっちゃん、電話だったの?」

 母が部屋から声を掛けてくる。

「ん、お義兄さんから。悠人くんの就職、やっぱりタイヘンだって」

 当たり障りのない返事を返しつつ、掃除機を引っ張り出す。午前中に買い物まで済ませてしまうつもりだったのに、いらぬ時間を食ってしまった。

「お母さん、掃除の曲おねがーい」

 しばらくするとトルコ行進曲が聞こえ始める。母の部屋のステレオは父が結婚記念日に贈った自慢の品だ。だからとても音がいい。古いステレオだが古いから良い。最近の家電品は夫のパソコンも息子のCDデッキもすぐに壊れてしまうからイヤだ。チャララルラ、チャララリラ、タリリラルラリラルラリラルー、タンタンタラリラリラルラタリリラル-。私はこの曲を聴くと、無条件に掃除にやる気を出したくなってしまう。だからこの曲は「掃除の曲」である。曲のハイテンポに合わせて手早く化学雑巾で棚や電化製品の埃を拭き取り、掃除機を引き回す頃には掃除機の音で肝心の曲は聞こえなくなるが、その頃には自分が鼻唄で歌っている。タッカターンターン、タリラリラリラルワ-、タカタカターン、ターン。


 二階、納戸、父の書斎、居間、台所、家中を一巡りして最後に母の部屋へ。私が掃除をしている時、母はいつもベッドの上に移動して膝を抱えて丸まっている。母は目が見えない。だから邪魔にならないようにいつもそうしていてくれる。体型の細い母がそうしているとシングルベッドが広く見える。直弘が大の字になって寝転んでいるのとはえらい違いだ。カカシのぬいぐるみ(そんなものは見たことがないが)がちょこんと座っている感じ。細い首がちょっと俯き加減なのもぬいぐるみ的なくったり感がある。目が悪くなって長い所為かどこか母は少女っぽい。今も木のおもちゃを手慰みにしている。それは木の小箱で中には迷路のような細かい仕切りがついていて、パチンコ玉が一つ入っている。そして透明なプラスチックのフタで玉が飛び出さないように閉じられている。迷路の先には穴が開いていて、小箱の中でパチンコ玉はころころと転がり、うまく迷路を辿っていくと、ことんと二重底の穴の下に落ちる仕組みだ。母のお気に入りの箱である。玉が木肌を滑っていく微かな振動や板に当る跳ね返りの感触。そして、玉が穴に落ちたときの「ことん」がとても心地よいのだそうだ。このおもちゃの正式名称は知らない。家族は「お母さんの(またはお婆ちゃんの)ころころ箱」と呼んでいる。ステレオはベッドのとなりにある。スピーカーが大きいのでなかなかの存在感である。

 大体四分間のトルコ行進曲が七、八回めの繰り返しになる頃にお掃除は終わる。曲を止め、掃除のために動かした安楽椅子を所定の位置に戻して、私はその椅子に座る。ゆらりゆらりと椅子が揺れる。正面の窓から差す光が眩しい。この部屋の南向きの窓は天上近くまで高くて大きい。家を改築する時に、父と理学療法士である夫との意見でそうなった。目の見えない、光を感じない母だからこそ、全身で肌で光を感じて欲しいから、と。


「ねぇ、お母さん」

「なぁに?」

「お姉ちゃん、別れないねぇ、お義兄さんと」

 大学卒業と同時に結婚した私と違い、姉は同棲生活が長かった。その末のできちゃった結婚で、その姉の臨月中に義兄の浮気騒動があった。姉の怒りは相当なもので、「別れる。別れるから。子どもは私一人でも立派に育ててみせるから」と言い通しだった。飛んできた義兄が平手をついて謝っても、私や父が取りなしても頑として聞き入れようとはしなかった。その時、母がこの安楽椅子に揺られながら、

「じゃあね、みっちゃん。もうずっとここにいるといいわ。お母さんだって子守のお手伝いくらいできるわよ、大丈夫。心配いらないわ」

 ゆらりゆらりと言ったのだ。姉はぐっと押し黙った。そうして何故か、元の鞘に収まってしまった。その後は「子どもの手が掛からなくなったら別れる」と言いつつ二人目を作り、四の五の言いながらもなぁなぁのまま現在に至っている。最近の姉の口癖は「子どもがどっちも就職したら別れる」で、多分そのうち「子どもが結婚したら」に切り変わっていくのだろう。

「別れたくて別れるものでもないでしょ、夫婦なんて」

 母がころころ箱を傾けながら応える。母は髪留めのフックを手の中でカチカチはめたり外したり、あと、お皿なんかを包むビニールの気泡が沢山ついたアレも好きだ。たまに手に入ってそれを渡すと、一列ずつ順番にとても丁寧にぷちぷちしている。

「じゃあ、どうして夫婦って別れるの?」

「別れざるをえないからよ。決まってるでしょ」

「なら、お姉ちゃんも私も別れざるをえなくないから別れてないのかしら?」

「あらぁ、いっちゃんは弘也さんと別れたいの?」

 驚いたような声で言われて、何気なく出てしまった自分の言葉を反芻する。弘也さんは元々母の介護ボランティアに来てくれていた学生だった。小学六年生の時からずっと知り合いの「お兄さん」が時を経て「ダンナさん」になった。ころころ箱の中をゆっくりと転がるように私は成長し、そうして用意された穴にことんと落ちた、収まるべきところにすぽんとはまった。そんな感じ。年が離れていることはあまり問題に思わなかった。弘也さんがクリスチャンだったので結婚するとき、私も洗礼を受けてクリスチャンネームを貰ったが、名字が変わることよりもそちらの方がずっと不思議な感じがした。結婚して外人になっちゃった、みたいな。


