3 硝子の仮面は魔法の仮面
セダンは札幌の繁華街を進み、大きな門構えのレストランの駐車場に止まった。彼女は下車すると、俺を顎で誘ってレストランに入っていく。
間接照明の光の中、一番奥まったテーブルに案内された。絵莉は壁を背にして座り、メニューを手にする、
「どうしたの、何があった?」
眉をひそめて絵莉を見詰める。
「急に、元気がなくなったから……」
「当たり前だろう。俺は、今クビに、なったばかりなんだから」
「そうか、大変だな。気に入っていたんだろう、あの仕事」
彼女はメニューを見ながら言う。
ボーイがオーダーをとりに来た。
絵莉はメニューを指さし、このコース料理二つ、と伝える。
「それで、どうする、これから?」
答えられなかった。
絵莉は笑みを浮かべた。
「わたしと、婆さんの所に行く? それとも、あのアパートで怯えて過ごす? 言っておくけど、あそこにいると殺されるよ」
絵莉は煙草を咥えマッチで火を点けた。
「警察に泣きついても、どうにもならないよ。あなたを襲った男、人間じゃないから。人間に棲みついた悪霊だから。あなたが、いくら撃退しても、何度でも襲ってくる。あなたが死ぬまで」
彼女はすーっと煙を吐き出し、切れ長の目で俺を見詰めた。
「悪いけど、あなたのことは調べさせてもらった。ずいぶん苦労したんだね。立派な不良青年になったんだから。それも、手の付けられない意志薄弱の乱暴者。今の仕事につくまで、職を転々としたんだろう」
俺は
「でも、あなたの辛い気持ち、分かるよ。わたしも、そうだったから。あなたのこと、とにかく言う資格など、わたしにはないんだけど、なんか、わたしより見どころあるよ。よく頑張っている。あの詰まらないレストランで、一年以上、働いてきたんだから、たいしたもんだ」
やはり、俺は弄ばれている。
「それに、自力で運転免許を取ったなんて、見直したわ。大丈夫、あなたはやって、いける。あなたが男として一人前になるまで、わたし、あなたを守ってあげる」
何だ、この得体のしれない女は。
悪霊だなんて、ホラー映画じゃないんだから。冗談もほどほどにしてほしい。
だが、この女の提案は、全くの的外れだと言い切れることはできない。今、俺にとって大事なことは、夜眠れる場所があるということ、腹を空かせ飢えないということなのだから。
「あなたに、わたしから贈り物がある。わたしには、もう必要ないから」
絵莉は煙草を灰皿に擦りつけ火を消すと、両手を顔の前に掲げた。
すると、両手の間に透明な仮面が現れた。
「この硝子の仮面は、魔法の仮面。あなたの爺さんから三年前に貰った貴重なものなの。爺さんの後継者が現れたら、渡すように言われていたの」
絵莉はその仮面を自分の顔に被せた。
「この仮面を被ると、新しい世界が見えてくる。そして心が落ち着き、幸せな気持ちになれる。そう、この仮面は魔法の仮面なの」
絵莉は仮面に両手を当て、そっと剥がした。
「あんたは、何者なの。どうして俺に付き纏うの」
「わたし? わたしは、寺島家の使用人、あなたの婆さんの召使い。あなたは、寺島家の御曹司。あなたを、寺島家に連れていくのが、わたしの仕事」
まるで御伽噺のような話だ。
「寺島家って、何」
「あなたのお母さんの実家。婆さんは、大企業寺島ホールディングスのCEO。簡単に言うと、大金持ち」
俺の顔の前に、絵莉はその仮面を差し出した。
「この仮面のおかげで、寺島家は莫大な富を築いてきた。そう言われている。その富を、あなたは引き継ぐことになる。そうすれば、あなたはもう、誰からも馬鹿にされることはない。毎日が楽しくなる。さあ、両手を掲げて」
絵莉はからっぽになった俺の頭に暗示をかけようとしている。
「さあ、両手を掲げて」
俺は目を閉じた。
「さあ、両手を掲げて」
俺は言われるままに両手を顔の前に掲げた。
「アルハモアナよ、われのもとに、来たりよ」
絵莉の声が頭の中で
「アルハモアナよ、われのもとに、来たりよ」
絵莉は再びそう言うと、顎を上げて同じように復唱するように促す。
絵莉の言葉は力強く、悪魔のごとく魅力的だ。俺は彼女の暗示から逃げられなくなってしまった。
「アルハモアナよ、われのもとに、来たりよ」
両手の間に透明な仮面が現れた。
「さぁ、仮面を被って」
俺は仮面を顔に当てた。仮面は顔に溶け込み消えた。
「心の中で、数を九つ数える。それで仮面は、あなたの物になる」
いち、に、さん、し、ご、ろく、しち、はち、く。
数え終えた。
突然視界が明るくなった。視界にあるすべての物の輪郭がくっきりと浮かび上がる。心が温かくなっていく。そして心が透明なごとく透き通っていく。
「言った通りだろう。わたしは嘘をついていない。仮面を被ると、幸せになるんだ」
絵莉は微笑んだ。
「仮面を剥がすときは、両手を顔にあて、持ち上げる。それだけ」
俺は両手を顔に当て、そっと持ち上げた。一瞬目の前が見えなくなった。そして以前の風景が戻っている。仮面は消えていた。
「仮面はあなたの手の中にある。両手を掲げれば、現れる」
俺は両手を掲げてみた。硝子の仮面が現れた。
「ひとつ、大事なことがある。仮面を被ったまま水に濡らしてはならない。水に濡れると、仮面は粉々に砕け散る。そう聞かされている。仮面を被ったまま、雨の日に出歩かない。泳いではいけない。忘れないで。寝るときは、仮面は必ず外すんだ。朝起きて、無意識に顔を洗ったら、仮面は砕け散るから」
絵莉はにっこりと微笑んだ。
「どう、わたしと一緒に東京に行く? それとも、ここに残る? わたしは、これから東京に帰る。お願い、わたしに付いてきて。わたしと冒険の旅に出ましょう。素晴らしい未来が待っているから」
彼女はにっこり微笑んだ。
選択の余地はなかった。
俺は魔法をかけられてしまった。
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