第3話 第三の目


「……アンリ」

 ヒロアキの声が十七窟に虚しくこだまする。ぽっかりと四角く開いた入口に立って、内部の暗闇を透かして見ても、そこに細身で背の高い友人の姿を見つけ出すことはできなかった。

「アンリ、どこだ? そこにいるのかい?」

 入口の左右に描かれた仏たちは、友人の行方について何も答えてはくれない。長い年月の間に顔の部分がすっかり色あせて、話そうにも話せないのか。

 ヒロアキは十七窟の前の数段のきざはしを下りて、埃っぽい通路を歩いた。通路の壁に現れるのは、古代のゆったりとした衣を身にまとい、エメラルド・グリーンで美しく彩色された無数の仏たちだ。

 反響する自分の足音とともに、徐々に心拍数が上がっていく。有数の観光地だというのに、今日はこんなにもひとけがない。

 壁の仏像からの無言の凝視に耐えきれなくなって、ヒロアキの歩調はほとんど駆け出さんばかりになった。

「いるのなら返事をしてくれ、アンリ!」

 叫ぶように友人の名を読んだ直後、ヒロアキは凍りついた。六窟の入り口の壁画の一部分にだけ、まるでスポットライトのように外光が当たっている。そこに浮かび上がった優美な腰つきの一体の仏に、ヒロアキの視線は縫いつけられた。

 仏の白い額には、真っ赤に染まった第三の目があった。


+ + +


 大学院の春休みに敦煌に行こうと言い出したのはアンリだった。

 フランスからの留学生である彼に、ヒロアキは日本の温泉地を紹介しようと計画していたのだが、アンリは、ヒロアキが挙げた国内有数の温泉地の数々を一蹴して、

「敦煌にしようよ」

 と言い放ったのだ。そうだ、京都に行こう、と言うような気軽さで。

「だって僕、その温泉全部行ったことあるし」

 フランス人の母と日本人の父の間に生まれたハーフであるアンリは、金色の髪と鳶色の目を持ち、日本語を流暢に話した。

 小学校卒業までを日本で過ごした彼は、物静かで控えめでありながら、ときどき一途で一直線に突っ走るところがあった。

 そのアンリに押し切られる形で、ヒロアキは三月、中国内陸部の空港に降り立った。絶え間なく吹きつける砂まじりの風によって、飛行機の機体は残らず茶色になっている。肌の表面も口の中もすぐに砂でざらざらになる。

 アンリがどうしてもと言うので、彼らはその日のうちに莫高窟を見学することにした。

 長時間のフライトで疲れ切っているのは同じだろうに、アンリは息をするのも忘れて、壁にうがたれた穴の内部の仏像に見入っている。連れの存在もお構いなしのその様子に苦笑しつつ、無類の遺跡好きであるヒロアキも、通し番号の降られた岩窟をいそいそと覗き込んだ。