 最初からうちの親との同居も当たり前のように考えてくれる(弘也さんは三男坊)優しく敬虔なる夫である。弘也さんと別れたいかというと、姉と違って全然別れたいなんて思わない。息子だっているのだし。でも、別れざるをえなくないから別れたいとは思わないのだ、というよう風に言い換えることができるような気がしないでもない。じゃあ、別れざるをえない夫婦の事情ってなんだろうか。愛情の枯渇だろうか、経済の問題だろうか、別に愛する人ができるとか、家庭内暴力とか、性格の不一致とか、家族間のいざこざとか。本当に夫婦が別れる事情というのは、実はそういうありふれたものじゃあないような気がする。ふとある朝目覚めると、朝の日差しが眩しすぎてとか、ことんと別の穴に落ちてしまったからだとか。そんな小さなほんの些細な何気ない、なにか。きっとそうじゃあないだろうか。ありふれた事情でゴネあっているからこそ、姉夫婦は破綻していない。母の持つ小箱がことんと微かな音を立てた。


「お母さん、私、午後からちょっと出掛けてくるけど、いい?」

「ええ、いってらっしゃい。新田君と会うんでしょ? 新田君も大きくなってるんでしょうね」

「やぁだ、お母さんったら。同級生だもの。私と同じ歳よ、もうおじさんよ」

「そうなのねぇ。でも、お母さんはいっちゃんと遊んでた頃の新田君しか印象がないんだもの」

 いっちゃんも、小学生のいっちゃんの顔しか知らないしね。

 母はそう言って、そっと私に手を伸ばしてきた。その手を私の頬に触れさせる。最近めっきりしわの増えた手を持つ母は、私の髪に白髪が混じり始めたことも見えてはいない。


■■2


 この喫茶店は私が指定した。駅前の整骨院の角を曲がってすぐのところにある小さく薄暗い昔風の、つまりは流行らない喫茶店だ。いわゆる名曲喫茶とでもいうのか、店内には低くクラシック音楽が流れている。さっき、『エリーゼのために』が流れているとき新田君がやって来た。今は『田園』が流れていて、新田君はポストカードのような小さな印字のメニューをじっくりと吟味してから、「やっぱりコーヒー」とメニューの一番上を指差した。ウェイトレスが軽く頷いて去って行く。

「やっぱりってなによ? やっぱりって」

「こういう場所ではやっぱり必ずコーヒーだろうなと思ったんだ」

「べつに紅茶でもココアでもいいんじゃない?」

 そう言う私の前にもコーヒーがあって、私はろくにメニューも確かめずに椅子に座りしな注文したのだ。こういう場所ではやっぱりコーヒー、というのは言い得て妙かもしれなかった。特に、小学校時代のクラスメイトに突然呼び出されるような場合には。


 電話があったのは一昨日のことである。

「お母さんに電話。新田って人」

 皿を洗う手を止めて、「テレビの音、ちょっと小さくして」と息子に注意しながら受話器を取った。

「突然でごめん。俺、新田だけど、覚えてる?」

 耳慣れぬ声だったが、名字からは色白の少年の顔がふわりと浮かんだ。

「ザリガニの新田君」

「俺は甲殻類か」

「ザリガニ茹でた新田君」

「そうそう、それで喰って、一人だけ蕁麻疹出したその新田だよ!」

 ふっふっふ。懐かしい思い出し笑い。受話器の向こうからも忍び笑う声が聞こえた。

「それで、その新田君がどうしたの?」

「本の整理をしていて、借りていた本が出てきたんだ」

 懐かしくてさ。……会えないかな? 本、返したいんだ。

「えぇ?」

 とくんとした。息子の観ているテレビ画面に目を泳がせる。お笑い上がりの司会者が若いタレントの頭を叩いている。


 「お久しぶり」、「元気にしてた?」、「前に会ったのが同窓会だから二十五年ぶり?」「違う、スーパーで声掛けたことがあっただろ」、「ああ、そうか」、「電話に出たのはあの時の子ども? もう大きくなったんだろうな」、「そうよ、もう高校生よ。受験生」

 新田君のコーヒーが運ばれてくる頃にはそういう月並みな挨拶の一通りはすんでいた。会う前には少し緊張していたが、会ってみると、彼は小学校時代の『新田君』を彷彿とさせた。よく勉強のできる男の子だったのに、所謂優等生っぽくはなかった。春の暢気な日差しの中で時折川面がキラリキラリと輝く感じ。なにしろ『ザリガニの新田君』である。


 放課後にみんなで川でザリガニ捕りをしたことがあった。青いバケツにいっぱい捕れた薄茶色の手の平に載るくらいの小さなザリガニをつつきながら新田君は突然、

「これ、茹でたらエビみたいに赤くなるのかな?」

 なんて言いだしたのだ。エビやカニは甲殻類で茹でると赤くなるけれど、こいつらでも赤くなるかな? と。

 そうして、「実験してみよう」と言うのだ。

 空き缶と水と石ころが集められた。川から家の近かった新田君が父親のライターと新聞紙を失敬してきた。

「火遊びなんかじゃないよ。これは理科の勉強だよ。大実験だ!」

 そんな新田君の号令で空き缶の下に敷かれたくしゃくしゃの新聞紙に火が点火されたが、果たして缶の中のザリガニは変わらずぷかぷかと太平楽に泳いでいた。新聞紙に火がついてもすぐに燃え尽きて消えてしまうのだ。缶の中の水を沸騰させるほどの火力がいかんせん足りないのだった。かといって、新聞紙の量を増やそうと固くくしゃくしゃに丸めてしまうと、そんな新聞紙には容易に火がつかなかった。

