第一幕

第一章 変身 俺から「ぼく」へ

1 真夜中の襲撃


 ドアを叩く音がした。


 上半身を起した。耳を澄ます。隣部屋のドアの音かもしれない。

 四畳半のぼろアパートの一室だ。

 再びドアを叩く音がする。


 紐を引いて天井の裸電球を点け、枕元の腕時計を手に取る。午前一時十二分。毛布を除けて立ち上がる。寝間着代わりのダウンジャケットのままドア口に向かう。


「カトレアの者です。高木尚人たかぎなおとさん、至急の連絡があります」

 枯れた老人の声だった。カトレアとは、アルバイト先のフアミリーレストランの名だ。


「連絡って、何ですか」

「ドアを開けてください。ここは寒いので。……緊急の用事です」

 

 そんなはずはない。俺はレストランの一介の皿洗い、アルバイトだ。緊急の用事などあるはずがない。こんな寒い真夜中に起こされて俺は頭にきた。壁に立てかけていたバットを握ってドアを開け、後ろに退く。


 暗闇の中から黒い影が現れ、泥靴で俺の腹を蹴った。こらえる間もなく、後ろに倒される。バットを握って立ち上がり、身構える。その男はフードを被り、黒いコートを着ていた。

 彼は土足のまま部屋に入って来る。


 手に刃渡り二十センチほどのナイフの刃先が見えた。

 男の顔はフードの中に沈んでいる。無言のまま近づいてくる。

 俺はバットを上段に構え、男の右肩に振り下ろした。次の瞬間、体当たりを受け、あっという間に後ろに倒されてしまった。男は俺の体に馬乗りになると、両手でナイフを握り振り上げた。

 体が強張る。身動きできない。

 思わず目を閉じた。


 みしっ、と鈍い音がした。

 男は呻き声を上げ、俺の体にのしかかった。男の肩越しに女の顔が見えた。灰色のガウンの下に絹のスリップが見えた。長い脚が男の背中を踏みつけている。彼女の両肩は大きく波打っている。

 

 男が顔を上げた。

 フードの中の顔が縦に割れた。割れた仮面が床に崩れ落ち、霧となって消える。素顔は見る間に青色に染まり、両眼は真っ赤に燃え上がった。

 彼はぼくを睨みつけると、ナイフを後ろに向かって振り払った。

 女が後ろに飛び下がり、腰を屈めて身構える。


 女の顔は真っ白だった。

 女も仮面を被っているのか、裸電球の光を反射して素顔が見えない。

 両手でナイフを構えたまま、男は外に飛び出していった。

 女は追っていかなかった。右手に百五十センチほどの杖を握って立ちつくしている。


 俺の体は小刻みに震えている。喘ぎながら女を見上げる。

 女は俺を見下ろしていた。

「大丈夫か」

 口を開けたまま頷く。

「おまえは、馬鹿か。いいか、力任せに闘っても勝ち目はない。武術には柔軟性と技術が必要なんだ」


 女はシンクでコップに水を入れてくると、俺の前に差し出した。コップを手にして、茫然と彼女を見上げる。

「何、驚いている。隣の部屋にいたんだ。あんたの婆さんの依頼で、警護していたんだ」


 彼女は屈みこんで、俺を見詰める。

「あんた、父親に似ていないな。もっと、ましな男だと思っていた」彼女は背筋を伸ばした。

「いいか、私以外の者にドアを開けたら、その時こそ、やられるぞ」


 女は玄関に体を向け数歩歩いたが、立ち止まり振り向いた。

 鷹のような目を吊り上げ、ぼさぼさの髪を左手で掻き揚げる。そして蛭のように唇を伸ばした。

「わたしのこと、覚えていて。名前は、上原絵莉うえはらえり。エリって呼んで」


 水を飲み干すと、女の姿がなかった。

 立ち上がり、よろけながらドア口まで歩き、施錠した。

 心臓の鼓動が鳴り続けている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る