第6話 老人の話
こうして、喜多村が企画したイベントは一通り終わったものの、それだけでは済まなかった。
数日後、高速道路会社の管理事務所の所長である穂積隆が、喜多村のもとにやって来た。
穂積は、高速道路会社が民営化される前の公団時代に採用された職員であり、典型的なお役所人間であった。前例のない案件に対してはいつも拒否反応を示し、細かいことについても、いちいち書類を提出してお伺いを立ててからでないと、実行させてもらえない。加えて、想定外の事態を極度に恐れる事なかれ主義者であることから、喜多村は度々穂積と衝突しており、管理事務所を無視して行動に移してしまうこともしばしばあった。
喜多村は露骨に嫌な顔をしつつも、穂積をパーキングエリアの事務所の応接室に招き入れた。
穂積はソファに腰かけると、挨拶もそこそこに、喜多村を睨みつけて言った。
「この間のパーキングエリアの催し物。あれは何ですか?」
「ああ、あれですか。あれは、日頃のお客様のご愛顧に感謝して、ささやかなイベントをやっただけですよ。それが何か?」
喜多村が平然とした態度で答えると、穂積は、さらに険しい表情になった。
「それが何か? じゃないですよ。イベントをやるならやるで、どうして事前に我々に申し入れてくれないんですか。管理事務所の許可がなければ、あのような催し物ができないことはご存知でしょう?」
「ええ、知ってますよ。ただ、今回は何分急に出てきた企画なもんですから、そちらを通すと調整にやたらと時間がかかるんで、今回はこちらで勝手に進めてしまいました。ただ、事後報告はさせていただくつもりでおったんですが、その前に穂積さんがこうしてお見えになったものですから。申し訳ないです」
喜多村は、謝罪はしたものの、さほど悪びれた様子はなかった。
穂積はため息をついて言った。
「困るんですよ、勝手にあんなことをされちゃあ。こっちは、あなた方の身勝手な行為の尻拭いをさせられて、大変だったんですから」
穂積の話によれば、イベント当日は予想以上に人が集まり、パーキングエリアに入るクルマの長い列が本線までできた程だった。そのため、路肩で待機しているクルマと本線を走行しているクルマが接触して事故が発生し、夏休みで交通量が多い高速道路の渋滞が一段と悪化する原因となった。また、当日は猛暑日だったため、イベント会場で熱中症にかかる客も出て、救急車が何度も出動する騒ぎとなった。それも、事故と渋滞のせいで、なかなか救急車が来られず、パーキングエリアとその周辺区域は、かなり混乱したとのことだった。この混乱のせいで、管理事務所や高速道路会社には多くの苦情が入り、事務所の職員がてんてこ舞いで対応したそうだ。
「あなたがたにとっては、ささやかなイベントなのかもしれないが、うちにとっては、正直いい迷惑だ」
「それはそれは。ご迷惑をおかけして、大変申し訳ございませんでした」
喜多村は慇懃無礼な口調で言うと、穂積に頭を下げた。
穂積は怒りの表情を崩さず、話を続けた。
「大体、あのイベント、ここのレストランに毎日のように入り浸ってる爺さんに会いたい人が殺到したから、こんな事態に陥ってしまったんですよ。それ、分かってますか?」
「ええ、分かってますよ。結構なことじゃないですか。雄爺のおかげで、このパーキングエリアの知名度は上がりました。実際、利用者も右肩上がりで増えている。何がいけないんですか」
「その雄爺さんとやらが、レストランの客席を陣取っていることで、パーキングエリアの雰囲気が悪くなっているんですよ。彼の指定席は、凄いことになっているじゃないですか」
雄爺がいつも座るテーブル席は、連日訪れる常連客で賑やかなばかりか、雄爺の私物に加え、彼らが置いていく土産物やプレゼントが山のように積み重なっており、今や窓を覆い尽くしてしまっている程だった。常連客やスタッフは特にそれを気にしてはいなかったが、穂積の話では、パーキングエリアの利用客の一部から、あの状況を何とかして欲しいと何度も管理事務所に苦情が入っているとのことだった。さらに、苦情を入れた客の一人は、地元の市議会議員と懇意にしており、一昨日、穂積のもとに、その市議から直接苦情の連絡が入り、即刻対応しろと言われたそうだ。
