第7話 ばかっ
夢うつつとした意識のなかでその声だけはハッキリと理解できた。
仰向けになっていた俺は首だけを上から右へと変える。
「唯斗……」
ポツリと、だけど先ほどよりかは少しだけ芯の通ったような声で俺を呼ぶ。「唯斗」、たったひらがな三つの組み合わせなはずなのに、その声だけでどこかドキッとさせられる。
カーテンの隙間から少しだけ差し込んでいる頼りない街灯の光が彼女の長く艶のあるをてらてらと照らしていた。
彼女の髪を照らす光が乏しいからか普段は薄く茶色がかった髪もどこか艶のある黒を演出している。
「瑠夏……お前……」
彼女の行動に文句の一つでもいってやろうかと思っていたが、彼女の唇に添えられた人差し指と共に「しーっ」という彼女の声で毒気を抜かれた。
少しだけ近づいて俺の上にかかっている布団を手繰り寄せる。人一人分の熱を持っていた布団に二人目の温度がやってきた。九月にもなれば大分夜の温度も下がってきている。それだけに二人分の熱量がどこかちょうど良く感じる。
「ふふっあったかい!」
少しだけ嬉しそうに布団に顔をうずめながら声を溢す。
瑠夏が徐々に距離を詰めてきたのかもぞもぞと布団が動く、そして俺の右足に彼女の足らしきものが触れて――
「冷たっ――!!」
ぬくぬくとした布団のなかの足に突如やってきた冷たさにビクンと体が反応してしまう。
「ふふっ」
暗闇に慣れた俺の両の瞳にはしてやったりという様子の笑顔が映る。
普段は上から眺めている瑠夏の顔が今は真正面に映る。それだけにどこか恥ずかしい。
「ちなみに聞くけどいつになったら戻るつもりなんだ」
「え~、ここで寝る」
「お前」
言うよりも早く瑠夏は俺の体を抱きしめた。いや、俺は仰向けになっていたので正確には抱きしめたというよりも右腕にしがみついたに近い。
けれど、その行動は言葉よりも分かりやすく彼女の意思のようなものを反映しているように思える。
「だめ?」
「いや、それは――」
駄目だ。その言葉が出てこない。
本当に嫌、もしくは駄目なのであれば何よりも先に出てくるはずその言葉を言うことを俺は躊躇った。
「じゃあ、ここで寝る」
先ほどまでは暖かいと思っていた布団の中が今度は暑くなっている気がする。どこか瑠夏の体温が高い気がする。いや、瑠夏だけじゃないのか……これは俺もだ。
俺は間違いなく、瑠夏の行動に嫌な気持ちなど抱いていないのだ。それが彼女自身に対し嫌な気持ちを抱いていないという気持ちにも直結する。
無論そんなことは分かりきっていた。重要なのはその俺の嫌でない気持ちが、好きなのかどうかという部分だ。
嫌いか好きかと聞かれれば間違いなく好きだ。ただそれはライクなのか、ラブなのかそこのところが上手く判別できない。
もやもやとしたような気持ちにさせられる。
今はまだこの関係のままでもいいのかもしれない。それでも、遠くないうちに自分の中にあるこの気持ちに名前をつけなければいけないと思う。
だから今は彼女のこの抱きつきという行為に対して俺が抱きしめ返すことは出来ない。俺は仰向けのまま行き場のない左手でスマホを探し時間だけを確認した。
深夜二時、どうしようもない気持ちだけを抱えたまま、一人小さく「はぁ」とため息をついた。
当の本人はなぜか俺よりも早く眠りについたのか、「すぅ」とかわいらしい寝息を立てている。その無用心な寝顔にもう一度「はぁ」とため息をつく。
先ほど雫や瑠夏にたいして思っていたことを少しだけ思い出す。こいつは俺という人間に対し警戒心が薄すぎると思う。
この無用心な寝顔もそうだが、無防備にもさらけ出した彼女のやわらかそうな肌も、その艶やかな唇も、男子の夢が詰まったその双丘も、そんな簡単に見せびらかしていいものなどではない。
ちょっと手を伸ばせば触れられてしまう。彼女のことだ、学校内ではかなりの人気者で男子からも異性として人気があることは明白。男子たちからすれば喉から手が出るほどに触れたいであろう理想の彼女に手を伸ばせば簡単に触れられてしまう。
「本当に、無防備すぎだろう」
別に誰に対して言ったわけでもない。
本当に口を滑らせたというか、漏れ出てしまったというか、とにかく緩んだ口から飲み物を溢してしまったように、その言葉は俺の意図しないものだった。
だから、返答なんてもらうつもりもないし、まして返答があるとすら思ってもいなかった。なのに――
「別に触りたいなら触ってもいいのに」
俺以外に誰も言葉を発さないと思っていたその空間に言葉が返ってきたとき、思わずぞっとしてその声の主の方に体を向けてしまった。
すると先ほどまでは腕にあった体の感触が、柔らかさが、俺の胸のなかにやってきた。
「ばかっ」
この馬鹿は、いったいに何に対するものなのだろうか……。
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