「ちっとも煮えないよ。缶すら熱くなってない。チクショー、大実験なのに!」

 落胆する新田君の雄叫びが思い出される。


 そんな昔を思いながらコーヒーを啜っている。新田君もそうだろう。

「子ども一人だっけ?」

「そう。そっちはまだ独身?」

「うん」

 独り身なのは知っていた。同じ小学校に通った者同士、つまりは狭い地域社会にお互いずっと住んでいるのだ。そういう噂話はどこからともなく伝わってくるものだ。しかも四十を過ぎても結婚できないなんて深く意味を追求しない軽い中傷の噂ほど。新田君の噂は時々耳に入ってくる。新田君自身と言うよりは新田君のお母さんの噂だ。いつまで経っても一人息子にべったりで、新田君にお見合いの話があっても「そんな人、ダメよ」と即座に断ってしまうという。「息子さん本人に引き合わせようともしないのよ。そのくせに、『どこかに良い人いないかしら』っていつも相手を探してるの」と、一度頼まれてお相手の紹介をしたらしい同級生のお母さんからスーパーでの立ち話でそんなことを聞いた。

 「自分の息子が一人息子だから一人っ子のお嬢さんはダメ」だとか当然みたいに言うそうだ。「一番奮ってたのはね」とそのおばさんは声をひそめて教えてくれた。

「すごくいいお嬢さんがいて、本人同士も乗り気みたいで。でもその人ご実家が沖縄だったのね。そうしたら、『そんなに遠くに実家がある人と結婚しても上手くやっていける筈がない』ってあの人猛反対したんですって。『方言や慣習だって違うんだから』って。どう思う?」

 その時、私はなんて答えただろう。小学生の頃、新田君の家にはみんなで遊びにいったことがある。新田君のお母さんは私に、「早坂さんはタイヘンねぇ。お母さんの目が悪くちゃあご飯だって作って貰えないんでしょ。栄養のあるものちゃんと食べてる?」と聞いた。「洋服のボタン、とれてるじゃない」と目聡く見つけられた。ボタンはその日、遊んでいてとれたもので、ちゃんとポケットに入れて持っていた。私は家に帰ってから、自分でボタン付けをした。この辺、あまりいい思い出とは言えない。


 でも、さっき「うん」と頷かれたときに、彼の引かれた細い顎のラインに三十数年前のまだ小学五年生だった少年を見いだした私は、ふっとそこで時が一瞬途切れたような妙なぎこちなさを感じた。

「慣習ってやっぱり大事かなぁ。そんなの、私、自分が結婚する時に思いつきもしなかったなぁ」 唐突にそう言ってみたくなった。

「うちの主人、家も市内なのよ。だから、そういうのって気にしたことないんだけど、お正月のお雑煮の味一つでも地方でいろいろ違うんだよね、味噌味とかお出しとか」

 そんな風にやにわに変な話の振り方をしても、今ここに居る新田君は穏やかな目をして相槌を打ってくれそうな気がする。きっと、彼はこう返すだろう。「餅は丸か四角かとか。大問題かもね」なんて。新田君にはお母さんの反対を押し切ってまでも誰かと一緒になりたい熱意や情熱がなかったのかもしれない。あるいは、そうまでしてお母さんと別れざるをえない理由がなかったのかもしれない。


 中年歴も堂に入った年代だというのに新田君はスリムだった。着ているものも独身の所為だろうか、おじさん臭さが感じられない。おなか周りもたっぷりめになって貫禄のついてきた私とはえらい違いだった。あまり格好を付けてもだの、それでも少しはだのと考えあぐねて着てきた淡いピンクの上着が急にやぼったいものに思えてきた。もっと髪型にも注意を払えば良かった。来月ならばパーマを当てに行くつもりだったのに。


 いつの間にか曲は『月光』に変わっていた。この喫茶店はベートーベンが好きなのだろうか?

「なに?」

 私の宙に浮いた眼差しに気づいたのか、新田君が訊いてくる。

「曲がね、ずっとベートーベンなの。ここ、店名はショパンなのにって思ってちょっと」

「今、流れてるのがベートーベン? そういうの詳しいんだ」

「さっきのが『田園』。これは『月光』。聴いたことあるでしょ?」

「聴いたことはあるけど、タイトルまではなぁ。ピアノとかやってたっけ? 早坂は。あ、今は菅井サンか」

 二十二才で結婚したので早坂を名乗っていた時代を菅井姓が既に追い越している。早坂と今更呼ばれる自分に違和感がある。だからといって、新田君からの新しい呼び方もどこか奇妙な感じがする。ベートーベンばかり流すショパンみたいに。