 敦煌は古い時代から西域との交通の要衝だ。

 その地の鳴沙山には、四世紀から北魏、唐の時代を通して千年間に莫高窟が掘られ、内部には無数の仏像や壁画が残されている。

 二〇世紀の初頭に、莫高窟の十七窟の壁の中から宋代の経典が多数発見されたことにより、敦煌は一躍世界に有名になった。

 壁画を彩る赤や青、白などの色彩の中で一際色鮮やかなのが、神秘的な湖に似た緑だ。

 確か、顔料はアタカマイトという鉱物だった、とヒロアキは飛行機内で読んだガイドブックの記述を思い出す。西方浄土の描かれた壁に顔を寄せていた彼は、

「やっぱり敦煌に来て良かっただろ、ヒロアキ」

 という背後からの声にぎょっと振り向いた。

 そこにはいつのまにかアンリが立っていた。夕闇の中に溶け込みそうなその細身の体に、ヒロアキはなぜかぞっとするものを覚えた。

 アンリは足音も立てずヒロアキの隣に並ぶと、壁に描かれた仏に目を向けて口を開いた。

「ヒロアキは、この敦煌にまつわる第三の目の話を知ってる?」

「第三の目?」

 アンリの視線が壁画をなぞる。

「この莫高窟に描かれた何千もの仏の中に一体だけ、第三の目を持つ仏がいるんだそうだ」

「その仏を見つけると?」

「え?」

 驚いたようにこちらを向いたアンリを、ヒロアキは笑みを含んだ目で見返した。

「こういう話は大体そう続くものじゃないか? 第三の目を見てしまうと呪いにかかるとか、逆に幸運が訪れるとか」

 アンリは納得した顔になって、

「どちらかと言えば幸せになる、かな」

 と言い、それから下を向いて、ヒロアキが思わずどきっとするような暗い笑みを浮かべた。

「もっとも、その目を探し求めること自体が、呪いにかけられているともいえるけどね」

 その言葉の意味をヒロアキが質す前に、アンリは顔を上げ、手を壁の仏の額にのばした。

「ところで、これが仏の第三の目なのかい? ずいぶん多くの仏についているようだけれど」

 困惑したように眉を寄せるアンリに、ヒロアキは思わず吹き出す。

「それは白毫だよ」

「ビャクゴウ? 何だいそれは」

「仏の眉間にある白い毛だよ。光を放つとされて、仏像だと水晶をはめて表すね。

 仏にはほかにも、普通の人間とは異なる多くの外見的特徴がある。肉髻といって頭の中心部が盛り上がっていたり、指の間に水かきがあったりというような」

「仏の得意な外見的特徴に、第三の目は含まれない?」

 少しがっかりしたアンリの声色に、ヒロアキは首を捻る。

「仏像には如来・菩薩・明王・天部という四つの種類があってね、明王の中には三つの目を持つものも多いみたいだよ。中には五つの目を持つなんて者もいる。

でも、この莫高窟では見たことがないかなあ」

 残念だったね、と言おうとしたヒロアキは、アンリの表情を見て言葉を飲み込む。

 アンリの鳶色の目には、何かを熱望するような、炎を思わせる光が宿っていた。


 翌日、日本語を話せる現地ガイドを頼んだ二人は、砂漠の中に地下水をたたえた月牙泉や、唐の則天武后の時代の大仏が収められた北大仏殿を見て回った。

 月牙泉が本当に三日月形をしていることにヒロアキが感動していると、ガイドの李が歩み寄ってきた。

「美しい泉ですね」

 ヒロアキが話しかけると、李は白い歯をこぼしにっこりした。

「漢代から一度も枯れたことがないと言われています。シルクロードを通った幾千もの隊商が、ここで喉を潤したことでしょう」

「それにしても観光客がたくさんいますね」

 左手で額の上に廂を作り周囲を見渡すと、観光客の乗るラクダの列と、その向こう、砂の海を歩くアンリの姿が小さく見えた。

「日本人の観光客も多いですよ。特に数十年ほど前はブームでした」

「それは、日本の小説家が書いた敦煌の小説がヒットしたからでしょうね」

「その小説なら、私も中国語に翻訳されたものを読んだことがあります。

 実はいまにおいても、千年前に隠された経典や遺物があるのではないかという噂が絶えないのですよ。あの小説のように」

 李は苦笑した。

「その噂を真に受けて、遺跡荒らしの類が出ることもあります。貴重な歴史上の遺物を独占したいというのでしょうか、研究熱心な海外の学生が捕まるケースもあるようです」

「それは僕らに釘を刺しているんですか」

 ヒロアキがおどけて言うと、李は笑った。

「かく言う私も、その噂に魅力を感じた一人です。忘れ去られた石窟の、崩れた壁の中から無数の経巻を救い出すことができたら、それが自分の手であったならば、素敵ですよね。

 これはおとぎ話のようなものですが、幼いころ、この沙州の豪族の末裔だという祖父に聞いたことがあります。敦煌を戦乱が襲う直前、仏の教えを記した巻物は、第三の目の――」

