2 過去からの使者
母の夢を見ていた。
母の顔を覚えていない。母は俺が三歳のときに亡くなった。夢の中の母は、幼児の俺と二人で写っている写真の顔だ。
高校卒業まで札幌の養護施設で育った。小学生の頃に発達障害と診断された。情緒不安定だった。人と接触したり会話するのも苦手だった。今もその症状は治らない。高校に入った頃から、気持ちの
周りの者たちは、俺のことを不良と
体を起こした。カーテン越しに外の白さが滲んでいる。
夜中の記憶が俺の頭の中で
枕元の壁に立てかけてある、A四サイズ額縁の水彩画を手にした。その水彩画には黒い屋根に白壁の平屋の家が描かれている。施設の管理人から俺が施設に来たときに持っていたのは、この水彩画と母と共に写っている写真だけだったと聞かされていた。
この水彩画を見ると、いつも心が落ち着く。俺の守り神のようなものだ。
枕元の携帯ラジオのスイッチを押す。朝七時の時報が鳴り、ニュースが始まる。重い体を持ち上げる。
畳の上に土足の後がいくつも付いていた。
いったい何なんだ?
あの幽霊のような男は何者なのだ。そして、あの逞しい女は何者なのだ。
俺には襲われる理由が思い当たらない。
たしかに、他人に対して暴力を振るったことはある。しかし、殺したいと憎まれるほど人と争ったことはない。それに、この部屋には金目のものなど何一つとしてないのだ。
仕事に行かなければならない。行かなければ、また首になってしまう。
寝る場所と食べる物がないことがどれほど悲惨なことなのか、身に沁みて知っている。
トイレに行き用を足す。ガスコンロで湯を沸かし、歯を磨く。タオルに湯をかけ、蛇口の水を振りかける。湯と冷水の混じったタオルで顔を拭う。タッパを開け、冷え切った残飯のチャーハンを口に入れ、呑み込む。
ジーパンを
おそるおそるドアを開ける。
湿った雪が降っている。凍りつく風に包まれ、身震いする。
二階の外通路に人影はなかった。
外通路は十センチほどぬかるんだ雪が積もっていた。ゆっくりと重い体を支えながら階段方面に歩く。手摺に掴まり、膨れ上がった腹部を揺すりながら一歩一歩鉄製の階段を下りていく。
「ナオトさん……」
降りしきる雪の中から、俺の名を呼ぶ女の声がした。
グレーのセダンの前に、深いフードを被り、白い毛皮のロングコートをまとった女が佇んでいる。
目を細めてフードの中の顔を見た。
昨夜の女だった。
彼女は若くはない。かと言って、それほど年をとっているわけでもない。何歳なのだろうか。あんなに強く不可思議な女に、今迄出会ったことがない。
彼女はフードを脱ぐと、近付いてきた。
二〇〇八年三月一日、札幌郊外。静かな牡丹雪の降る朝だった。
「大丈夫ですか」
女はポツリと言った。
彼女を見詰めたまま頷く。
「勤め先まで送って行きましょう」
彼女はセダンまで戻ると、助手席のドアを開けて俺に頷いて見せた。
ぼんやりと彼女を見続ける。
「高木尚人さん、行きましょう。今日は一人で行くのは危険だから」
昨夜とは別人だった。丁寧な言葉遣いだ。
俺は身動きできず立ち尽くしている。
「あなたのお母さまの名は百合子さん。母方のお婆様から依頼があって、東京からあなたを迎えに来ました。お婆さまが、あなたに会って話をしたいとおっしゃっています。あなたの両親の話をしたいと、そう伝えてほしい、と」
女はゆっくりと諭すように言うと、笑顔を浮かべて近付いてくる。
身長は百七十五センチの俺より少し低いくらい。女としては大きいほうだ。化粧をしていた。凛々しい顔立ちだった。昨夜とは別人のように美しい。
肩までかかるぼさぼさの髪、太い眉毛に切れ長の目、すっと口角が上がる薄い唇。それは、昨夜と同じだった。
女は名刺を差し出した。
名刺には、「寺島悠子 秘書 上原絵莉」と記されている。
彼女は車に乗ると、俺の横まで進めた。そして助手席のドアを開ける。
「乗って、カトレアに送って行くだけだから」
佇んでいると、彼女は腕を伸ばして俺の手を掴み、女とは思えぬ強い力で助手席に引き入れた。
「悪く思わないで、あなたを守るためだから」
車道に出、新札幌方面に車は走り出す。
「夜、襲ってきた男、何者」
俺は声を潜めて訊く。