「ということで、彼にはすぐにでも、あの席から荷物を持って立ち去っていただきたいのです」
穂積はカバンから一枚の文書を取り出し、テーブルを滑らせて、喜多村の前に置いた。
喜多村は、その文書を手に取り、目を通した。
文書には、穂積の名前と公印が押印されており、今、穂積が喜多村に話した内容のことが長々と書かれていた。そして文末には、一週間以内に雄爺を出入り禁止とし、この状況を改善して欲しい。もし一週間経っても改善が見られない場合は、翌年度以降の契約を締結しない旨が書かれていた。
「ちょっと待ってくださいよ」
喜多村は顔を上げ、穂積を睨んだ。
「おかしくないですか? 客を出禁にしろだなんて。そしてそれが出来なかったら、今後の契約を結ばないって」
「おかしくはないですね。そうでもしなければ、このパーキングエリアの、まあ秩序といいますか、良好な環境が維持できないんでね。ひいては当社の経営にも支障を来たすことにもなりかねない」
「雄爺を追い出したところで、環境が改善されるとは限らないでしょう。それで経営が良くなるとも思えないですがね」
穂積はため息を一つつくと、ソファに寄り掛かった。
「あの爺さんは、人生相談だか何だか知らないが、他人の悩み事を半ば乱暴なやり方で解決なさるそうですね。あれでうちの事務所にも相当苦情が入ってるんですよ」
「さっきから苦情、苦情って仰ってますが、そのような苦情なら、うちにだって入ってきてますよ。だが、それと同じくらい、感謝やお礼の連絡も頂いているんです」
喜多村は身体を前に乗り出した。
「穂積さん。このパーキングエリアは、雄爺が来るまでは、どこにでもある何の変哲もない、普通のパーキングエリアだったんだ。でも、雄爺が来たことで、ここは他所には決して真似の出来ない個性が芽生え始めているんです。利用者数も売上も、決して悪いわけではない。御社との事前協議など、これまでちゃんとやってなかった部分については、これから改めますから、どうか、雄爺を追い出すようなことだけはやめていただけませんか。お願いします」
喜多村は頭を深く下げ、穂積に懇願した。
だが、穂積は顔色一つ変えずに、はっきりと喜多村に言い放った。
「そんなことをされても、うちの結論は変わりません。一週間以内にあの男を立ち退かせてください。いいですね」
穂積は立ち上がり、応接室を出ていった。
喜多村は、頭を下げたまま、右の拳をテーブルに強く叩きつけた。
美幸が、喜多村と穂積のやり取りの内容を知ったのは、翌日のスタッフミーティングだった。喜多村が美幸たちに一部始終を話すと、スタッフ全員が唖然とした表情をしていた。
「何とか、出禁を撤回してもらうことはできないんですか?」
美幸が喜多村に訊ねたが、喜多村は首を横に振った。
「無理だ。うちの本部にも高速道路会社の人間が行ったようで、本部からも、高速道路会社の指示に従えと言われたんだ」
「そんな……。それじゃ、雄爺はこれからどうするの? ここ、凄く居心地が良いって、いつも言ってたのに」
秋山が、不満の表情を浮かべながら言った。
「俺たちも、雄爺にはいろいろ世話になってたんです」
「何とか、管理事務所や高速道路会社に交渉してもらえませんか」
「そうだ、署名を集めればいいんじゃないか? なあ」
「いいね、それ。店長、やりましょうよ」
スタッフたちは雄爺を何とかここに留まらせようと、口々に喜多村に進言したが、喜多村の表情は硬いままだった。
「残念だが」喜多村が口を開くと、スタッフたちは話すのをやめた。「雄爺には、ここから出ていってもらわなければならない。でなければ、俺たちがこの先ここで働けなくなる。分かってくれ。もう決まってしまったことなんだ。済まん」
喜多村は、スタッフたちに頭を下げた。
