第7話 合流
十月に入り、過ごしやすい気候になった。
パーキングエリアも、この頃にはすっかり、台風襲来以前の光景に戻っていた。
ある日の午後、一人の高齢の女性がレストランに入店した。
「いらっしゃいませ」
美幸が女性に声をかけた。品のある佇まいをしていて素敵だ。美幸は率直にそう感じた。
「すみません」
「はい」
「飯山雄二さんは、いらっしゃいますか?」
「飯山雄二さん……ですか?」
「ええ。雄爺」
「えっ、あっ、ああ、雄爺ですね。こちらへどうぞ」
すっかり雄爺の本名を忘れてしまっていた美幸は、慌てて、女性を雄爺の席まで案内した。
「雄爺。お客様です」
窓の外を見ていた雄爺は、美幸とその後ろにいる女性の方を向いた。その途端、雄爺の動きが止まった。
「あっ……、と、時枝……」
雄爺は立ち上がり、女性に近づいた。そして、女性の両手を握りしめた。
「時枝……、来てくれたんだな」
「ええ……。やっぱり、あなただったんですね……」
女性は声を詰まらせた。
「ラジオでトークショーのあなたのメッセージを聞いて、一刻も早くここに来たかったんですが、その矢先に台風が来たもんですから、遅くなってしまって……。ごめんなさい」
「全然、気にすることはないよ。しかし、よく来てくれたな。俺ぁ嬉しいよ」
二人の関係が分からず、所在なさげに様子を見ていた美幸に向かって、雄爺が声をかけた。
「俺の妻の時枝だ」
時枝は美幸に向かって一礼した。
「いつも、主人がお世話になっております」
「い、いいえ、こちらこそ」美幸は慌てて一礼した。「奥様でいらっしゃったんですね」
「夫婦に見えないか?」
雄爺が不満そうに言った。
「い、いいえ。お似合いだと思います」
「そうか」
途端に雄爺は上機嫌な表情に変わった。
「今日は良い天気だし、せっかくだから、外で話そうか」
雄爺は時枝に声をかけた。
「はい」
「悪いな。今日はこれでお暇するわ」
雄爺は美幸に向かって右手を軽く挙げた。
「あっ、はい。行ってらっしゃいませ」
美幸は二人に向かってお辞儀した。
雄爺は時枝の手を引いて、レストランの出口へ向かって歩き出したが、すぐに立ち止まり、美幸の方を向いた。
「ああ、それから」
「何でしょう?」
「いつも世話になって、済まないな。感謝してる。あんたやここの皆のことは、ずっと忘れないと思う」
雄爺があまりにも大真面目な顔でそう言ったため、美幸は思わず吹き出してしまった。
「どうしちゃったんですか? 急にそんな、改まって」
「気にするな。なんとなく、言っておきたかっただけだ」
照れ臭そうに笑った雄爺の顔が、いつもと違って寂しげだった。
「じゃあな」
雄爺は美幸に手を振ると、再び時枝と一緒に歩き始めた。
どうしちゃったんだろう。
二人の後姿を見送りながら、美幸は、妙な胸騒ぎを覚えた。
「ねえ。最近、雄爺の姿を見ないんだけど、何かあったのかしら?」
仕事を終えて更衣室で帰り支度をしていると、一緒のシフトだった秋山が、美幸に話しかけてきた。
「さあ……。私も分からないんです」
時枝と一緒にレストランを去って以来、雄爺は一度もパーキングエリアに顔を見せていなかった。
「心配よね。あれだけ毎日のように来てたのに、ぱったり来なくなっちゃうんだから。何か、悪いことが起こってなければいいんだけど。ほら、最近よくあるじゃない。身寄りのない年寄りの孤独死とかさ」
美幸は、あの時の去り際の雄爺の表情が脳裏に浮かんだ。
「……どうしたの? 美幸ちゃん」
秋山は、ぼうっとしている美幸の顔を覗き込んだ。
美幸は、俯いて言った。
「雄爺、もう二度と、ここに来ないかもしれない」
「やだ、美幸ちゃん。そんな縁起でもないこと言って」
秋山はふざけて美幸を睨みつけた。
美幸は首を左右に振った。
「なんとなく、そんな気がするんです」
「どうして?」
その時、美幸のスマートフォンが鳴った。
「すみません」
美幸は秋山に会釈し、更衣室の外に出てから、電話に出た。
五分後、電話を終えた美幸は、呆然としたまま、更衣室に戻った。
「どうしたの?」
秋山が心配そうに訊ねた。
美幸は絞り出すような声で答えた。
「主人が、癌だって。もう、ひと月も持たないかもって」
電話の相手は、秀之の母親だった。
