第5話 青い鳥
「……邪眼狩りですよ」
その不穏な単語に、ヒロアキは思わず後輩を見返した。
異国の言葉が飛び交うカフェの一角でミントティーをすする三島は、ニンニクをまるごと噛み締めたような顔をしている。
ヒロアキは探るように言った。
「邪眼っていうのは、あれかな、一目にらんだだけで相手を死に至らしめるっていう、バジリスクの持つような目のこと? それから狩りっていうのはつまり、紅葉狩りの狩りみたいに観賞するっていう意味かな」
「邪眼についてはヒロアキ先輩の言う通りです。西アジアやヨーロッパの一部では、青い目は邪眼だと言われています。狩りについては、確かに鑑賞の目的があってもおかしくありません、僕には思いつかなかったけれど。犯人が被害者の遺体から眼球を抉り出したあと、どうするのかはわかっていないので」
ヒロアキと三島は、最近サマルカンドで起きている連続殺人事件について話していた。日本ではそれほどニュースになっていなかったので、ヒロアキは抵抗なくサマルカンドへの出張を受け入れたのだが、現地に着いてみれば、殺人犯はまだその刃を被害者の血で染め続けていた。
「被害者は、青い目を持つ外国人ばかりだというね」
「目を抉る目的について、ヒロアキ先輩はどう思います?」
「順当なところだと、強い憎しみかなあ。目そのものに用があるんだったら、虹彩認証の金庫を破るためとか。それとも何か儀式的な意味があるのかもしれない。三島はどう考えてるの?」
「これはまだ仮説なんですけど」
と、三島は大学時代と同じ生真面目さで前置きしてから、
「僕を含めた、ここの日本語学校の教師たちの意見はおおむね一致しています。この殺人事件は、邪眼という他地域の伝承を利用した外国人排斥運動なんです。つまり、顕著な身体的特徴である青い目を抉り取るのは、異民族を取り除くことを宣言しているという解釈です」と続けた。
「それって君たちも危ないんじゃないか?」
「僕らはいまのところ、同じアジア人ということで大丈夫なんです。これから先はわかりませんが」
首を振る三島にヒロアキは、「早く犯人が捕まるといいね」という、きわめて部外者的で月並みな言葉をかけることしかできなかった。
「何はともあれ、旅行中はくれぐれも気をつけてくださいね。ヒロアキ先輩は、少しぼんやりしたところがあるので心配です」
三島は立ち上がって几帳面に椅子を戻しながら言う。あれ、いまさらりと侮辱されたのかな、と首を捻りつつ、ヒロアキは「うん」と返事をした。
「ひさしぶりに会えてよかったよ」
「僕もです」
と顔をくしゃっとさせた三島は、「本当に気をつけるんですよ」と再度念を押してカフェを去っていった。
後輩と久闊を叙しがてら情報を得たあと、ヒロアキは出張の目的を果たすべく、激しい日射しのなかサマルカンドのはずれの博物館に向かった。
今度国立博物館で行われるシルクロード展のために、その博物館から収蔵品を借り受けるのが、ヒロアキの仕事だ。
博物館で来意を告げると、担当者は急用で外出していると言われ、その帰りを待つ間、館内を見て回ることにした。
この博物館で最も有名な展示品の一つは、博物館の建つ丘で発掘された七世紀のフラスコ画だ。その壁画には古代サマルカンドの人々が、紺青を背景にして生き生きと描かれている。
展示室に入ろうとしたヒロアキは、ぎくりとして足を止めた。
展示室の中で二十歳前後に見える娘が、貴重な壁画に手を伸ばしていたのだ。
「手を触れてはいけませんよ」
思わず制止したヒロアキの声に、娘がパッと振り返った。
目眩のようにデ・ジャヴを覚えて、ヒロアキは一瞬いま立っている場所がわからなくなった。
ここは本当にサマルカンド? それともイスタンブールだろうか?