開店前のレストランのフロアを、重い空気が包んでいた。
その夜、雄爺の指定席で、喜多村は雄爺にこのことを伝えた。
美幸は閉店したレストランの後片づけをしながら、二人の様子を見ていた。喜多村は、泣きながら雄爺に何度も頭を下げていて、美幸はいたたまれなくなった。
雄爺が帰った後に喜多村から聞いた話では、雄爺は抵抗する様子もなく、喜多村の申し出を素直に受け入れたそうだ。パーキングエリアや店の存続のためなら仕方がない。むしろ、こちらこそ迷惑をかけてしまって申し訳なかったと、雄爺は謝罪までしたらしい。ただ雄爺は、せめてタイムリミットの一週間後ぎりぎりまでここに居させて欲しいと、喜多村に懇願してきたとのことだ。
「じゃあ、来週の木曜日が、最後ということですね?」
喜多村と一緒に従業員専用の駐車場までやって来た美幸は、歩くのを止めて喜多村に訊ねた。
「ああ、そうだ」喜多村は頷いた。
「何だか寂しくなりますね」
「仕方がない。こうするより他に方法がないんだ」
喜多村は、自分に言い聞かせるかの如く言った。
「ですよね」
雨が一滴、二滴と美幸の顔に降ってきた。
「そう言えば、台風、来ているんですね」
さっき見たインターネットの天気予報では、大型で勢力の強い台風十九号が近日中にここを通過すると書かれていた。
「ああ。直撃しないといいんだが……」
喜多村は、真っ黒な空を見上げながら言った。
そうこうしている間に、雨足はだんだん強くなってきた。美幸は慌てて喜多村に挨拶し、自分のクルマに乗り込んで、そそくさとパーキングエリアを後にした。
クルマを運転しながら雨音を聞いていると、雄爺が泣いているように思えてならなかった。美幸の目の前の視界が少しぼやけた。
翌朝も雨は容赦なく降り続いていた。
パーキングエリアへ向かう美幸のクルマのワイパーは、最高速でフロントガラスの雨粒を拭き取っていた。雨音が大きく、普段はやかましく感じるエンジン音さえ聞こえない程だった。
やっとのことで、パーキングエリアの従業員駐車場に到着した。クルマから建物へのほんのわずかな移動でも、傘はほとんど役に立たなかった。
「おはよう。大変な雨だねえ」
レストランの女性従業員の更衣室に入ると、先に来ていた秋山が声をかけた。
「おはようございます。ええ、こんなに凄い雨は久しぶりで」
雨で皮膚に貼り付いている服を脱ぎながら、美幸は答えた。
「雄爺、来るのかしらね」
秋山が独り言のように言った。
「どうですかね」
美幸は着替えを済ませると、秋山と一緒にレストランのフロアへ向かった。
窓の外の高速道路を行き交うクルマの数は、この時間にしては、いつもよりも少なく見える。台風が接近しており、不要不急の外出は控えるよう、テレビのニュースでもアナウンスしていたからだろう。
「あれ?」
入口に目を向けた秋山が、声を上げた。
美幸がその声に反応し、入口の方を見ると、ドアの外に雄爺が立っていた。
雄爺は二人に向かって手招きした。
「どうしたのかしら?」
二人は雄爺のもとに駆け寄り、ドアを開けた。かなり前からここに来ていたのだろうか。雄爺はずぶ濡れだった。
「おはようございます。大丈夫ですか? 凄い濡れてる――」
「俺のことはどうだっていいんだ。喜多村さんはいないか?」
「店長ですか?」
さっき、従業員駐車場には喜多村のクルマはなかった。
「もうそろそろ、来るんじゃないかしら」
秋山が美幸の後に続いて答えた。
「会わせてくれ」
雄爺はそう言うと、店内に上がり込んだ。
「あ、ちょ、ちょっと!」
美幸たちは慌てて雄爺の後を追った。雄爺は杖が必要ないくらいのスピードで店内を歩いて行った。
事務室に入ると、喜多村の姿があった。
「どうしたんですか?」
開口一番、喜多村は雄爺に訊ねた。
「急いで高速道路を閉鎖しろ。今の時点でこんなに荒れてるんだから、この先台風が上陸したらやばいことになるぞ。ここも今日は閉めたほうがいい。早くしろ」
「そう言われてもなあ……」喜多村は頭をかいた。「私の一存じゃ決められませんよ」