秀之は、先月から身体に違和感を覚えるようになったため、病院に診てもらったところ、大腸癌であることを告げられたそうだ。連日の激務を言い訳に、これまできちんとした検査をろくに受けてこなかったこともあり、癌はかなり進行しており、どうにも手を付けられない状態にまで至っており、今から手術をしたところで助かる見込みはないと、秀之の母親は話してくれた。
ショックだった。
秀之は、美幸の夫としても、義秀の父親としても、失格だった。キャリア官僚として大成したいんだったら、好きにすればいい。他の女が気に入っているなら、勝手にしたらいい。それで秀之がどうなろうと、こっちの知ったことではない。美幸はそう思っていた。
だが、美幸はショックだった。夫の余命一ヶ月弱という事実は、あまりにも重た過ぎた。
呆然としたまま、美幸は従業員駐車場に停めてある自分のクルマに乗り込むと、深いため息を一つついた。
これから私は、一体どうしたらいいんだろう。
美幸は運転席に座ったまま、しばらく動けずにいた。
陽が傾き始め、オレンジ色の日光が駐車場を照らし始めた。だが、美幸は今日の夕陽に何の感慨も抱けなかった。
とりあえず、帰って、両親と相談しよう。
美幸はそう思い、膝の上に置いていたバッグを助手席に置こうとし、そこで手を止めた。
助手席のシートに、手紙が置いてあったからだ。
「何これ?」
美幸はそう呟くと、バッグを置き、手紙を手に取った。
裏返すと、右下に汚い字で「雄爺」と書いてあった。
美幸は驚いて、手で口を押さえた。雄爺、来てたんだ。
しかし、美幸は気になった。一体、いつ、どうやって、この手紙をここに置いたのかしら。クルマのドアのロックはしてあったのに。
だが、それ以上に気になったのは、雄爺が書いたであろう、この手紙の内容だった。雄爺が今どうしているのか、今何をしているのか、この手紙を読めば、分かるかもしれない。
美幸は意を決して、手紙の封を破いた。中には数枚の便箋が入っていた。
美幸は手紙を読み始めた。
元気でやっているか?
突然で済まないが、俺は、パーキングエリアにはもう来ない。というか、来られなくなった。
勘違いしないでほしい。俺は、ここのパーキングエリアやスタッフが嫌いになったから来なくなるわけじゃない。俺の仲間たちとトラブルがあったからでもない。理由は別のところにある。
あんた、この間の豪雨の時、管理事務所の穂積の野郎に俺が話したこと、覚えているか? 五年前の豪雨で、俺の友達が高速道路で土砂崩れに出くわして、逆走して戻ろうとしたところを、向こうから来たクルマとぶつかって死んだって話。
そいつは俺の友達なんかじゃなくて、実は俺自身だったんだ。
おかしなことを言ってると思うだろうが、これは事実なんだ。
五年前に、俺はあの高速道路で命を落とした。それからというもの、妻の時枝はすっかりふさぎ込んでしまって、家から一歩も外に出なくなった。外の用事や身の回りの世話は、自分の息子一家にすべて任せきりだった。
俺は、時枝が心配だった。その一方で、時間が解決してくれるだろうとも思っていたから、数年間は何もせずに様子をじっと見守っていた。
だが、それがかえっていけなかったらしい。ある日、時枝は自殺を図ろうとした。自分の手首を切ったんだ。息子がすぐに気づいたから、大事には至らなかったものの、このままでは、また同じことを繰り返すかもしれないと、俺は恐れた。
あいつには、まだ死なれたくない。俺はそう思い、何とかして時枝と会えないか考えた。だが俺は、いわゆる地縛霊という形でしか、この世にいることが許されなかったから、死んだ場所から離れている時枝の家へは、行くことはできなかった。自分が移動できるのは、せいぜいこのパーキングエリア周辺までだった。
そこで話好きの俺は、ここのレストランで、人生に悩んでいる奴らの相談相手になってやって、パーキングエリアの名物ジジイになることで、俺の存在を世間に知らしめようとした。そうすれば、部屋で籠っている時枝にも、俺がそこにいることに、いつか気づいてもらえる。そう思ったんだ。
俺がトークショーをやることが決まった時、たまたまラジオで告知を聞いた時枝は、最初、耳を疑ったそうだ。そりゃそうだ。死んだはずの人間、それも生前は芸能人でも有名人でもない俺がトークショーをやるなんて、簡単に信じる方がおかしいだろう。
