黒い森

 息切れの音。

 倍近い体重を支える様な足音。


 「何が魔女だ。おかしいじゃないか。こんなの。こんなの——」


  それは、成人の義を迎えたばかりであろう青年、というよりはまだ幼さの残る少年の声であった。

 彼は、大きなツバの黒い帽子から漏れる緩い癖の付いた栗色の髪を乱し、澄んだ鳶色の目を困惑と憎悪、恐怖と混乱を放り込んだ坩堝のようにさせ、足首まで埋まる程の落ち葉で覆われた森の道を歩いていた。

 羊毛に絹の裏糸で織り込んだ生地で仕立てられ、金糸の刺繍と金ボタンで飾られた裾の長い上着の上に矢張り金色のボタンと大きな襟がついた滑らかな袖無し外套を羽織り、足元の膝下まである乗馬ブーツには拍車も付いている。

 しかし、その拍車を当てるべき馬は側におらず、代わりに両手には大きな毛布の塊を抱えていた。

 陽は既に中天を過ぎて久しく、西に傾くごとに赤みを増していた。

 木々が黒い影に転じてゆき、鳥の鳴き声と羽音がけたたましくなる。


「この森を抜けさえすれば、もう直ぐなはずなのに。もう直ぐそこまで来ているはずなのに——」

 彼の胸中にあった怒りや憎しみの感情は、段々と焦燥感に制圧され、けたたましい筈の鴉の鳴き声は遠くなり、ただ自分の吐く息と、腐葉土になりつつある落ち葉を踏みしめる自分の足音、そして自分の心臓の鼓動ばかりが彼の一切を占めていた。

 帽子のビン革では吸い切れなかった汗が眼孔を滴り、薄れゆく陽光をさらに曇らせる。


 赤く染まる世界の中、彼も周囲の森同様黒い塊になって行く。

 赤地に黒の塊。

 その抱えた毛布の塊から、だらりと白いものが垂れる。

 それは、白きかいなであった。

 赤地に黒い影絵の世界に陶器のように透き通った白い肢体が垂れる。


「ああ、ごめんよ。でも、もう直ぐなんだ。いまここで止まる訳には行かないんだ——」


 乾いたオルガンのように少年は声を吐き出す。


「これが正しいのか、僕には判らない。でも、今はあそこに行くしかないんだ。あそこに——」


 少年は暗い暗い森を進む。

 周囲の黒を自分に染めながら。

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