「じゃあ、誰に言えばいいんだ? これ以上、高速を開けているのは危険だ」
雄爺は苛立った様子で喜多村に訊ねた。
「穂積さんですか?」
美幸は喜多村に言った。
その瞬間、外で大きな雷が落ちる音がした。美幸と秋山は悲鳴を上げた。
「ああ。穂積さんに申し入れよう」
喜多村は机の電話の受話器を上げ、管理事務所にかけようとしたが、すぐに受話器を置いた。
「どうしたんですか?」
「電話がつながらない」
「さっきの雷のせいかしら?」
秋山が心細そうに言った。
「かもしれない。ああ、どうしよう。俺、今日クルマの調子が悪くて、妻のクルマで送ってもらったんだよ」
「じゃあ、私のクルマで管理事務所に行きましょう」
美幸が手を挙げた。
「悪い。運転、お願いできないか。雄爺も一緒に来てくれますか」
「ああ。もちろんだ」
三人は美幸の軽自動車に乗り込み、十五分後、最寄りのインターチェンジの脇にある高速道路会社の管理事務所に辿り着いた。
事務所内は、台風への対応に追われているのか、何やら慌ただしい雰囲気だった。
三人は、穂積のいる所長室に向かった。
喜多村が所長室のドアをノックしようとしたところを、雄爺が乱暴にドアを開けて、ずかずかと入っていった。喜多村と美幸も慌てて後を追った。
「何なんですか、いきなり」
所長席に座っていた穂積は、不機嫌そうに三人を睨みつけた。
喜多村は一歩前に出て、穂積に一礼して言った。
「お願いします。今すぐ、高速道路を閉鎖してください。台風が上陸する予報が出ています。既に通過した地域では、土砂崩れなど甚大な被害が発生してます。早期の対応が必要かと」
「あなたにそんなことを指図される筋合いはない」
「『そんなこと』って……。この期に及んで何を意固地になってるんですか!」
喜多村は声を荒げた。
穂積は窓の外を見ながら言った。
「別に意固地になっているわけではありませんよ。この程度の雨なら速度規制で足りる。通行止には及びません」
「貴様、あの台風を舐めてるのか? 今はまだ良くても、近いうちにここも、ああいう事態になるかもしれないんだぞ」
雄爺は所長室のテレビを杖で指し示した。テレビはNHKのニュースが流れており、台風の上陸した地区の土砂崩れの映像が映っていた。広範囲に渡って山から土砂が流れ込んでおり、おびただしい数の家屋が押し流されていた。
美幸はテレビを見て、思わず息を飲んだ。
穂積は冷静な態度を保ったまま、答えた。
「高速道路を通行止にする時期は、我々が様々な情報を勘案して判断します。ご心配いただかなくて結構です」
雄爺は両手で杖を突いた。
「今、『様々な情報を勘案して』って言ったな? じゃあ、今から俺が話すことも、判断材料の一つにしてもらえないか?」
「分かりました。どうせ、あなたは近々、あのパーキングエリアを立ち去ることになるんだ。最後に一応、話だけでも伺っておきましょうか」
穂積は雄爺にいささか軽蔑の眼差しを向けつつ、答えた。
雄爺は、応接ソファに腰を下ろし、話し始めた。
「今から五年前に、台風十六号がここを通過したのを覚えているか?」
「ええ。私はその当時も、あのパーキングエリアで店長をしてましたから」
「はい。東京でニュースを見ていて、実家が心配になって電話しました」
喜多村と美幸が次々に返答した。穂積は所長席で腕組みをしたまま黙っていた。
「俺の友達は、台風が上陸した日の未明、ここの高速道路を山の方へ向かって走っていたんだ。山の向こう側の街に住んでいる知り合いの葬式に出るためにな」
雄爺は人差し指を山の方へ指し示した。
「台風は思ったよりも速い速度で移動していてな。時間をずらしたつもりが、裏目に出た格好となった。奴が高速道路を走っている時間帯は、もの凄い大雨と激しい強風に襲われていた。だが、下手にどこかで立ち止まるのも危険だし、早く現地に行って葬式前に故人と対面したいという思いもあり、あえてその中を奴は通り抜けようとしたんだ」
「そういえば」喜多村が言った。「その時、高速道路脇で土砂崩れが発生しましたよね?」
