4章09.公共の場ですよ

 修学旅行を前にして、教室内にどんどん活気が溢れてきた。

 志乃を含め初めての海外というクラスメイトは多く、パスポートの申請に行ったとかイギリスの有名観光地はどこか調べたとか、そういう話で盛り上がっている。


 そんな中、三代だけはのんびりと構えていた。

 パスポートは既に持っていたし、海外――特にイギリスは――初めてではないので、未知の体験に対する高揚感のようなものが無いゆえだ。

 だから、志乃が「楽しみだね」と語るのに合わせて微笑むくらいに落ち着いていた。


 しかし、だ。

 これは一種の慢心ともいえる状態であり、そして慢心は往々にして大事なことを見落してしまう要因である。


「確かここらへんに……」


 修学旅行まであと僅かに迫ったその日。

 ちょうど水族館のアルバイトが休みであった三代は、机の引き出しの中を漁ってパスポートを探していた。


「あったあった」


 パスポートはすぐに見つかった。

 すっかり被っていた埃を払いながら、三代はなんとなくパスポートの中を見て――思わず苦笑した。

 小さい頃の自分の顔写真が貼ってあったからだ。

 と、その時。

 ふいに、パスポートの有効期限が目に入る。

 遠い昔に過ぎ去っていたその期限を見て、三代の額に玉のような汗が浮かんだ。


「……ちょっと待て。ヤバい」


 まさかの事態に、三代は慌ててマンションから飛び出ると、証明写真を撮れる無人の撮影機を探して駆け込んだ。

 機械をポチポチポチポチ連打して証明写真を撮り、スマホで調べながら走って申請窓口のある事務所へ滑り込むようにして入り、『ご自由にどうぞ』と置かれていた書類に必要事項を記入して列に並んだ。

 早く、早く、と逸る気持ちを抑えながら待っていると、自分の番がやってきた。


「次の方……更新ですか? それとも、新規の取得ですか?」

「更新期限がとっくの昔に過ぎ去っていたので、新規申請です。申請書類はさっきそこで書きました」


 すっと三代が書類を差し出すと、受付の女性は申請書類の確認を始めた。


「特に問題はなさそう――あっ、いえ、一点だけ漏れがありますね」

「え?」

「藤原さまはまだ成人ではないので、ご両親かあるいは後見人等の署名が必要になります」


 そういえばそんな欄もあった気がする。急いで書いたので、見落としてしまっていた。

 しかし、署名と言われても困った。両親は海外だ。どうやって署名を今すぐ貰いに行けばよいのか?

 三代は眉根を寄せて唸る。


「……署名を貰うのは難しいです」

「何かご事情がございますか? 何かご事情がある場合はご相談頂ければ可能な範囲でご対応いたします。個別のケースには柔軟な対応をするように、と外務省からの通達もありますから」

「……実は両親が海外にいて」

「ははぁ……でしたら、ご両親が海外で使われている電話番号とかは分かりますか?」

「えーと……354――××――××××です」

「354……アイスランドですね。時差が9時間10時間程度ですので、丁度向こうは朝の8時とかそのくらいですかね。お待ちくださいませ。……電話出るかな」


 受付の女性はデスクに置いている電話の受話器を取ると、三代が伝えた番号をプッシュした。


(頼む……父さんでも母さんでもどっちでもいい。出てくれ)


 三代は祈るように両手を合わせる。すると、十数秒の呼び出し音の後に『がちゃ』っと電話を取る音が聞こえた。

 よかった、と三代は安堵の息を吐いた。


「……突然のお電話恐れ入ます。こちら藤原さまの電話番号でお間違えございませんでしょうか?」

『はいそうですが……あの、見覚えのない番号ですがどちらさまでしょうか?』

「私、旅券課――ええと、パスポートセンターの〇〇と申します」

『……パスポートセンターの方?』

「はい」


 受付の女性は「ご確認したいことがございまして」と言ってパスポート番号を聞き出すと、三代が申請書類に記入した情報とのすり合わせを始めた。


「住所が同じ、苗字の書体も同じ……それでは、藤原三代さまのご家族でお間違えございませんか?」

『……え? あの、うちの息子がどうかされましたか?」

「実はパスポート取得の申請に来ていまして……年齢的にご両親の署名が必要でして……ご家族である確認を取ったのちに、署名の意志がございましたら、こちらで代筆という形で処理させて頂こうかと思いご連絡差し上げました」


『なるほど……でしたら、本人が申請したいと言うのであれば、代筆で構いませんけども……それにしても、急にパスポートの申請だなんてどうしたのかしら。すみません、そこに息子はいますか?』

「はい」

『代わって貰えますか?』

「かしこまりました」


 お話をされたいようです、と受付の女性から言われ、三代はキョトンとしつつも受話器を受け取る。


「……もしもし?」

『三代?』


 声で分かった。母親だ。


「うん。俺だよ俺」

『オレオレ詐欺?』

「違うって、本当に俺だって。声で分かるだろ……多分」

『その迂遠な喋り方……本人のようね。それで、どうしたのパスポートの申請だなんて急に』

「修学旅行がイギリスになったんだ。それで、昔のパスポートの期限が過ぎてたから再取得。さっき気づいて、修学旅行まで日も無いから慌てて申請にきたんだよ」


『……直前に確認して慌てるなんて誰に似たんだか。まぁいいわ。それにしてもイギリスねぇ。懐かしいんじゃない?』

「随分前のことだから、ほとんど覚えてない」

『覚えてない? じゃあもしかして、あの子のことも忘れて――いえ、なんでもないわ。今はどこに住んでいるかも分からないし、どうせ会えないでしょうから。それにあんたも彼女出来たそうだし。……お父さんから聞いたわよ』


