ハッピーエンドの犠牲者

ナツメ

ハッピーエンドの犠牲者

 映画? いいね、久々に。いまって何やってるんだっけ? ……ふーん、見たかったのないな。あれ、あのなんだっけ、宇宙人の……それそれ。それはやってないんだっけ? あー、来週からかぁ、そっか。

 ……え? ハッピーエンド? いやあ、そんなのこだわりないな。なに、ハッピーエンドのが見たいの? ……なんだよ、一緒じゃん。まあ確かに、そこにこだわる人はいるよね。

 でもさ、終わり方がかどうかなんて、話の面白さにはぜんぜん関係ないよな。物語の面白さは「変化」だよ。A地点からB地点へ。主人公がある状態から別の状態に変質する。知らんけど。いま適当に言った。はは。でもある程度的を射てると思わない?

 それで言ったら、むしろバッドエンドのほうが面白いんじゃないかって気もするよね。めちゃくちゃ不幸な人が幸せを手に入れるより、普通の人が想像を絶する不幸に堕ちるほうが、変化の幅は大きいんじゃないか? より劇的で、カタルシスを得られるのは後者でしょ。

 そもそも映画やら小説やら、なんでもいいけど、物語に触れる人間はだいたいそれなりに幸せなんだと思うんだよ。本人がどう思ってるかはわからんけど。だいたいの人は家があって飯が食えて、その上で映画を見るなんて文化的な生活も送れてるわけだ。むろん、生活を営むためには苦しみもあるだろう。つってもさ、たぶんざっくり言うと、それなりに幸せなんだよ。もしそうじゃなくても、人生で幸せな経験はきっとあったと思うんだよね。だって、あるでしょ、幸せな記憶のひとつやふたつ。誰かが言ってたけど、「嬉しいことや楽しいことは、自分の体験にまさるものはない」って。まさにそう思うね。美味そうなステーキの映像を見たって、実際に食ったステーキの美味さには敵わない。――詭弁だって? バレたか。

 まあ味覚を持ち出したのはズルだったけど、そうじゃなくてもさ。物語……ある人の過ごす時間の経過、その擬似的体験。いやそれには大いなる価値があるさ。でも、幸せは自分の人生で経験できちゃうんだよな。幸せってなんかあるか? 思いつかないな。

 一方で、ネガティブな体験はどうだろう。これは出来れば実際には体験したくない。だけど、恐怖とか不幸とか、そういう感情の疑似体験には、間違いなく面白さがある。自分の安全が保証されたフィクションだからこそ、不幸が楽しめるわけ。そして、不幸の想像力には際限がない。この世では考えられない壮絶な不幸を物語では体験できる。これは物語の力を最大に発揮していると言えるんじゃないか?

 それに、ハッピーエンドってひどく恣意的じゃないか。誰にとってハッピーなんだ? って話。例えば桃太郎だってそうだ。鬼の悪事は伝聞でしか語られない。略奪行為の動機も、もっと言えば実際に略奪があったかどうかすらも不明だ。でも桃太郎は鬼を退治して、もともと桃太郎、ひいてはおじいさんおばあさんの所有物でもなかったであろう宝物を自分のものにして「めでたしめでたし」。もしかしたら、もともと宝物は鬼たちのもので、それを人間が奪って、奪い返しただけかもしれない。そうしたら、鬼から見たら桃太郎こそ略奪者だし、この物語は悲劇だろ。

 なにも悪役だけじゃない。ハッピーエンドには必ず犠牲者がいる。

 ……たとえば、好きな人がいたとする。クラスの人気者で、優しくて、ユーモアもあって、まあそういう人を、好きになってしまったとする。当然、他にもその人を好きだって子は大勢いるわけだ。「わたし」は悩む。他の子たちとくらべて有利なところはなにもない。むしろ不利だとすら言える。自分からの好意なんて、あの人にとっては迷惑なんじゃないか、いや、そんなことを思うことすら失礼なんじゃないか……ぐるぐるぐるぐる、無間地獄だ。それなのに、その人に話しかけれられて、ときめいてしまう。授業中の発言が面白くて、この人ともっと話してみたいと思ってしまう。体育の授業で手が触れて、どぎまぎしてしまう。どんどん想いがふくらんでしまう。いっそ告白してしまおうか、でも嫌われるのが怖い。嫌われるくらいなら何も言わないままのほうがいいんじゃないか。ただの友達の顔して、ずっと隣にいることもできるんじゃないか。そう考えたその晩に、その人のことを思ってオナニーをしてしまう。自分が引き裂かれる。

 ある日、なにかのタイミングで、たまたまその人と教室でふたりっきりになる。「わたし」は舞い上がって、自分でも何を話しているかわからないけどとにかくたくさん話そうとしてしまう。今日の数学で何々君がふざけて笑いを堪えるの大変だったね、何々先生今度子供が生まれるんだってね、コンビニの新発売のあれ食べた? めっちゃ美味しいらしいね。その人はテンパって挙動不審な「わたし」の話に的確なツッコミを入れながら笑っている。自分の言ってることがおかしいのを棚に上げて、ああやっぱり、ただ優しいだけじゃなくて頭の回転が早いところも好きだなあ、と思う。風が吹いて、カーテンが舞う。一瞬、静寂が訪れる。

 好きって、言ってしまおうかな、と思ったその刹那、教室の引き戸が音を立てて開く。音の主はクラスメイトで、その人のことを好きなうちの一人で、その子の名前を呼ぶその人の声で、「わたし」はすべてわかってしまう。

 ――さて、これは悲劇だろうか? いいや、これはまごうかたなきハッピーエンドだ。クラスメイトのその子にとって。その子が主人公の物語の中に、そもそも「わたし」は存在しない。したとしても、それは「意中の相手を思う恋のライバルたち」という記号にすぎない。主人公にとっての困難として配置され、その困難を退けた先にハッピーエンドがある。主人公は困難に打ち勝っただけであって、何も悪くない。誰も、何も悪くない。ただ、「わたし」は主人公のハッピーエンドの犠牲者であったということもまた、事実なのだ。

 ははは。恋人とベッドでゴロゴロしながらする話じゃないって? いいじゃん、楽しいでしょ、こういうの。好きだろ。ふふ。

 そしてお気づきの通り、ハッピーエンドはもう一つ信用できない点がある。ハッピーエンドのあとにも人生は続くってことだ。「その人」は数年後にクラスメイトの「あの子」と別れて、久しぶりに再会した「わたし」と意気投合して、いまは一緒にベッドでだらけながら、見に行く映画の相談をしている、とかね。

 え? それならお前もハッピーエンドの加害者だって? いい、やっぱそういうとこ好きだよ。確かに一理ある。この幸せは誰かの犠牲の上に成り立っているのだ。

 でもね、それは間違ってる。確かにこのシーンで終わればそれはハッピーエンドだけど、言ったでしょ。「ハッピーエンドのあとにも人生は続く」。また誰かのハッピーエンドに殺されないように、日々のこのハッピーを更新して、継続していかないと。

 うん、そう考えるとやっぱり、幸せっていうのは自分の日常であって、自分の外にこれ以上のハッピーはないな。それなら映画では、絶対に体験したくないおぞましい恐怖や不幸を思う存分楽しみたい。なんか、人がたくさん死ぬ怖い映画とかやってないの? あ、ホラーある? みんな死にそう? 見して見して。……めちゃくちゃ死にそう! これにしよう。今日は……十八時二十五分の回あるよ、これでいいよね。よっし。チケットも買ったし、まだ時間あるし、このままゴロゴロ、ちょっと昼寝してから出かけよ。ちゅ。

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