「ピアノは習っていないけど、ウチは母がクラシック曲をずっと聴いている人だったから、自然と詳しくなっちゃったのよ」

「ああ、そうか」

「そうなのよ」

 納得したような新田君に軽く頷いてみせる。薄いカーテンの引かれた窓の外を見る。午後三時の外の日差しは店内と違って嘘っこみたいに明るい。


■■3


 母がクラシック曲を愛するようになったのは目が悪くなってからだ。私が小学三年生の時に二つ下の弟が死んで、母は泣いて泣いて、そのうち視野が狭くなっていった。緑内障だった。弟の看病で自覚と治療が遅れたことも一因だが、なによりも弟の死のストレスが母を失明させたのだろうと私はそう思っている。父は気丈に、そして穏やかに家族を支え続けたが、まだ幼かった私にはやるせない日々だった。姉は小さいときから東京に出るのが夢で、その為の勉強も怠らなかった。弟の死は元より母の失明すら姉の熱意を変えさせたりはしなかった。姉は第一志望の大学に受かるとあっさりと東京へ行ってしまった。父母も止めたりはしなかったようだ。親戚のおばさん(母の姉)だけが「なにもそんな遠くにやらなくても。九州で生まれた者は九州に居るのが一番良いのに」と言っていた。そのおばさんや福祉の人が手伝いに来てくれる日も会ったが、母にはいつも傍にいる私の手助けがなによりも必要だった。だから、五年生の頃には大概の家事は手伝えるようになっていて……。それで私はあの日どうしてもザリガニを茹でてみたいらしい新田君にこう訊いたのだ。

「ウチの台所で茹でてみる?」 って。


 みんなで青いバケツをかかえてウチに向かった。母には「理科の実験の宿題をみんなでやるの」と説明した。母は見えない目でにこにこしていた。きっとあの日の母の傍らに置かれたステレオからも何某かのクラシック曲が流れていたことだろう。

 うちにあがってきたみんなは母の前でおずおずしていた。母の目の見えないことがみんなの勝手を狂わせるらしい。佐々木君という子がハンカチを取り出そうとして、一緒にポケットに入れていたらしいビー玉を落とした。五、六個のビー玉が跳ねて転がった。

 「一番大事にしてる大玉がない!」と辺りをきょろきょろする佐々木君に母は静かに言ったのだ。すっと指を差して、

「あっちの方、カーテンの陰じゃないかしら。一つ転がっていく音がしたから。探してみて」

 ビー玉が見つかって安堵する佐々木君やみんなを連れて台所に行った。ザリガニを茹でるんだとは流石に正直に言わなかったが、母には見えていないので問題はなかった。

「早坂のお母さんってさ」

 新田君がぽつりと言った。

「目の悪いおばさんかと思ってたけど、それはつまり、もの凄く耳の良いおばさんなんだな」


 ミルクパンにザリガニを入れて私達はガスレンジに火を点けた。ごくりと誰かが喉を鳴らした。新田君を中心にみんなでじっと覗き込んでいるミルクパンの中、水は川原の実験とは違いすぐにふつふつと泡立ち沸騰を始め、そして。……ザリガニは茹で上がったのだ。赤く。鮮やかに赤く。上がった歓声。新田君の満足そうな笑顔。新田君の言葉も。忘れられない。


「菅井はさ、なんか年上に見えたよな。勉強もできたし」

「えぇ、そんなことないない。新田君の方がずっと頭良かったじゃない」

「本も沢山読んでたし、背も高かった」

「ちょうどあの年頃って女の子の方が男の子より先に成長期になって、それで大きい気がしたんでしょう」

 ひょろひょろ背が伸びた頃だった。でも、中学くらいから男の子達がにょきにょきぐんぐん女の子の背丈を追い越していって。今の私はどちらかというと小柄な部類だ。

「菅井はさ、学校の授業で何が一番好きだった?」

「えぇーっとねぇ、どれも嫌いだった。宿題もサボる悪い小学生だった」

 あれー、そうだっけー? と理科と算数が得意だった新田君が言う。

「私の一番好きだった時間はね、……ちょっと新田君、笑わない?」

「なんだよ?」

 笑いながらコーヒーを飲む。

「私はねぇ、掃除の時間が好きだったの」

「あー、なんで? メンド臭かっただけだろ、あんなの? トイレ掃除とかキタネーし」

「ううん。私はあの時間が一番楽しかった」


 家では、例えば電器コードとか椅子の位置とか、一つ一つを目の見えない母のために必ず決まった場所に置かなければならなかった。そうでないと母がつまずいて転んでしまうから。必要なものが見つからずに困ってしまうから。マグカップやスプーンの置き場所、その一つ一つにさえ注意を払わねばならなかった。だから家の掃除の手伝いは嫌いだったが、反対に学校の掃除は楽しかった。開放感があった。私は勉強が嫌いだったし、体育も図工も音楽だって不得意で、ようするに劣等生だった。宿題も時々忘れたふりをしているような、ちょっと悪い子どもだった。父も母も先生さえそのことで私に文句を付けたりしなかったのは、やっぱり母の目のことで一般家庭とは違っていたから。私はその上に胡座をかいていたかもしれない。新田君は中学から進学校の私立に行った。私は地元の中学だった。私は確かに家の事情で他の子より大人びて見える一面があったのかもしれないけれど、勉強は本当にからっきしだったのだ。新田君は勘違いをしている。本は他の子よりも沢山読んでいたけれど。国語の成績だけはその所為か他よりまともだったのだけど。母が勉強に関しては特別何も言わず、「本を読みなさい」とだけ言い続けていたからだと思う。そして、「どんな本でも構わないから読んだ本の話を聞かせて」と言うのだ。


 教室の掃除の時には最初に机と椅子を全部教壇の反対側に押しやってからほうきで掃くのが決まりだったが、その机と椅子を一度期にどれだけ押していけるか、そんな力比べをしたりした。私は最高で五脚の机と椅子を一度に押したことがある。勢いを付けすぎて一番奥の机がガターンと大きな音を立ててひっくり返った。でも、みんな笑っていた。そんな大きな音をたてるのは母がびっくりしてしまうから家では絶対にできないことだった。