「まぁ彼女は出来たけど……ってちょっと待って、どこに住んでるかも分からないって何の話?」

『だから、どうせもうあんたが関わることもない話だから、なんでもないわ。もうパスポートセンターの人に代わっていいわよ』


 なんだか気になるような話ではあったが、母親が『答えるのが面倒くさい』とでも言わんばかりに急かすので、三代も詳しく聞くのは諦めてパスポートセンターの女性に受話器を返した。


 ☆


 その後の話はとんとん拍子に進み、なんとかパスポートを修学旅行前に受け取ることができた。

 そして――出発の日。

 直接空港に集合、というスケジュールから始まることもあって、三代は志乃と一緒に空港に向かうことにした。

 くるくるとマフラーを首に巻いた志乃と電車に乗り、空港駅までガタゴトと揺られる。


「実はけっこー楽しみなんだよね、修学旅行」

「うん?」

「初めての海外だもん」

「……一人で行動したら駄目だぞ? 俺から離れるなよ。海外は道逸れると危ないこともあるからな」


「うん。離れない。……それにしても、なんか三代めちゃくちゃ落ち着いてるけど、海外に行くのに不安になったりとか、もしくはワクワクとかそういうのなかったりする?」

「俺は海外というかイギリスが初めてじゃないからな」

「え?」

「前に言ったことなかったか? 俺小さいころにイギリス住んでた」


 三代がしれっと言うと、志乃が驚きに目を点にして、続けて口をぽかーんと開けた。


「そういえば、志乃に教えたことなかったかもしれないな」


 三代は記憶を振り返りながら、小さくそう呟いた。

 イギリスにいた過去は意図して隠したわけではなく、教える機会が無く、そのまま今に至っただけに過ぎない。

 でも、今はそんなことよりも。

 鳩が豆鉄砲を食らったかのような表情になった志乃が面白くて、三代は思わず笑ってしまった。


「お、教えてくれればよかったのに~! いぢわるしてたの?」

「そういうわけじゃない。特に理由もなく海外在住経験を語るのも嫌味なだけだから、言う機会が無ければ言わない方がいいだろ」

「……知りたいもん」

「うん?」

「彼氏の小さい時ってどんなだったのかなとか、普通に知りたい」

「そういうものか?」

「そういうものなの」


 大好きな彼女にそう言われてはスルーすることもできないが、しかし語れるほど覚えていないのも確かだ。


「そうだな……色々あったような気はするが、ただ、あんまり覚えてないからな。イギリスにいた時のことは」

「……初恋とかあったりした?」

「なんだいきなり」

「気になるもん。ファーストラブ!」

「そんないかにも思い出に残りそうな出来事があったら、住んでた時のことを『覚えてない』なんて状態になってなかったろうな」


 三代がそう答えると、志乃は嬉しそうに笑った。


「じゃあ、三代が初めて好きになった女の子があたし?」

「だな。ちなみに……ちょっとした雑学みたいなもんなんだが、初恋をファーストラブと言うのは、ニュアンスというか印象が堅い言い方だな。子どもの頃とか、もしくは淡い感じの初恋の口語的な言い方は"First Love"よりも”Puppy Love”の方がそれっぽさが出るな」

「……Puppy Love?」


「Puppyは小さな犬とか、そういう意味になる。子犬のように幼く愛らしい恋的な比喩表現だな。まぁただこれはイギリスというより、アメリカ英語っぽい感じではあるが」

「……わんわん?」

「わんわん」

「なるほどね……初恋のこと子犬のような恋ってゆーんだ……でも、あたしたちはお互いに初恋同士だけど、それには当てはまらなさそうだね」

「当てはまらない?」


 三代が首を傾げると、志乃は少し間を溜めてから「だって」と続けた。


「……小さいわんわんは、激しい交尾なんてしないよ。大人のわんわんがすることだよ?」


 志乃は耳まで真っ赤に染め上げてそう言うと、口を尖らせてぷいっと横を向いた。

 激しい交尾――確かに、飽きることなく肌を重ね、ずっとそんな感じに愛を確かめ合ってはいる。

 ただ、その言い方は聞いている側まで恥ずかしくなるものであるから、三代も頬を赤らめて「……そうだな」と言うので精いっぱいだった。


 目の前の席に座っていたサラリーマンの男性が、「……けしからん。最近の若者は非常にけしからん。電車の中で交尾がどうこうとなんだその会話は。しかも女の子の方はすごく可愛い子じゃないか。それなのに、なんと破廉恥な」と呟いていたが、声音が小さく三代にはよく聞き取れず……。


 ただ、経験則的に、志乃はとても可愛いこともあって道行く人にじーっと見られることが頻繁にある。

 今回もきっとそれだ、と三代は思った。

 もちろん、それは彼氏として当然面白くないので、三代は体勢を変えて志乃を後ろからぎゅっと抱きしめた。


「わわっ、どうしたの?」

「他の人が志乃のことを見てるから、隠そうと思った」

「ほほう……あたしは隠しておきたい宝物だと?」

「そうだ」

「……じゃあ、宝物は大人しく隠されてないとね。ふふっ」


 子どものような独占欲を出している自覚は三代にも当然あるが、とはいえ、抑えようとは思わなかった。

 しょうがないなぁ、とでも言いたげに志乃が瞼を伏せて口元を緩ませる。そんな志乃のことが三代は愛おしくてたまらなかった。

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