ヒロアキの立つ入り口を向いた娘は、不似合いなほど大振りなサングラスをかけていた。
娘は、壁画に伸ばしていた手を細い日傘の柄に置いて謝罪した。
「ごめんなさい。どんな壁画か確かめたくなってしまったの。目がほとんど見えないものだから」
ヒロアキははっとして、娘の姿をまじまじと見た。
肩に届かない程度の琥珀色の髪。皮ベルトを締めた白いワンピースから伸びる手足は、よく日に焼けている。
そして何よりヒロアキの目を引いたのは、娘の耳に揺れる、青い大きなイヤリングだ。高山に咲くけしの花のような青。
「あの?」と不審げに呼びかけられて初めて、自分がぶしつけに娘を見ていたことに気づいて、ヒロアキは慌てた。
取ってつけたように言う。
「目が不自由だと見学も難しいでしょう。よかったら僕が案内しましょうか」
「でも、あなたの時間を奪うことになるわ」
「いいんです、僕は学芸員だから」
ただし日本の博物館の、と心の中で付け加えたヒロアキは、娘がそれを読んだかのように「黒い髪に、黒い瞳」と呟いたので冷や汗をかいた。
「目が見えないんじゃなかったの?」
娘はにっこりと笑った。
「あなたの英語に日本人特有の訛りがあるから。名前は何ていうの?」
「ヒロアキ」
ヒロアキは娘の反応をじっと見守った。しかしそこにはヒロアキの期待するような変化は訪れなかった。
ひどくしみる薬を塗りつけたように、失望が胸に広がっていく。
僕の名前に聞き覚えは? 以前に一度会ったことがないかな?
トルコで出会って別れたきりの、青い目の少女が浮かぶ。
オーロラに手を伸ばすような心もとない思いがした。
「――シアンよ」
「え?」
娘はヒロアキに近づいて、その腕に手を掛けた。彼女からは枇杷の実の匂いがする。
「あたしの名前。案内をお願いしてもいい? ヒロアキ」
シアンの耳のイヤリングがきらきらと光った。
「アフラシャブっていうのは、ソグド人の伝説の王の名前なんだ」
ヒロアキとシアンは館内をゆっくり歩いた。シアンの手が左腕に掛けられたままなので、ヒロアキは落ち着かない。
「この博物館が建っている丘の名前ね?」
「そう。古代のサマルカンドは、かつてこのアフラシャブの丘にあった。シルクロードで活躍した商業の民・ソグド人の都として、それは栄えた町だったんだ。町には優れた水道設備さえあった」
「いまのサマルカンドは、どうして丘の隣に移ったの?」
「十三世紀にモンゴル軍に襲われたんだ。もとのサマルカンドは破壊されてしまい、住民の四分の三が殺されたとも言われている。そのときに水道も失われて、ソグド人の都はもう二度とこの丘に戻ってこなかった」
「だからアフラシャブの丘は、あんなに荒涼としてるのね」
丈の低い草がわずかに生えているだけの、茶色の岩石がむき出しになった現在の丘の姿を思い浮かべて、ヒロアキはうなずいた。
「そのサマルカンドを復興したのがティムールだ」
「十四世紀、中央アジアに巨大な帝国を作り上げた英雄ね」
「いまサマルカンドが『青の都』と呼ばれる所以の、青いタイルを使った神学校や墓廟は、ティムールやその子孫が建てたものなんだ」
説明の途中で、不意にシアンが足を止めた。まるで空間から見えない物質を検出するように、頭を巡らせる。
「ねえヒロアキ、何か変なにおいがしない?」
「におい?」
「血みたいな、におい」
シアンにつられて周囲を見回したヒロアキは、廊下の一隅に目をやってはっとした。そこには、周囲の壁と同化した白い扉がある。ヒロアキの腕が強張ったのがわかったのか、シアンが不安げに尋ねた。
「どうしたの? 何が見えるの?」
「扉の下の床が、黒ずんでる。多分あれは……、血だ」
シアンが叫んだ。
「その扉を開けて、ヒロアキ!」
足をつる直前のように、嫌なことが起こる予感に捕らえられながら、ヒロアキはぎくしゃくと足を動かして、その扉のドアノブを回した。
扉が外側に開かれた途端、ヒロアキはうわっと叫んで退いた。寄りかかっていた扉を失って、暗い給湯室からこちら側に倒れてきたのは、男性の死体だった。
「ヒロアキ、何があったの? すごい血のにおいがする」
シアンの目が見えないことを、ヒロアキはこのときだけ感謝した。男の目は二つとも抉り出されていたからだ。男の頬に血の涙が筋を引いていた。
遺体の顔を直視できずに、そのワイシャツを着た上半身に目を移したヒロアキは、ネクタイのない胸元にネームプレートを見つけて凍りついた。
