第4話 予言の町
フェズ旧市街の水場には魔物が棲むという。
昔、結婚式前夜の娘が供も連れず
娘がハマームに入ってすぐに、耳をつんざく悲鳴が上がった。周囲の住人が駆けつけてみると、娘の姿はどこにもなく、おびただしい血が、湯の表面にユラユラと広がっていくところだった……。
(娘を襲った魔物は、どんな姿をしていたのだろう)
人並みの向こうに見え隠れする影を見失わぬように、白い石畳の道を小走りに駆けながら、ヒロアキは思った。
イスラーム圏でありながら、アフリカの文化にもヨーロッパの文化にも隣接しているモロッコの魔物がどんな形をとるのか、深く考えると想像しにくい。この話を読んだとき、ヒロアキの脳裏にぱっと思い浮かんだのは、アラビアン・ナイトのランプの魔神だった。
でももしも、と路地の先の白いTシャツの背中を追うヒロアキは考える。
(魔物が少女の姿をしていたらどうだろう)
深夜ハマームを訪れた娘も、同じ年頃の少女には警戒心を抱かなかったのではないだろうか。
その仮説にたどりつくと同時に、ヒロアキの胸に一つの疑念が差した。
(いま僕が必死に後を追っている少女も、そうした魔物の一種ではないだろうか)
はっとして立ち止まる。
その疑いを裏付けるように、ひやりと顔を撫でていった風に周囲を見渡せば、ヒロアキが呆然と立ち尽くしているのは、ひとけのない路地なのだった。
左右の高い石造りの建物が持つ小さな窓だけが、ヒロアキを見下ろしている。片手にしっかり握りしめていた地図は、すっかり目的を果たさなくなってしまった。
ヒロアキは、世界一の迷路と呼ばれる、ここモロッコの旧都フェズで道を失ってしまったのだ。
フェズの旧市街は、迷路と言われるとおり、何本もの路地と階段が複雑に入り組んでいる。路地のいくつかは、どこにも通じていない袋小路のようだ。確かにそれらの路地の暗がりには、魔物が潜んでいたとしてもおかしくなさそうだった。
迷宮都市フェズには、もう一つ伝説がある。
その地を訪れる旅人に、町が予言を見せるというのだ。
かつてイスラーム王朝の都として造られた頃、フェズには西アフリカ随一と言われる予言者が住んでいた。偉大な予言者に教えを乞うために、アフリカはもとよりヨーロッパ、遠く中国からも占い師たちが町にやって来た。そうして『予言者の町』として栄えたフェズは、大予言者が世を去ってからも時折、まるで町自身が夢を見るように、人に未来を見せるのだという。
こんな話が伝わっている。
中世のある時代、夜が更けてから町にたどり着いた旅人が、城門の外から町が真っ赤に燃えているのを見た。慌てて周囲の村の人々を叩き起こしたが、町はごうごうと燃え盛っていてなすすべもない。
言葉もなく眺めているうちに夜が明けたが、暁の光に照らされたところから、町を包んでいた炎が消えていく。焼け落ちたはずのモスクも家々も、何事もなかったかのように眠りに就いていた。
驚いた旅人と村人たちは自分たちの見たことをフェズの町の人々に伝え、そのおかげで一か月後に敵襲があっても、町の全焼だけは防ぐことができた。
今回の旅行にあたって、大学入学時からアルバイトで貯めてきた資金をすべてはたいても、ヒロアキが行ける都市は一つか二つだった。行き先の一つをフェズにするかマラケシュにするかで迷っていた彼は、その伝説に引き寄せられるようにしてフェズに決めた。
予言の町に教えてほしい未来が、ある気がしたから。
棒立ちになっていたヒロアキは、路地の先に白いTシャツが消えるのを見て、このまま追跡を続けることを決めた。
その少女に気づいたのは、十分ほど前のことだ。
旧市街から出たところの新しい地区にあるビジネスホテルに宿を取ったヒロアキは、まだ観光客のまばらな時間から、旧市街の市場を見学していた。市場には焼き立てのパンの匂いが漂い、時折ハッと風向きが変わったときに、生肉をさばいているような血なまぐさいにおいが鼻をかすめる。
生きた鶏をそのまま秤に載せて量り売りするのに目を奪われていると、突然、
ガシャン
とガラスが割れるような音がして、心臓が跳ねた。
見ると、土産物屋の店先を、現地の買い物客が避けるようにして通っている。店に飾られたフェズ焼の皿の一枚が落下したようだった。無残に砕けた陶器の鮮烈な青色が、ヒロアキの網膜に焼き付いた。
そのとき目の端を何かが横切り、ヒロアキは無意識に顔をそちらに向けた。
彼女だ、と反射的に思ったのにしかし、とっさに声も足も出すことができなかった。ヒロアキの中の慎重な一人が、なぜその少女を彼女だと思ったのか、その根拠を探している。
小麦色の髪、飾り気のない白いTシャツ、デニムのスカート。
ヒロアキは爆発しそうなじれったさを感じた。
反応の鈍い平行世界のほかのヒロアキたちがようやく気づくのを待って、この世界のヒロアキは、彼女の名を呼んで駆け出した。
「セルリア!」
ヒロアキの頭上の青空は、イスタンブールの空と同じ色をしている。二年前、トルコで出会ったセルリアは、彼女の類いまれな青さの眼球を狙う武装集団に追われていた。
だまし討ちをされるようにして別れて以来、その少女とは一度も会わない。ヒロアキは自分が、セルリアに似た少女に即座に反応したことに、むしろ驚いていた。最近は彼女を思い出すことも少なくなっていたというのに。
汗の染み一つないTシャツの背中が脇道に逸れるのを見て、ヒロアキもそれに従った。
(あれは本当にセルリアなのだろうか)
少女がセルリアだとすればなぜ、ヒロアキが名前を呼ぶ声に振り向かないのだろう。どれだけ走っても緩まない少女の足取りに、ヒロアキは非現実的な感覚を覚えた。まるで世界がすべて夢のような。
(白昼夢?)