 そのとき急に突風が吹き、李の言葉は遮られた。風にショールを奪われたらしい観光客の悲鳴が上がる。

 巻き上げられた砂がようやく収まってから、ヒロアキと李は、すごい風でしたねと顔を見合わせて苦笑した。

「おーい、大丈夫だったかい」

 と声のする方を見れば、髪をくしゃくしゃにしたアンリが砂丘の下から手を振っていた。


 敦煌に滞在して三日目、ヒロアキとアンリはガイドを連れず早朝から莫高窟に来ていた。二人は、午後には敦煌の東の西寧に向かう予定だった。

 日が昇ったばかりの莫高窟には、まだ観光客もいない。敦煌を発つという段になってようやくヒロアキは、じっくりと壁画に向き合うことができた気がした。

 静かな時間をそのとき、携帯電話の着信音が破った。

 通話ボタンを押したヒロアキは、電話口の向こうの話に仰天した。

「李さんが殺されたですって?」

 掛けてきたのは滞在していたホテルのフロントだった。相手は、ガイドの李が今朝、敦煌の街の路上で銃殺されているのが発見されたことを伝えた。昨日一日、李と行動を共にしていたヒロアキとアンリに、警察が話を聞きたがっているという。

 電話を切るとヒロアキは慌ただしくアンリを振り返った。

「アンリ、大変なことになったみたいだ。李さんが」

 しかしそこにアンリの姿はなかった。

「……アンリ?」

 友人の名を呼んだヒロアキの声だけが、物言わぬ仏像の間に吸い込まれていった。


+ + +


「第三の……、目」

 仏の額に信じがたいものを目にして固まったヒロアキは、しかしすぐに自らの誤りに気づいた。

 目の外縁だと思ったものは、たいていの仏像に普通に描かれている白毫だ。その白毫の真ん中にぽつんと打たれた瞳のように見える深紅の点は、それは。

「……血だ」

 それを認識した瞬間、パッと視界が広がったような錯覚を覚え、今まで仏の衣の模様に見えていたものが血痕だとわかった。

 ヒロアキはうろたえながら、血の飛沫の散った壁に開いた石窟の入り口を覗き込もうとした。

 李が銃殺されたと聞いてとっさによみがえったのは、一日目の夜アンリの部屋を訪れたときに、半分開いた机の引き出しの中に見つけた小型拳銃だ。驚くヒロアキに、アンリは笑って「護身用だよ」と言った。

 李が殺されたのは昨夜のうちだと推測されるという。昨日の夜、アンリが「ちょっと外を散歩してくる」とだけ言い残して一時間ほどホテルを出ていたことも、ヒロアキは思い出した。

 日本を発つ前アンリは、思うように進まない博士論文に悩んでいた。フランスに帰る期日は無慈悲に近づいてくる。そんなアンリに気分転換させようとヒロアキが提案したのが、温泉旅行だったのだ。

 大学の研究室でたまたま二人になったとき、アンリがこう言ったことがある。

「歴史の霧の中を見通すことができる、第三の目が欲しいよ」と。

 アンリははたして、莫高窟のどこかで今も千年の眠りを貪る未知の経典のことをどの程度まで信じていたのだろう。どうして彼の論文の突破口が、その経典にあると思い込んだりしたのだろう。秘された教典について何か知っているようだった現地ガイドを、情報の拡散を恐れて殺めるほど、彼は追い詰められていたのだろうか。

 石窟の入口の縁に手を掛けると、血の匂いが強くした。ぎゅっと目をつぶってしまいたい衝動と戦いながら、内部の薄暗さに目が慣れるのを待つ。

 岩窟の中央に、誰かが倒れているのがぼんやり見えた。

 遠くで風が鳴っている。強い風が砂漠の砂を鳴らすから、この岩山は鳴沙山と名づけられたのだ。

 その風にのって、かすかな声が聞こえてくるような気がした。


――君だって欲しいだろう? ……第三の目。


 まるで愛しい人の頬に触れるように、石窟の壁画に手を伸ばしていたアンリ。応えてくれない人の首を絞めるような激しい目で壁画を見つめていた、アンリ。

――こんなやり方で、手に入れなくてもよかったじゃないか。


 アタカマイトの鮮やかな緑で彩色された天井を、アンリの虚ろな双眸が見上げている。弾丸によってその額に開けられた風穴は、取りつかれたように彼が望んだ、第三の目に似ていた。




















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