「――この人、僕が会おうとしてた博物館員だ」
足元に無言で転がる物体が、人間の死体であることをようやく察したシアンは、悲鳴を飲み込もうとするようにひゅっと息を吸った。ヒロアキは九字を切りながら呟く。
「秦・斉・燕・楚・韓・魏・趙」
「それ陰陽師のまじない? すごいわ」
「いや、戦国時代の中国に割拠していた国の名前。何だか魔除けの呪文っぽいから思わず」
セルリアは、おそるおそる遺体のほうに顔を向けた。
「……この人もしかして、あの殺人事件の被害者なの?」
ヒロアキは少しためらってから、「多分」とうなずいた。
「この人、目が青かったの?」
「わからない。僕はまだ会ったことがなかった。でも名前から察すると、アメリカ系だったみたいだ」
「……どうしよう」
シアンにぎゅっとつかまれた左腕が痛かった。直接見えないにせよ、すぐそばに死体が転がっているのだから取り乱して当然だが、シアンの怯えはどこか別のところから来ている気がした。
「どうしよう、ヒロアキ。あたしの母だわ」
「この男はおそらく、君の母親じゃない」
恐怖に見開かれた目のように丸いイヤリングが、小刻みに震える。
「違うわ。この人を殺したのが、私の母なの」
「え?」
「サマルカンドで起きている連続殺人事件の犯人は、あたしの母なのよ!」
ホームランボールが脳天を直撃したような衝撃を受けたヒロアキは、「なぜ?」と尋ねていた。混乱するといつもそうであるように、自分の質問が微妙に的を外しているのを自覚しながら。
「君の母親はどうして、眼球を抉ったりするの?」
シアンの爪が腕に食い込む。
「――食べるのよ」
「……え?」
「母は、死体から取り出した眼球を、食べるの」
うーん、まずそう、というのが最初の感想だった。眼球内部の大部分を占める硝子体は、九十九パーセントが水分だから、ゼリーみたいな食感かもしれない。
思考を逃避させるヒロアキに、シアンが言った。
「あたし、行かなきゃ」
「行くってどこに」
「母のところよ。捕まえなきゃ」
自分の左腕からいまにも離れそうになったシアンの手を、ヒロアキは思わずつかんだ。
「危ないよ。警察に任せよう」
「世界中で人を殺しながら逃げ続ける母を、あたしはずっと追ってきたのよ。どの国の警察も、母をみすみす逃がしてきたわ」
「それなら僕も行く」
「どうして?」
マッターホルンの頂上から飛び降りるつもりで放った決意が、あまりにあっさりと打ち返されたので、ヒロアキは言葉を失った。
「あたしは、ヒロアキと偶然行き会っただけの人間よ」
偶然行き会っただけの人間だって?
数年前のトプカプ宮殿での出来事がよみがえる。一緒に宮殿内を逃げ回った少女の、声も、言葉も、そして目の色も、こんなにはっきり覚えているのに。
その、あまりにまぶしい青を知ったあとで見上げた空の色に、どれほど深く失望したことか。
「ヒロアキには、あたしのことを気にかける理由なんてひとかけらもないのよ」
シアンの耳元でイヤリングが激しく揺れているのを見つめながら、喉がつかえて何も言えなくなった。
「あたしと一緒に行くなんて言わないで。あたしとおんなじ世界に生きてる振りなんて、しないでよ」
シアンの手が、ヒロアキの手からするりと抜ける。
「……っ」
シアン、と呼びかけることはできなかった。呼べばその名前が本当に、彼女のものになってしまう気がした。
娘の姿が消えてもしばらく、イヤリングの天来の青い輝きが網膜に揺れていた。
呆然としたまま、ヒロアキは博物館を出た。館員の遺体のことを警察に通報しなければと心の隅で考えながら、夢遊病のように体はのろのろと通りを進んでいく。強い日射しが目に痛い。
しばらくして少し正気に返り、自分が無意識にある人物をつけていたことに気づいた。その人物は老婆で、角を曲がるときにちらりと見えた顔立ちが、誰かに似ていると思った。
誰に似ているのか確かめたくて、その老婆のあとを追いかけ、ヒロアキは炎天下を小一時間歩き回った。半ば意識が朦朧してきたところで、日陰に入った、と思ったら、そこはひとけのない裏路地だった。
周囲の高い建物が切り取る日差しが、剥き出しの地面に転がるウオッカの空き瓶を照らしている。
正面に、ヒロアキの尾行していた老婆が立っていた。不気味な笑みを浮かべたその顔に視線を向けたヒロアキは、たじろいだ。老婆の二つの眼球は白く濁っている。
シアンの母親だ、と本能的に悟った。
「あたしに何の用だい?」
老婆の口から出た声は、恐ろしいほどシアンに似ていた。
