最終話 千里眼
「そういえば、ヒロアキ先輩はどうして学芸員になったんですか?」
後輩の三島に尋ねられて、ヒロアキはコーヒーカップを口に運ぶ動作を止めた。会って話すのは一年前の、サマルカンド以来となる三島は、日本のミントティーはどうも甘さが控えめですね、と言って、飛沫を立てないようにグラスに大量の角砂糖を投入している。ヒロアキが見るだけで胸焼けしそうなそれを、三島は顔色一つ変えずに一口飲んで、言葉を続けた。
「ぼくは、ヒロアキ先輩は大学に残るんだと思ってました」
「そうだね、僕もそのつもりだったよ」
そう答えたヒロアキを、三島は眼鏡の奥から不思議そうに見つめた。ヒロアキは視線をそらし、コーヒーショップの透明な仕切りの向こうの雑踏を眺める。新幹線の発着を告げるインターフォンのような音が、駅構内に規則正しく響いていた。
「三島は覚えているかな。大学院に留学していた、アンリが自殺したこと」
「ええ。ヒロアキ先輩と仲が良かった方ですよね」
「あのとき、彼の苦しみをどうにかしてやれなかったんだろうかって、いまでも思うよ。アンリは、歴史の真実を強く追い求めるあまり罪を犯し、自らも命を絶った。それから僕は、歴史研究の最前線に立ち続けることが怖くなったんだ」
――君だって欲しいだろう? ……第三の目。
砂漠の強風の中に幻聴のように聞いた、アンリの問い掛けが、呪いのようにヒロアキを縛っている。望む知識を得ようとした末に、ヒロアキもいつかアンリのようにならないと、どうして言えるだろうか?
三島は両手でグラスを包み、考え込むようにしながら言った。
「ヒロアキ先輩が知識のために法を犯すとはぼくには思えないし、ましてや人を殺すなんてありえないと信じています。アンリさんの死が、先輩にとって大きなショックだったことはわかりますが」
「ありがとう。あの頃は本当に参ってたんだ。敦煌でアンリと撮った唯一の写真を、いつのまにか失くしてしまったくらいだから」
敦煌から日本に帰ってきた直後は、まるで自分がアンリを手に掛けたような罪悪感に、溺れてしまいそうだった。写真が、探しても探しても見つからなかったときは、アンリを二度も殺してしまったような気がして、書道液のプールに飛び込んだように、気持ちが真っ暗になった。
三島がぽつりと言った。
「アンリさんは、いい方でしたよね。大事にしてた万年筆を失くしたとき、真っ青になったぼくの話を親身になって聴いてくれました。人は他人の失くし物には冷淡なのに、アンリさんは、それが見つかるまで気に掛けてくれる方でした」
ヒロアキはただ、「うん」とうなずいた。
「探し物と言えば、三島の一時帰国の前にメールで頼まれてた本、見つけておいたよ」
話題を変えようと思い、ヒロアキが切り出すと、三島が「本当ですか?」とテーブルの上に身を乗り出した。
「版元では絶版になっていたんだけど、神田でふらっと入った古書店の棚で、埃をかぶってるのを見つけた」
「ヒロアキ先輩って、まるで千里眼を持ってるみたいに探し物が得意ですよね。ぼくのゼミの村田、覚えてますか? あいつ、三日おきに何か失くしてはヒロアキ先輩に泣きついてたじゃないですか」
「村田の失くし物で僕が見つけられなかったのは、彼の所持品管理能力だけだったかもしれない」
ヒロアキの手から、三島は頬ずりをせんばかりに言語学の古書を受け取った。ヒロアキも大概だが、三島は彼を超える活字中毒者なのだ。
「先輩には何かお礼をしなくてはなりませんね。あ、そうだ、逆にぼくが先輩の探し物を見つけるというのはどうです? いま探している物ってありますか?」
お礼なんて、と言いかけてヒロアキの脳裏をよぎったのは、いまもどこかを逃げ続けているはずの、青いイヤリングの娘だった。束の間黙り込んだヒロアキの耳に、三島の怪訝そうな声が響いた。
「あれ? 何だろう、これ」
「どこか破れてた?」
店頭で買った直後にぱらぱらとめくっただけなので見落としたのかもしれない、とヒロアキは慌てて三島の手にある本を覗き込んだ。
「何か挟まってます、写真ですね。男性が二人写ってる」
本のページの間から取り出されたそれを目にして、ヒロアキは言葉を失った。
「って、え? これ、ヒロアキ先輩じゃないですか? もう一人はアンリさん?」
三島がうろたえた声を上げる。それを聞きながら、体のどこか奥から温かいものが湧き上がってきて、ヒロアキは知らず笑っていた。
「やっと帰ってきてくれたんだね、アンリ」
ヒロアキは三島のほうに手を伸ばして、角のすり切れた写真を手にした。そこには、敦煌の月牙泉と楼閣を前にしたアンリとヒロアキが、笑顔で写っている。
思い返せば、アンリの死のあと、大学院を修了して寮を引き払う際に、大量の本を手放した覚えがある。この写真は、そうした本の一冊に無意識に挟んだままになってしまっていたのかもしれない。彼の売った本を買った誰かが、写真を別の本に挟み、またその本を売りに出したのを、ヒロアキが手に取ったのかもしれない。だとしたらそれはありえないほどの、
「奇跡ですね」
と、三島が断じた。
「担いでいるんですね、ヒロアキ先輩? さては写真を失くしたっていうくだりから作り事ですね? でないと正真正銘、神のいたずらだ」
はしゃいだような三島の声を聞きながら、ヒロアキは思い出していた。ヒロアキが国立博物館の学芸員を目指した理由。それは、たびたび世界各地へ出張することができたからだ。意識してではなかったが、博物館の仕事で遺跡を訪れるたびに自分は、古代の壁画の前に、昔亡くした友人の細身の姿を、探していたのではないだろうか?
「――いつかどこかで、また会える気がしていたんだ」
ヒロアキのつぶやきは三島には届かなかったようで、彼はまだ「一瞬だまされかけましたよ」などと笑っている。
「だましてなんかいないよ」
写真のなかの、色あせない月牙泉の水の色が、ヒロアキのもう一つの『探し物』の記憶をよみがえらせた。
かつて二度だけ出会った娘。その耳に揺れる、まだどんな翼も触れていない、カンブリア紀の空の青。
(セルリア。僕らはこれからも、世界のどこかの大都市で、繰り返し出会うだろう)
駅の雑踏が一瞬だけ、切なくなるほど懐かしい、異国の街のざわめきのように聞こえた。
「僕は、探し物は得意なんだ」
そうしてヒロアキは微笑んだ。
〈了〉
天青 紺野理香 @hoshinooutosamayoerumizuumi
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