それとも、とほかの可能性を考えたヒロアキの胸が、鋭利な刃物を差し込まれたように痛んだ。
(亡霊、なのか)
長い間走り続けた足がもつれ、石畳に倒れこみそうになる。すんでのところで体勢を立て直して、そうか、と脳裏に広がる霧に光が差したように感じた。
(僕は多分、予言が欲しかった)
だからヒロアキは、この町を選んだ。
(あの青い目をした少女に、また会えるのか、どうか)
前を行く少女の背中が、男の顔写真が入ったポスターの貼られた角を曲がる。後に続いたヒロアキは、左右の壁に付けられた扉の色に既視感を覚え、そこが数日前に通ったことのある道だと気づいた。
(この先は行き止まりだ)
やっとセルリアに追いつくことができると思うと、ヒロアキの心臓がどきりと脈打った。
はたして、細い細い通路の先で、壁に突き当たって立ち尽くしている少女の背中が見えた。反響するヒロアキの足音に、その肩が震える。ヒロアキは叫んだ。
「セルリア」
はじかれたように振り向いたセルリアの、以前より大人びた横顔。その高山に咲くケシの花のように青い目には、ヒロアキに会えた安堵でも懐かしさでもなく、紛れもない恐怖が浮かんでいた。
ヒロアキがそれにショックを受けるよりも早く、まるでホログラムのように、セルリアの姿がさっとかき消えた。
「……セルリア?」
いましがた少女がいた場所に差し伸べたヒロアキの手が空を切る。
信じがたい、というより信じたくない思いで、ヒロアキはきつく目を閉じ、かぶりを振った。
亡霊、という二文字がまぶたの裏の暗闇でちかちかする。
ヒロアキの本意とは無関係に、脳が勝手に筋書きを描き出した。
二年前、トルコでヒロアキと別れたあと、セルリアはどうにかモロッコまで逃げのびたらしい。しかし、彼女の眼球をえぐり取り装飾品にしようとする男たちに、ここで追い詰められた。
ヒロアキを通り越し、彼女を捕らえようとする男たちに向けられたセルリアの恐怖に満ちた目を思い出して、ヒロアキは、肺がすべて裏返しになったような痛みと苦しさを感じた。
この路地が行き止まりでなければ。
セルリアがあの角を曲がらなければ。
そこまで考えて、ヒロアキは髪を鷲掴みにしていた指を解いた。胸に何かが引っ掛かっている。
「……あのポスター」
ヒロアキは、セルリアが入ることを選んだ路地の入口まで駆け足で戻った。その、触れればボロボロと崩れそうな石壁には、ポスターなど一枚もありはしなかった。
ヒロアキは、あのポスターに載っていた男の顔に見覚えがあった。モロッコの大統領選に出馬し、連日テレビに映し出されている政治家だ。
しかしあのポスターは、投票を呼び掛けるためのものではなかった。――大統領に
(セルリアを追いかけていたとき、彼女だけでなく周りの風景までもが幻だったとすれば)
大統領選の投票は一週間後だ。つまり、ヒロアキが見た幻は、いまから少なくとも一週間後の出来事ということになる。
そこで思い出したのは、町が見せる予言の話だった。
(そんなことが、ありうるのだろうか)
いやありえないと首を振る内部の自分に気づきながら、ヒロアキの左手はサインペンを求めて胸ポケットを探っていた。幻の中でポスターが貼られていたその右上の辺りに、英単語を書き連ねる。
『Dead End.(この先行き止まり)』
メッセージに気づいたセルリアが、この路地に迷い込まなかったとしても、ほかの死の未来が彼女を襲うことは十分ありうる。しかし、現在のヒロアキにできることは、これしかなかった。
ヒロアキは少し手を止めてから、メッセージの終わりにある文字を書き足すことにした。
セルリアを思うとき、ヒロアキは世界の違いについて考える。
セルリアが身を置く世界は、ヒロアキからあまりに遠い。だから、同じ世界の住人を思うようにセルリアを思うことに、ヒロアキはいつもためらいを覚えた。
ヒロアキはセルリアの幻を見ただけで、二人の世界は交錯しない。しかしヒロアキの行動は、きっとセルリアの世界に影響を及ぼすだろう。
ヒロアキは、彼らの世界が完全な平行関係になかったことを嬉しく思い、同時に、座標空間における二つの世界の遠さを思いやった。
――ねえもしもずっと遠い将来、平和に人生を終えることができたら。
――そしたら、あなたにあたしの眼球をあげる。
(その約束を果たすために、君は絶対に生きていなきゃいけないんだ)
古都の迷宮に、礼拝の時間を告げる放送、アザーンが朗々と響き渡る。それはまるで、古都自身が歌う予言の歌のようだった。
ヒロアキは、別の世界で生きる少女へのメッセージの下に、縦の平行線を二本書いた。そして橋を架けるように、それを一本の横線でつなぐと、HiroakiのHを書き残した。
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