 廊下の掃除当番の時には、ウチの小学校の廊下はコンクリートだったので、雑巾を水に濡らして余り強く絞らずに、それを丸めてはんこの要領で渦巻き型を幾つも幾つも押して遊んだ。その速さを競争した。ちっともお掃除になってはいなかった。楽しい楽しい遊びの時間。掃除時間の終りには廊下中に渦巻き模様が並んでいた。

 極めつけのワックス掛けの日にはお決まりのようにみんなですべりっこをして楽しんだ。「ちゃんとお掃除しなさい」と担任の先生に叱られる時もあったけれど、学校の掃除はいつもとても楽しかった。


「そんなに楽しかったっけ? 掃除が? 休み時間のドッチボールとかじゃなくて?」

「楽しかったよぉ。トイレ掃除の時もホースで水を飛ばして、その飛沫がかかった人に『エンガチョ』とか。それに、ほら、石堀り。覚えてない?」

 途端に新田君の顔が輝く。

「ああ、あれかぁ!」

 二人で同時に言う。

「ゴロンド!」


■■4


 校庭の掃除当番だった時のことだ。私達五年生は「石拾い」の担当だった。校庭のトラックなんかに落ちている石ころを一つ一つ拾っては集めて土手の端に持っていくのだ。単調な作業でこれは他の掃除区域と比べてあまり面白くなかった。走り回って遊んでいたりするとすぐに先生に見つかって怒られるし。しかも毎日毎日作業を繰りかえすうちに、目につくような大きな石は当然ながらなくなっていく。そのうち、小さな石さえあまり見つけられなくなってきた。それならそれで別の草取りとかそういう指示を先生が出してくれると良かったのだろうけど、私達グループの掃除はあくまで「石を取ること」だった。小さな石でも平たいものや色の変わっているのや、きれいな三角形の石。そういう石を探してはみんなで見せっこし合うようになると、私達はにわかに石拾いに執着し始めた。そしてとある発見をするのだ。

 つまり、ちょっとしか見えていないような土に埋もれている石が、掘ってみると意外と大きいのだという発見を。


 一人の子がほんのちょっと地面から覗いているような石を穿りだしてそれが握り拳大ほどもあったものだから、そこから俄然私達の石堀作業はヒートアップしていった。私達は目を皿のようにして隠れた「お宝」を探して校庭中を歩き回った。

 そして、あれは誰だったか、校庭の端っこでもの凄い大物を見つけたのだ。棒で周りを掘っていくと、どんどん下に横に石が広がる。到底二日や三日ではその石は掘り出せやしなかった。最後はグループの全員がその石一つにかじり付きになった。棒きれや尖った石やそれぞれ道具を持ちよって大石を掘り出すのに夢中になった。きっと一週間がかりくらいだったろう。底が見えるほど掘り進み、新田君がゴミ捨て場から拾ってきた数枚の大きな板きれをてこにしてようやっとそれを掘り起こした時、その石が地面にどんとその存在感を表した時、みんなが改めてその大きさに驚嘆した。大人でも二、三人がかりじゃないと、その人数でも転がさないととても運べないような、大人が膝を抱えて丸まったくらいのそれは大石だったのである。元はほんのちょっと、二センチくらいしか地面から見えていなかった小さな石に思えたそれが土の下にそんな大きさを隠していた。それは掘り起こした後も歴然と分かった。だって、土の中に隠れていた部分に付着している土は表に出ていた部分の色と明らかに土の色の黒さが違って湿っていたから。


 みんなの手はどろんこだったけど、大物を仕留めた漁師のような達成感に酔いしれたものだ。

「でっかいなー」

「やったね、やったね」

「オレらすごい」

「これ、持てないよ。どうやって土手まで運ぶ?」

「待て待て、まずは大きさを測ろう。高さは僕のここくらい」

 と、新田君が自分の腰の高さより高い位置に手を当てる。

「横はどうかな」

 跪いて石に抱きつこうとする新田君を「服が汚れるよ」とみんなが止めたけど、彼はそんな事お構いなしだった。頬まで泥で汚しながら石を両手で抱え込む。

「わー、ぜんぜん手が届かない。ねぇねぇ、誰か見てくれよ。どのくらい僕の手離れてる? 身長と両手を広げた長さはほぼいっしょなんだ。何センチくらい離れてる?」

 片頬をぎゅーっと石に押しつけて上目遣いに訊いてくる。

「十センチくらい?」

「もっとあるよ、二十センチくらい」

「なるべく正確に言ってくれよー」

 新田君の石を抱いた指がピンと伸ばされる。


「新田君、代わって。私も石抱いてみたい」

 そう言ってしまったのは、どこまでも正確さに拘る新田君に協力したくなったからで、どろんこの服で私が家に帰っても母にはどうせ分からないからで、そして、みんなで掘り出したこの石がとても愛しいものに思えてきたからだった。

 そっと石に抱きついてみる。ぷんと湿った土の臭いがする。頬が冷たい。ざらりとした土の感触とその下の固い固い石の存在感。私は思いっきり手を伸ばした。しっかりと石を両の手で包み込む。ぎりぎりまで石を締め付けるように抱きついたら。中指と中指がちょんと触れた。