「何のためにつけていた? あんたは何者だい?」
「その人は関係ないわ」
冬の空気のように張りつめた声がして、路地の入口から、細い日傘を杖のように突いたシアンが歩み寄ってきた。
突然機械人形のスイッチを入れたかのように、老婆がけたたましく笑いだしたので、ヒロアキはぎょっとした。
「よく来たね、わが娘よ。お前に会えるのが待ち遠しくてならなかったよ。お前の目玉を食べる瞬間を想像すると、身悶えがした」
「母さん! もう人を殺すのはやめて! いくら人の青い目を食べたって、母さんの青い目は返ってこないのよ!」
「目を取り戻すことは、もう二の次なんだよ」
「何ですって?」
「あたしには、目玉を食べること自体が目的なのさ。
目は命の象徴なんだよ。画竜点睛を欠くということわざ然り、大仏の開眼供養然り。目を入れることがすなわち、生を与えることなのさ」
老婆は、盲いた目を軽く押さえた。
「あたしは命が欲しい。早くあんたの目を寄越しな!」
「嫌よ!」
「それならこいつの目をもらおう!」
老婆の白く濁った両眼に捉えられたヒロアキは、金縛りにあったように立ちすくんだ。
自分に覆いかぶさる老婆の向こうに、シアンが路地に転がる空き瓶を拾って、力いっぱい振りかぶるのを見た。
たとえば映画のシナリオ的には、とヒロアキは思う。窮地に陥るのはシアンのほうがいいんじゃないかな、僕じゃなくて。そしてそのヒロインを、僕が、救い出さなきゃいけないんじゃないかな。
まっすぐこちらに飛んできた瓶は、見事に老婆の頭の上を素通りし、ヒロアキの前頭部に直撃して、砕けた。
「ぐわっ」
一瞬、幻を見た。
ヒロアキは、落ちてくる無数の針のような激しい日射しのなかを、よろめきながら歩いていた。
すぐ横手には進行方向と平行に、建物の屋根がつくる細い日陰が伸びている。しかし、そこにはすでにたくさんの人々が押し合いながら進んでいて、ヒロアキが入る余地はもうないのだ。
と、暑さのあまりぼうっとかすむ視界の先に、白いワンピースの娘が見えた。その背中は、太陽の熱光線に突き刺されてもなお、しゃんと伸びている。
ヒロアキは渇ききった喉で、その娘の名を叫ぼうとした。
「ヒロアキ!」
その悲鳴のような声で、ヒロアキは現実に引き戻された。ガラスの破片の中に突きそうになっていた膝を、慌てて立て直す。おそるおそる指先で確かめれば、額が少し切れているだけだった。さすが石頭、と安堵の息をつく。
「ヒロアキ、大丈夫? ごめんなさい、瓶なんて投げるんじゃなかったわ」
杖代わりの日傘を離してしまったのか、周囲を手探りしながら近づいてきたシアンに、ヒロアキは苦笑した。
「かすり傷程度で済んでよかったよ。君の母親は?」
「逃げられたわ。飛び散った瓶の破片をよけて、もう一度あなたに襲いかかろうとした母は、パトカーのサイレンの音に気づいたの」
「パトカー? 君が呼んだのかい?」
突然、近くでけたたましいサイレンが鳴ったので、ヒロアキは仰天した。その音源は、シアンの手の中にある小さな機器だった。シアンが誇らしげに言う。
「いざというときのために、色々録音してあるの。銃声とか、爆発音とか。サイレンならドップラー効果まで再現できるのよ」
「君の努力の方向がわからない」
「それより、怪我は本当に大丈夫なの? 傷はどこ?」
シアンが手を伸ばして、ヒロアキに触れようとする。その耳のイヤリングに陽光が反射して、ヒロアキの目を射た。
初めて眼鏡をかけたときのように、世界がはっきり、くっきりとした。ヒロアキは、一音一音をゆっくり指でなぞるように、娘の名前を呼んだ。
「――セルリア」
ヒロアキの腕に触れようとしていた娘は、怯えたように手を引っ込めてあとずさった。そのまま陽の光の下に身を引こうとする娘を、ヒロアキは腕をつかんで引き止めた。
彼女のイヤリングが、涙のような光をたたえて揺れた。
「――なんで」
セルリアは泣き笑いのような表情をして、
「そんな簡単に見抜かないでよ、ヒロアキ」
と、文句を言った。
「セルリア、なぜ失明したんだい?」
「遺伝性の病気よ。私の家系では、ときどき美しい青い目を持つ者が生まれる代わりに、白内障みたいに目が白濁して、失明する病気が遺伝するの」
セルリアは悲しく微笑んだ。
「どこかの国でこんな伝説を聞いたことがあるわ。ある人がセイレーンの歌声を盗み取って以来、その子孫には世にも美しい声を持つ娘が生まれるようになった。けれどその娘たちは、皆若くして喉が潰れてしまうんですって」