「うん、わからない。おそらく、そこらへんの浮浪者でしょう。悪霊に憑りつかれているだけだから、今頃は、何があったのかも忘れているでしょう」
悪霊……。何だ、悪霊って。
彼女はそれ以上説明しようとはしなかった。
九時十五分前に、勤め先のファミリーレストラン「カトレア」の従業員用の裏口に着いた。
彼女は俺の勤め先を「カトレア」だと知っていた。きっと、私生活も調べ上げているのだろう。
いつもより早く着いたので、ドアは施錠されたままになっていた。ショルダーバックの中からCDプレイヤーのイヤホンを出し、両耳に差し込む。再生エンターを押す。女子グループのリズミカルな歌が流れる。
駐車場に視線を送ると、彼女のセダンは見当たらなかった。
このファミリーレストランで、火曜日から日曜日まで週六日働いている。時給七五十円、月十万円ほどの収入になる。家賃と光熱費、水道代を支払うとほとんど無くなる。余裕ができたときは、気に入った小説本とCDを買っている。
九時七分に正社員がやってきた。
彼はドアを解錠し、中に入って行く。俺も無言のままその後に続き、壁に設置してあるカードリーダーに出勤カードを差し込む。洗い場に行き、ロッカーを開ける。中にショルダーバックを入れ、白いつなぎの仕事着を出し、着替える。
納戸から電気掃除機とバケツ、ナップを取り出す。客席に行き、掃除機を稼働させ掃除を始める。終わるとモップで丁寧に床を磨き上げ、ダスターでテーブルを拭いていく。
掃除を終え、用具を納戸に戻すと、10時近くになっていた。客席にウエイトレスが揃い、調理場にはコックがスタンバイする。
洗い場の片隅の丸椅子に腰を落とす。深呼吸する。最初の洗い物がくるまで、体を丸めてじっと待つのだ。
高校を卒業し施設を出て自立してから、半年で三度職場を変えた。同僚や先輩とのトラブル続きで、手を焼いた上司から解雇を言い渡され続けたのだ。
今までの人生でただ一つ結果を出したことがある。蓄えたお金で自動車運転免許証を取ったことである。
今の職場で仕事が続けられるのは、対人関係が要求されないからだ。
食器を洗いながら、食べ残しの中からめぼしい食材を選んでタッパに入れる。その日の夕食と明日の朝食の分である。
まわりの者たちは、丸々と太ったぼくのことを豚と陰口をたたいている。声をかけてくる者もいない。
その日の仕事を終え身支度をしていると、事務員が来ておれに声をかけた。
「高木君、店長がお呼びだ」
ショルダーバックを抱え、事務室の前に立った。
ドアを叩き、高木ですと告げる。
「入りなさい」
店長の声がした。ドアを開き中を覗き込む。店長が手招きした。恐る恐る机の前に行く。
「君は、明日から来なくていい。きみの仕事は無くなったんだ」
俺は返答に窮した。茫然と彼の顔を見続ける。おそらく顔は引き攣っているだろう。
「悪いな。本部の指示で、きみの仕事は外注することになったんだ」店長はそう言うと、書類に目を落としながら付け足した。
「今日までの、アルバイト代を支払うから、会計に寄っていきなさい」
俺には、何一つとして落ち度はない。
店長を睨みつける。唇がふるえる。俺の怒りが爆発寸前になる。
「どうした、用事は済んだ。帰っていい」
彼はそう言うと、顔を上げた。俺は反射的に天井を見上げ、体をドアの方向へ向けた。そのまま、ドアから廊下に出、勢いよくドアを閉じた。
そしてドアを激しく蹴った。
従業員用裏口から外に出た。
正気に戻ったとき、降りしきる雪の中で佇んでいた、
絵莉がセダンの助手席のドアに寄りかかって、俺を見ている。
ショルダーバックを揺らしながら、俺はアパートの方角に歩き出した。
「ねえ、お腹すかない? 何か食べに行こう」
俺は歩き続ける。
「何があったの? 相談にのるよ」
背中に絵莉の大声が聞こえた。
夢遊病者のごとく歩き続ける。
セダンが俺の横に止まった。
「食事に行こう、いいとこ、知っているんだ。美味しいよ」
セダンは俺の横を通り過ぎ、止まった。助手席のドアが開いて、絵莉が顔を出した。
「尚人さん、聞こえないの」
運転席のドアを開けて、絵莉が降りてきた。そして、俺の前で両手を広げて立ち止まった。
「早くしてくれないかな。わたし、忙しいんだ」
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