「さっき、新田君の言ってたとおりなら私の身長は……」


 何センチだっただろう。思い出せないけれど、石を全身で抱きしめたあの感触は今でも懐かしく思い出せる。


 掘り起こしたものの、土手までは子どもの力では到底運べそうにないので、私達は先生を呼びに行った。誇らしい気持ちで先生に石を見せたのに、先生の言葉は冷たかった。

「おまえらなぁ、こんなの掘り出すんじゃないよ、まったく。校庭にこんな大穴が開いていたら、それこそ危ないじゃないか」

 すぐに元に戻せ、埋め直せと言われたのだ。大人になった今思えば、先生の言葉は至極尤もで笑ってしまうのだけど、その時は本当に裏切られたような気がしたものだ。「教育ってナニ?」と空に向かって叫んでやりたいような。


「石拾えって先生が言うからやったのにねぇ」

「こんなに大きいの他のクラスの子は取ってないのにねぇ」

「オレら頑張ったのになぁ」

 石を囲んでみんなで顔を見合わせる。

「埋め戻さなきゃなんだ」

「やっと掘り出したのにな」

「元通りにしないと、先生あとで見に来るって言ってたよ。また叱られちゃう」

 自然、みんなの口が尖る。あーあ、意気消沈。


「なぁ、名前付けよう」

 じっと石を見下ろしていた新田君が言った。

「これは僕らが見つけたきっとこの校庭で一番大きい石だ。僕らの石だ」

 だから記念に名前を付けよう。そして埋めよう。

 大きくてごつごつしているから「ゴジラ」、大きいから「デカちゃん」、他にもいろんな名前が出た。

「なぁ、早坂、良い名前ない?」

「え、私?」

「早坂はいっぱい本を読むから良い名前つけそう」

 新田君に言われて考えた。ちょっと前に読んだドラゴンの卵が孵るお話。石は楕円型に大きくて、私にはドラゴンの卵に見えた。

「……ゴロンド」

「え?」

 ドラゴンは羽が小さくて飛べない。いつも泣いているドラゴン。でも、最後には立派な羽に生え替わって大空に飛んでいくドラゴン。その名前がゴロンゴだった。それをもじって、

「ごろんとどでかいから『ゴロンド』」


 みんなでゴロンドに手を置いた。「ゴロンド」と声を掛けた。

「さよなら、ゴロンド」

 石を埋める時、哀しくなった。折角息をさせたものの息の根を止めてしまうようだった。折角こんなに大きいのに、埋められてしまったら、もう私達以外の誰もゴロンドがこんなに大きいなんて気づかない。


「良い名前だったよな。菅井はセンスが良いんだな。今でも覚えてるもんな」

「ふふ」

 その後で、ドラゴンの本を新田君に貸してあげた。新田君は「泣けたー」とひと言感想を言って返してくれた。

 ゴロンドを埋め直してからもしばらく私達は休み時間や体育の授業の時、ゴロンドを見に行った。新田君はその度に木の棒で小さくなったゴロンドの周りに円を描いて矢印を付けて「ゴロンド」と書いていた。


「石を戻すあの時だけはいつも大好きな掃除の曲が嫌いになっちゃいそうだったな。早く埋めろ、早く埋めろって急かされてるみたいで」

「掃除の曲?」

「『トルコ行進曲』よ。いつも掃除の時間に掛かっていたでしょう? 私、その刷り込みの所為か、今でもお掃除の時にその曲掛けちゃうのよ。なんだかきびきびからだが動く気がするから」

 新田君が首を捻る。

「んー、曲とか鳴ってたっけ? 覚えてないなぁ」

「あの……」

 私は通りかかったウェイトレスを呼び止める。

「トルコ行進曲、掛けて貰えませんか?」

「は?」

 意思の疎通にもたついたが、ウェイトレスがマスターに尋ねに行ってくれる。すぐに戻ってきた。

「有線だからムリだそうです。すみません」

 ああ、そうか。ここ名曲喫茶ってわけじゃないのか。がっかりする。新田君とトルコ行進曲を聴きたかった。掃除の曲、あのメロディ-、あの時間を一緒に思いだして欲しかった。


「もう一度タイトル言って」

「え?」

「だからさっきの掃除の曲のタイトル!」

 新田君はポケットから携帯を取り出すと何か操作し始める。そして携帯をテーブルの中央に置いた。

「あ……」

「コレだろ? 最近はネット経由で曲聴けるんだよ。携帯からでも」

 チャララルラ、チャララリラ、タリリラルラリラルラリラルー、タンタンタラリラリラルラタリリラル-。

 そういえば、息子が「ダウンロードで曲買った」とか言っている時があったような。どうだ、と言わんばかりの得意げな新田君の顔はザリガニが赤く茹で上がった時の小さな新田君と同じ顔だった。彼が二人分の珈琲のお代わりを注文する。私達はしばらくコーヒーの香りと低く流れる「掃除の曲」を楽しんだ。


■■5


「ああ、忘れるところだった」

 肝心の本。そう言って紙袋に入れた本が差し出される。

「ずっと借りっぱなしでゴメンな」

 ゴロンド以降、新田君とは沢山の本の貸し借りをした。なんの本を貸したままだったんだろう。渡された袋を開けてみる。出てきたのは小松左京の『エスパイ』だった。

「うわー、懐かしい」

 昔、『日本沈没』というテレビドラマが流行った。文字通り日本が沈没する話だ。巨大地震が起きて四国を皮切りに次々と列島が海中に水没していく。私達の住む九州だってもちろん沈む。怖いドラマだったけど面白かった。私は「大人になったら絶対にヘリコプターを買うんだ」と心に誓った。ヘリコプターがあれば家族を連れてどこへでも逃げられる。操縦免許は姉が持っているのだ。姉はマイクのついたヘルメットを被っていて救助隊みたいなつなぎを着ていて、操縦席から私に声を掛ける。カッコイイのだ。「いっちゃん、さぁ、乗って!」私は母の手を引いて命からがらヘリに乗り込む。後部座席ではお父さんがほっと息をつきながら、「逸子がヘリを買っていてくれて助かった」と言う。眼下に水没していく町が見える。これは当時見た夢である。