時枝は、俺が本当に飯山雄二なのか確かめようとして、メッセージを投稿したんだ。運よくトークショーの一番最後にそれが読まれたもんだから、そこで本人だと確信して、五年ぶりに外へ出て、俺に会いに来てくれたんだ。
時枝は、俺に会えて本当に嬉しいって言ってくれた。もうこれからは、くよくよしないで、俺の分まで精一杯生きると約束してくれた。これで俺がこの世に居座る理由はなくなったから、成仏しなけりゃならない。皆ともこれでお別れだ。今まで世話になり、本当に感謝している。
それから、あんた。どうやら今、大変なことになってるみたいじゃないか。俺がとやかく言うつもりはないが、後悔するようなことはしない方がいいぞ。自分の感情に対して、素直になった方がいい。
なあ、パーキングエリアって、高速道路のドライバーが休憩を取るために設置されてるだろ。
人生もきっと同じなんだろうな。「人生」という道を走るのに疲れたら、その時はためらわずにパーキングエリアに立ち寄っていいと思う。パーキングエリアは、ある人にとっては場所なのかもしれないし、ある人にとっては大切な人や物なのかもしれない。いずれにしろ、少し休んで疲れが取れたら、また本線に合流すればいいんだ。俺はそう思う。
あんたにとっての「パーキングエリア」は、一体何だろうな? まあ、じっくり考えてみてくれ。
じゃあな、俺は地獄から見守ってるから、達者でやれよ。
美幸の頬を、一筋の涙が伝っていた。
鼻をすすりつつ、涙をハンカチで拭いた。
軽く一つため息をし、呼吸を整えた。
顔を上げてフロントウインドウの先を見ると、道端に何か細長いものが落ちているのが見えた。
美幸はクルマを降りて、その細長い物体に近づいた。
それは、雄爺が使っていたものと同じ杖だった。豪雨の時のごたごたで、ここに置き忘れてしまったのだろう。
地獄に行くなら、これ、必要だったんじゃないかしら?
美幸はふとそんなことを思いながら、杖を手に取った。
その瞬間、夕陽の光がわずかに強くなった気がした。太陽の方を見ると、それまで雲で隠れていた太陽の一部が姿を見せたのが、確認できた。美幸は、雄爺が優しく微笑んでくれたかのように、それが思えてならなかった。
ありがとう。雄爺。
美幸は再びクルマに乗り込み、杖と手紙を後部座席に置くと、エンジンを始動させ、駐車場を後にした。
二日後の朝、美幸は高速道路のインターチェンジ内にある、高速バス乗り場にいた。
「じゃあ、秀之さんや義秀君に、よろしく伝えてね」
ここまでクルマで送ってくれた初江が、美幸に言った。
「美幸ちゃん、レストランのお手伝い、本当にありがとうね。楽しかった」
一緒に見送りに来た秋山が、美幸の両手を握った。
「こちらこそ、お世話になりました」
美幸は秋山に最敬礼した。
「私たちのことは気にしないで、旦那さんのそばに少しでも長くいてあげて」
秋山は神妙な面持ちで言った。
「ありがとうございます」
「何かあったら、遠慮せず、連絡しなさいよ」
初江が子供に言い聞かせるように言った。
「わかった」
初江と秋山は美幸に別れを告げ、クルマに乗り込んだ。クルマはゆっくりと、インターチェンジの通行券発行ゲートに入っていった。今日はこれから、二人で例のアウトレットモールへ買い物に行くらしい。
クルマの姿が見えなくなると、美幸はバス停へ足を運び、ベンチに座った。
十五分後、東京へ向かうJRの高速バスがバス停にやって来た。美幸は荷物を添乗員に預けて車内に入ると、通路左側の中央あたりの窓際の席に腰を下ろした。
客の乗降が一通り済んでドアが閉まると、エンジンの籠った音が車内に響き渡り、バスは発車した。
本線に合流し、しばらく走っていると、あのパーキングエリアの案内標識が見えた。やがて窓の外に、パーキングエリアの全景が現れた。
「私にとってのパーキングエリア、か……」
窓の外を見ながら、美幸は誰にも聞こえない声で、そう呟いた。
高速道路は登坂に差し掛かり、バスのエンジン音が一際大きくなった。
窓の外のパーキングエリアが、だんだん小さくなり、やがて見えなくなった。
(了)
パーキングエリア 酒津 司 @shack
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