「そうだ」
雄爺は大きく頷いた。
「まさにその時だった。奴があのパーキングエリアを通過して、間もなく峠を貫くトンネルに差し掛かろうとした際、目の前の道を土砂が流れ込んでくるのが見えたんだ。奴は慌ててクルマを停めた。クルマはこの先進めない。だが、ここで立ち往生していたら、自分も土砂に巻き込まれてしまうかもしれない。そこで奴はどうしたと思う?」
雄爺はそこで美幸の顔を見た。
「引き返す……しかないじゃないですか?」
美幸は自信なさげに答えた。
「そのとおりだ。奴は今来た道をUターンして逆走し始めたんだ。だが、運の悪いことは重なるんだな。あの区間はカーブがきつくて、見通しが悪いんだ」
「思い出したぞ」
喜多村が目を見開いた。
「土砂崩れの現場の近くで、逆走したクルマが、走ってきたワンボックスと正面衝突して、逆走したクルマの運転手が死んだんですよね」
雄爺は目を閉じて頷いた。
「亡くなった方、雄爺のお知り合いだったんですね。葬式に向かう最中に、まさか自分がそんなことになるとは……」
喜多村は沈んだ声で言った。
美幸は違和感を覚えていた。だが、それが何なのか、自分でも分からなかった。
「ゆっくり走っていれば、衝突を回避できたかもしれないんだが……。急いで戻らなければという思いがあったようだ。馬鹿だよ、あいつは……。手前のパーキングエリアで台風をやり過ごしていれば、あんなことにならずに済んだのに……」
雄爺は俯きながら言った。声が震えていた。
部屋の中は静まり返った。外の執務室からの物音が、美幸の耳に無意識のうちに入ってきた。
三人は管理事務所を後にした。
道中、車内にかかっていたラジオの交通情報で、高速道路が通行止になったとアナウンサーが伝えた。
「穂積さん、雄爺の話を聞いて、決断したんですかね」
運転している美幸は誰にともなく言った。
「どうだかな。この天候じゃ、誰がどう見たって通行止にせざるを得ないだろう」
雄爺が外を見ながら答えた。
道路は一面水たまりになっており、タイヤが巻き上げた雨水がホイールハウスに跳ね返る音が車内にゴーッと鳴り響いていた。
「おい、あれ!」
パーキングエリアまで残り一キロを切ったあたりで、後部座席に座っていた喜多村が外を指差した。
その指先の向こうに見える山が崩れ始めていた。
「ここはもう危険だ。パーキングエリアも閉鎖して、ここから離れよう」
パーキングエリアに到着すると、三人は手分けしてスタッフ全員を誘導し、急いで避難した。雄爺のように近くの避難所へ駆け込む者もいれば、美幸のように自宅へそのまま帰る者もいた。
実家へ向かう途中、美幸は、さっきの違和感の謎が解けた。
雄爺の話は、友達のことの割には、やたら詳しかった。本人にしか分かり得ないようなことまで話していた。まるで、友達ではなく自分が現場にいたかのように。
だが、それが何故なのかは、家に着いてからも分からずじまいだった。
翌朝、台風一過の晴天の中、美幸はパーキングエリアにいた。
昨日、パーキングエリアの近くの山で発生した土砂崩れにより、大量の泥水が周辺地域に流れ込んだ。泥水はパーキングエリアの建物内や駐車場にも侵入し、敷地内の地面全体が茶色で覆われていた。
今日、美幸は、仕事自体は休みだったが、喜多村から復旧作業を手伝って欲しいと頼まれたため、急遽駆け付けたのだった。美幸が現地入りした時には、既に雄爺の姿があった。高速道路会社の社員や近隣住民たちも駆け付け、皆で泥水の除去作業に取り組んだ。壊れたり汚れたりして使いものにならない什器は外へ運び出し、業者に回収してもらった。高速道路の本線は、一部区間に土砂が流れ込んだものの、大きな被害は出ておらず、その日のうちに解除されたが、パーキングエリアの復旧作業は三日を要した。
「ふう、これで明日から元の生活に戻れるな」
レストランのいつものテーブル席で、雄爺がアイスコーヒーを飲みながら言った。美幸や秋山をはじめ、他のスタッフたちもめいめいに席に座って休憩していた。