 この著者が小松左京で、それで私はこの『エスパイ』を買ったのだった。エスパー(超能力者)のスパイ達が敵のエスパー部隊と闘う話。エスパー+スパイで『エスパイ』。当時の私にはちょっと難しくはあったが映画の007みたいなもので、読んで読めないことはなかった。サイコキネシスやテレパシーという言葉もこの本で覚えた。


「あのさ、この本、借りっぱなしになってたのはさ」

 覚えてないかな-、借りて、読んで、俺が言った感想。と新田君が言う。私は覚えていなかった。

「『あの本って早坂のお父さんの本?』って俺訊いちゃったんだよね。そしたら、『違うよ。私が買った私の本だよ。どうして?』って聞き返されちゃって、俺、すごい困っちゃって」

「えぇ、なんで?」

「そう。その顔。まさにそういう『意味わかんなーい』って顔で聞き返されちゃってさ」 指を差されて言われてしまった。私は困惑してしまう。

「いや、ほんとに意味わかんないよ。この『エスパイ』がどうかした?」

 展開が早くて、一気に読んだ覚えがある。SF娯楽小説だと思ったが、違っただろうか。

 新田君が頭を掻く。

「いや、だって、この本ってなんてかさぁ、……つまり、エッチくなかった? 当時の僕らの歳で読むには」

「そうだった?」

「そうだったんだよ。少なくともあの時の俺には! で、あの時も今と同じように『エッチくない』って訊いたんだよ。そしたら、『え、あのくらい普通でしょ?』ってさらっと言われちゃってさ」

 そんなこと、訊かれただろうか。本当に覚えがない。

「やられたーと思って。早坂ってすげぇ大人だーと思って」

 それで俺いらんことを口走っちゃった手前もあったからさ、なんか余計返し辛くなっちゃって。それで返し忘れたふり決め込んでたの。そのうち六年生になって、クラス替えとかもあって、俺も忘れちゃってたんだけど。この前押し入れの奥からこの本見つけるまで。新田君は苦笑を浮かべる。

「どうも長らく借りたままですみませんでした」

 新田君がオーバーアクション気味に頭を下げる。照れているようだった。そんなエッチな本だったろうか、これ。確か007のボンドガール的な美女が出てきて、そういうお色気シーンがあったとは思うけど……。


 と、その時、私の携帯が着信音を発した。取りだして液晶画面を見ると、また義兄からである。もう! 無音モードにして放っておく。

「……出なくていいの?」

「いいのよ。東京にいるお義兄さん、つまり私のお姉ちゃんのお婿さんから掛かってきてるだけ」

「それ出ろよ。なにかあったんじゃないのか?」

 私は思わず身を乗り出してしまう。

「そうでしょ。義理のお兄さんからの電話なんてなにか余程の特別な用事だとか、なにかよくないことでもあったのかとか、普通はそう思うでしょ。でも、この義兄の場合は違うの!」

 私は掻い摘んで義兄のグチ電話攻勢について説明した。内密に、と言われている手前家族には言えず、当然姉にだって言えやしない。鬱憤が溜まっていたのかもしれない。グチへのグチだ。


 話を聞き終えて、新田君は「ははは……」と笑った。「変わった人だなぁ」ととても真っ当な感想を言ってくれる。

「でもさ、ちょっと分かるような気がするよ。お義兄さんの気持ち」

 なんかさ、こう菅井は大人でさ、懐が広そうっていうかさ。許される気がするんだよなぁ。

「懐なんて広くないよ、ただ聞き流してるだけ」

「グチをただ聞き流してくれる相手って、いざと思うとそう周りにいないもんだよ。頼りにされてるんだよ」

「お義兄さんの方が一回りも上なのよ」

「そんなの関係ない。気持ちの話だよ」

「……」

 私は新田君の言葉を考える。年も離れているし、義理の兄だし、当然突っ込んだ意見なんてしにくいし。なんというかある意味他人事で、いつも適当に相槌を打っているだけなんだけど。それでも頻々と電話をしてくる義兄には意味があることなんだろうか。


 東京っていえばさ。新田君が改まった顔をする。

「俺も東京に行くんだ。一応栄転。本社勤務が決まってね、俺一人息子だろ? 親もついてくるって言ってるんだ。それで家も売ることにした。もうこっちには戻らないと思う」

 それで引っ越し準備に本の整理をしていてこの本を見つけたんだよ。懐かしくてさ。いろいろ。それで会いたいと思ったんだ。今日は来てくれてありがとう。


 ウェイトレスがお冷やのお代わりをついでいく。私達は携帯のアドレスを交換した。

「たまには俺も菅井にグチ電話しようかな」

「聞くばっかりじゃいやです」

「じゃあ、俺も聞くよ。菅井のグチ係に志願する」

「わぁー、嬉しい。私、グチ係いないもの」

 多分私はグチ電話をしないと思うけれど。きっと新田君もそうだろうと思うけど。そうか、新田君は遠くに行ってしまうんだ。私達は携帯のフタをパタンと閉じた。


■■6


「早坂ってゴロンドみたいだな。ゴロンドを掘った穴に向かって『王様の耳はロバの耳-!』って叫んでさ、ゴロンドでどしんとフタをするの。そうすると、シーンとなる。それでおしまい。ゴロンドはいろいろ気にしない」