「君の母親も失明していた」
「母は自分の運命を認めなかった。人の青い目を食べ続ければ、自分の目の青さも戻ってくると信じたの。永遠の美貌を保つため、若い娘の生き血をすするみたいに」
まっすぐに顔を上げていたが、セルリアのイヤリングは震えていた。ヒロアキはその震えを止めようと、そっと手を伸ばして、人魚の鱗のように透きとおった青に触れた。
「セルリア。僕は、君と同じ世界に生きてるなんて思ったことなかったよ」
セルリアが訝しげに、ヒロアキのほうに顔を向ける。
「君は、ガラスを隔てた平行世界に生きてるみたいだった」
でもいまは。その先の言葉は口に出さず、ヒロアキは深く息を吸って、マッターホルンの頂を蹴った。
「君の目が欲しい」
「白濁してるって言ったでしょう?」
「君は前に約束したよね」
――あなたにあたしの眼球をあげる。
「ヒロアキって意外と執念深いのね」
セルリアは、ゆっくりとサングラスを外した。
不治の病にかかった目には、それでもまだうっすらと色が残っている。日本の春の空みたいな色だ、とヒロアキは思った。一息に告げる。
「君の目が僕のものであるかぎり、君は僕のそばにいなくちゃいけないんだ。そしてそうであるかぎり、僕は君ごとその目を守るよ」
セルリアはその見えない目に、ヒロアキの顔を必死に映そうとして、しかしすぐにその目を伏せた。
「一緒にはいられないわ」
「どうして? 青い目がないなら、もう追われることはないじゃないか」
セルリアが何度もまばたきをする。そのまばたきのたびに瞳の奥の悲しみが、水底の魚の腹がちらっと光るように姿を見せては隠れた。
「権力を持つ者は、あたしを捕らえようとし続けるわ」
「なぜ」
「瞳の青さは、あたしの子供に遺伝するのよ」
ヒロアキは絶句して、セルリアを見つめた。
「……怖くないの?」
そんなわけないだろ。
平行世界の自分に厳しく突っ込まれても、この世界のヒロアキは、セルリアにかける言葉をそれしか持たない。
「怖いわ」
「それなら」
セルリアは、淡い青色の真珠のような目を空に向けて、微笑んだ。
「でもあたしは、戦い続ける自分が好き」
セルリアの微笑みを見たヒロアキは、酸素ボンベなしでエベレストの頂上に立っているような気分になった。
「あげるわ、これ」
セルリアが右耳からイヤリングをはずし、ヒロアキに手渡そうとした。思わず上を向けて広げたヒロアキのてのひらに、イヤリングを握る彼女の手が触れる。
温かい、とセルリアは思った。記憶の中のヒロアキのてのひらには、長く美しい生命線が引かれている。
(あたしがシアンと名乗ったのは、これまでのあたしと連続したくなかったからだ)
初めてヒロアキに出会ったとき、セルリアは意識して勇敢に見えるように振る舞っていた。二度と再会することはないだろうと思ったから、過去や未来と無関係に自らの望む自分を演じていられた。
(いまのあたしは、ヒロアキの中の『セルリア』に連続できない)
別の名を名乗れば、失明したことも、母親が殺人鬼であることも、すべてシアンが肩代わりしてくれた。ヒロアキが、至極当然のようにセルリアの正体に気づいてしまったとしても。
温かさが急に、イヤリングごと手を包んだので、セルリアはびっくりした。
「また、君を探していいかな?」
「あなたにあたしが見つけ出せるかしら?」
あたしはまた、変わってしまうかもしれないのに。
不安な気持ちを悟られぬように、顎を上げて挑戦的に言葉を返すと、ヒロアキはふっと笑った。
「今回だって、ちゃんと見つけられたじゃないか」
「そうね……、そうよね」
ヒロアキの指がほどける。セルリアの手から落ちたイヤリングはヒロアキのてのひらに当たり、小さな音を立てた。
駅まで一緒に行くよ、と言うとセルリアは、「ヒロアキはあたしの行き先を知らないほうがいいわ」と微笑んだ。
「じゃあね、ヒロアキ」
セルリアは短く告げて、背を向けた。
サマルカンドの街に、礼拝の時間を告げる放送、アザーンが響き始めた。白いワンピースの背中は遠ざかっていく。ヒロアキは、アザーンの荘重な響きに紛れ込ませるようにそっと呟いた。
「また会おう、セルリア」
その声を乗せて、中央アジアの乾いた風が、かつてシルクロードの隊商が目指した、遠く青い山脈へと走っていった。
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