「ありがとうございました。こんな時まで、雄爺の世話になってしまって」
他の席へ労いの言葉をかけて回っていた喜多村は、雄爺の傍に来ると、最敬礼をした。
「いやいや。ここは、この程度で済んで良かったよ。五年前は道路が復旧するまで、一か月近くかかったからな」
「そうでしたね。でも、今回雄爺の判断がなかったら、ひょっとしたらもっと被害が出ていたかもしれない」
今回の土砂災害による高速道路の事故はなかったと、テレビや新聞が報道していた。
「ところで、雄爺。杖は?」
隣のテーブルに座っていた秋山が訊ねた。
「あれ、そういや、ないな。どこかやっちゃったな」
「いいんですか?」
「いいんだ。もともと杖なんかなくたって、歩けるんだから」
「そうなんですか?」
秋山の向かいに座っていた美幸は、驚いて言った。
「ああ。あれを持っていれば、周りの人たちが親切にしてくれるから、持ってただけのことだ。護身用にも使えるしな」
「へえ……。そうだったんだ」
美幸は、前から気になっていたことを聞こうと思い、雄爺に声をかけた。
「あの……、雄爺」
「何だ?」
雄爺が返事をしたところで、喜多村が声を上げた。
「あっ、穂積さん」
喜多村の視線の先には、穂積の姿があった。作業で汚れたスタッフたちの中だと、穂積のスーツ姿は少しだけ場違いに見えた。
「もう、復旧作業はほぼ終了したようですね」
穂積は、相変わらずの冷たい声で、喜多村に話しかけた。
「ええ、おかげさまで。ありがとうございました」
喜多村は穂積に一礼した。
「ご苦労様でした。それから」穂積は雄爺の顔を見て言った。「あなたにお伝えしたいことがある」
「俺にか?」
「ええ」
穂積はかけている眼鏡を右手で少し上げた。
「あなたには、一週間以内にここを立ち去るようにと、喜多村さんを通じて申し伝えましたが、このような事態となったので、期限を延期します」
「ということは、雄爺は、来週以降もここにいていいんですね?」
喜多村がやや興奮気味に訊ねると、穂積は喜多村の方を向いた。
「ええ。ですが、勘違いなさらないように。この方がここにいることを、我々は認めたわけではありません。あくまで当分の間だけです。状況を見てから、立ち去っていただく期限を改めてお伝えすることにいたします。それでいいですね?」
「ああ。そっちがそう決めたんなら、俺は構わんよ」
穂積の問いかけに対して、雄爺が頭をかきながら答えると、スタッフたちから歓声が上がった。
「良かったですね、雄爺」
美幸が雄爺の手を握りながら、笑顔で言った。
喜多村は穂積に近づき、言った。
「穂積さん、ありがとうございます。あの……」
「何です?」
「今日は、わざわざそれを伝えるために、こちらに来られたのですか?」
「そんなわけ、ないじゃないですか。現場確認で来たついでですよ」
穂積は、何を言っているんだと言わんばかりの、軽蔑混じりの眼差しを喜多村に向け、再び雄爺の方を見た。
「それから、あなたには、もう一つだけ言っておきたい」
「何だよ。まだあるのか?」
雄爺はうんざりした表情で応じた。
「今回の通行止の決定に際しては、当事務所で様々な情報を勘案し、最終的に私の責任で判断した。これは事実です。ですが、判断に当たっては、あなたの進言が大きく後押ししたことも、紛れもない事実であった。そのことだけ、お伝えしておきます」
穂積は、喜多村に「では」と声をかけ、足早にレストランを去っていった。
「何だい。あんなまどろっこしい言い方しなくたって、『雄爺のおかげです』って言えばいいのに。素直じゃないねえ」
秋山が憎まれ口を叩いた。
「雄爺に借りを作ったから、立ち退きを延期することで、その借りを返したんですね」
美幸が言った。
「延期って言ってるけど、事実上の撤回じゃないの?」
「きっとそうですよね」
二人はそこで、声を上げて笑った。
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