 そんなことを新田君に言われる夢を見た。いや、実際に子どもの時に言われたことがあったのかもしれない。覚えていない。


 ソファーでうたた寝をしてしまった。返して貰った『エスパイ』を読み返していたのだ。本は子どもの頃読んだ印象とは随分と違っていた。

 私は新田君の言った「エッチな」部分を主人公がふざけてヒロインの裸を超能力を使って透視するシーンのことだと思っていた。それでヒロインから同じく超能力を使ってパチーンと平手打ちされる。確かにそのシーンは冒頭に出てくる。でも、ところがどっこい、このヒロインはその後、敵のエスパー達に陵辱されてしまうのだ。こんな展開があったことなどすっかり忘れていた。というより、当時の私にはこの場面の意味がちっともわかって読んではいなかったのだ。ただヒロインがぶたれたり、そういう類のヒドイ目にあったとしか映っていなかった。知らなかったのだ。エッチのエッチたる意味を。だから、『あのくらい普通でしょ?』と言ってしまった。多分。

 新田君は私のことを「大人だ」と思ったと言うが、とんだ勘違いだ。私はものすごく子どもだった。今でももしかしたら子どもなのかもしれない。漠然と日々を聞き流したり読み流したりして、何も知らずにいるのかもしれない。


 携帯が鳴った。義兄からだ。またか。今日は多いなぁ。どうしたんだろ、本当に何かあったのかしら? 午後の着信に知らぬ振りを決め込んだこともあって、私は神妙に電話に出る。

「はい、もしもし」

「……え、逸子?」

「あれ、お姉ちゃん?」

 携帯画面を確認する。やっぱり義兄の携帯電話からである。

「お姉ちゃん、なんでお義兄さんの携帯から掛けてきてるの?」

「こっちが聞きたいわよ。本当にこれ逸子のナンバーなの? どうしてうちの人がこんなに逸子にいっぱい電話してるのよ?」

 今、義兄はお風呂に入っているのだという。姉はそのスキに義兄の携帯の着信履歴をチェックしてみたのだそうだ。

「そうしたら、いっちゃんの名前がいっぱい出てくるじゃない」

「って、お姉ちゃん、お義兄さんの携帯、盗み見してるの?」

 それは幾ら夫婦とは言えちょっと、と思う。プライバシーではないか。しかも、実際に確認の電話を入れてくるなんて。姉もなんというか肝っ玉の太い。

「だって、こんなに履歴にいっちゃんの名前が入ってるのよ。こりゃあ妹の名前は隠れ蓑で絶対にどこかの女とまた浮気してるんじゃないかって、そう思うに決まってるじゃない!」

 それはそうかもしれないけど。ううーん。

「なんであいつがいっちゃんにこんなに電話をしてるのよ? 今日だって二回も掛けてるじゃない。あんた達一体なにをしゃべってるの?」

「……えーっと」

 困った。

「たわいもない話」 としか言いように困る。

「はぁぁ?」

 姉はいらついているようだ。姉が怒ると怖いのだ。うちの家族の中で姉が一番物事をきっぱりはっきりさせたがる人で、一直線で、決然としていて、つまり、私はとてもかなわない。

「有り体に言えばグチを聞かされております」

「グチ? 私の? はぁぁー、なによ、それ。もうワケ分かんない。……あ、風呂から出てきた。こうなったら直接とっちめる!」

 姉の電話は一方的にブチッと切れた。ツーツーツーと鳴る携帯音。お義兄さん、ごめん。お許しクダサイ。でも、簡単に「とっちめる」なんて言葉が出る辺り、実は姉夫婦はとても仲良くやっているんじゃないか。大したことにはならないに違いない。そんな気がする。これは知らずにいると言うより「知ったことじゃない」ことだ。


「お母さん、お風呂開いたよー」

 直弘がバスタオルで頭を拭きながら居間に入ってくる。「なに? 古びた本読んでるね」と聞いてくる。

「昔、お友だちに貸していた本が返ってきたの」

「へぇー、大事な本?」

「そうねぇ、どうだろ?」

「どんな本なの? 面白い?」

「面白いよ。小松左京のエスパー同士が闘うSF小説。……読む?」

「小松左京? 知らないなぁ」

「最近の高校生はダメだなぁ。『日本沈没』の小松左京だよ、超有名だよ。読みなよ」

「えー?」

 試験前だもん。本読んでるヒマなんかないよ。しかもそんな古くさいの。息子はにべもない。つまんない奴め。試験前に読む本こそ一番面白いんじゃないか。普通にベッドで眠るより授業中に先生の目に隠れてこっそり居眠りするのが気持ちいいように。ちょっと禁断って感じがイイんじゃないか。息子は夫に似てマジメ過ぎが玉に瑕だ。

「お色気シーンもたっぷりだよ。せっかくお母さんがエッチな本貸してやるって言ってるのに。読みなさいよ」

 ぐりぐりと息子の手に本を押しつけてやると、息子はいやそうに逃げていく。

「はぁー? ナニ言ってるの、この人。お父さーん」

「なんだー。どうしたー?」

 夫の間延びした声が聞こえる。


 しょうがない。じゃあ、次の母への読み聞かせの本は、これにしてみようか。……たまにはこういうのもいいだろう。

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ゴロンド 宇苅つい @tsui_ukari

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