4章08.まぁそういう目で見られるよね。
やり過ぎた、という事実に、三代は月曜日の朝になってようやく気づいた。
部屋の中を満たす甘い匂いは変わらずこびりつくようで、ベッドのシーツもチョコまみれであり、起きてそうそうに思わず頭を抱える。
若いからと言ってしまえばそれまでだが、しかし、それにしてもこの現状は爛れ過ぎている。
三代から遅れること数分後に起床した志乃も、すぐに鼻を抑えていた。
「なんというかその……何事にも限度ってあるよな。うん」
「すっごい……チョコ。甘すぎて嗅いでると頭くらくらしてくる。あと栗の花っぽい匂いもする~」
「栗の花っぽいのは仕方ないだろ……」
「ふふ、別に悪いとは言ってないよー? 栗の花っぽいのは好きな匂いだしね。三代のだけの限定だけど」
志乃のからかい方は男心をくすぐるようなものが多いので、今回もまたそんな感じだ。
朝から誘っているのか? なんて思わせるような言い方であって、恐らく今から求めても別に構わないのだろうが……しかし、今日は学校がある。
スルーした方が賢明だ。
「ところで……芳香剤とか置けばこの匂い解決するか?」
「芳香剤の匂いとブレンドされて大変なことになるよ多分。芳香剤じゃなくて脱臭とか消臭とかそういうのかな?」
「なるほどな」
「……まぁチョコべとべとは私が元々の原因だし、学校終わったあと脱臭剤買って置いてからバイトいく」
「別にいいってそこまでしなくて。俺も乗り気だったし……ん?」
ふと、三代の視界の端に床に落ちているコンドームが映った。
全部ゴミ箱にきちんと捨てたつもりだったのだが、どうやら一つ使用済みのものをそのままにしてしまっていたようだ。
三代はため息混じりに拾って捨てようとして――
「――は?」
青ざめた。
穴が空いていたからだ。
「どしたのー?」
「い、いや、これ……」
「あー……穴空いてるね? これは大変なことになっちゃったね? ねぇ三代」
「これつまり……」
「……もしかするとデキちゃうかも?」
「この歳で……パ、パパになるのか……俺……バイトも学校も辞めて正社員の職探しを始めないと……だが高校中退をすぐ雇ってくれる場所はあるのか……?」
「そこまですぐに考えるんだ? ふふっ」
「当たり前だろ責任は取らないと――」
「――ふ、ふふふっ」
「ど、どうした志乃?」
「あははははっ! 引っかかった引っかかった!」
志乃が楽しそうにお腹を抱えて笑い出し、アワアワとしていた三代は思わずきょとんと目を丸くする。
「いま……なんて? 引っかかった?」
「そだよー。三代が寝たあと、あたしがわざと穴あけて床にぺって投げてたヤツだしそれ」
「……え?」
「見つけた時にどんな反応するかなーって」
三代はそこいらの海溝よりも深い息を吐いた。
完璧に騙された。
ただまぁ、単なる冗談で本当に良かったと心の底から三代は安堵もした。
「心臓が止まるかと思った」
「むふふ」
「楽しそうだな……」
「そりゃそーだよ。彼ピの混乱する顔だけじゃなくて、あたしが嬉しくなる反応も貰えちゃったからね」
志乃が言う『嬉しくなる反応』というのは、三代がすぐに責任を取ることを考え、逃げたりしない態度を示したことだろう。
きちんとしてくれると教えてくれたから、安心していられる。万が一の時に不安にならなくてもいいと思えるのだ。
志乃が三代の男心をくすぐるように、三代もまた志乃の女心をくすぐっていた。無自覚に無意識に。
☆
さてそれから。
朝食を済ませて制服に着替え、二人揃って欠伸をしながら登校して教室へと入ると――途端に、クラスメイトたちが鼻をひくつかせたり眉を顰めた。
「あのさ……なんか……めちゃくちゃチョコの匂いがしないか? なにこれ香水かってぐらいするんだけどさ」
「……結崎さんと藤原くんの二人が入って来てからよね。まぁでもバレンタインだし」
「バレンタインって土日だったろ? 今日チョコの匂いするのおかしくね? 持って来てる風でもないし」
「二人から全く同じチョコの匂い……しかも全身から……これってつまり……」
「チョコ『あーん』しあったとかか?」
「いや……そんなことぐらいじゃ体中からってならないよ。というか朝にチョコ食べるわけないじゃん。どんだけ偏食なのよ」
「じゃあ何があったって言うんだ?」
「なんとなく想像つくけど……つまり塗って……いや、この話やめよう。私ら女子はキャーキャー言えるけど、男子は色々な意味でショックなだけだと思うわ」
「想像つくなら教えて欲しいんだが⁉ 気になるところで話をシャットダウンするのやめてくんね⁉」
男子はイマイチ想像がつかないようだが、女子はなんとなくで分かってしまうらしく、察する者が多かった。
そして、女子の中でも特に、志乃にチョコ作りを教わり、その時に何かを吹き込まれていた高砂の反応が顕著だった。
ゴクリと唾を呑み込んでいた高砂は、三代と視線が合うと顔を真っ赤にして逸らした。
「……ほ、ほんとにしちゃったんだ結崎さん。ちょこエッチ。べったりべとべと」
そういえば、高砂は委員長にチョコを渡せたのだろうか?
なんだかそれが気になった三代は、移動教室の時にこっそりと高砂に話しかけてみた。
「なぁ高砂」
「ひゃ、ひゃい」
「委員長にチョコ渡せたのか?」
「……わ、渡しました。ちゃんと。渡せました」
「なら良かった」
「は、はい。結崎さんに後でお礼を個人的に言いに行くつもりです。だ、だから、その、それじゃあなのです! ――ひぃぃぃぃ!」
高砂は真っ赤な顔のまま、両手をバタバタ動かして去って行った。
腫物に触れるかのような扱いは複雑な気分だが……ただまぁ、委員長とは上手くいっている様子なのは喜ばしいことだ。
付き合うまで持っていけたのかは分からないが、そこまで首を突っ込むのも出歯亀が過ぎる。
三代はやれやれと頭を掻いて歩きはじめる。すると、後ろからやって来た志乃に背中を叩かれた。
「いま何を話してたの?」
「委員長にチョコ渡せたのかなって思って、高砂にちょっと聞いて見ただけだ」
「ふぅん。それで?」
「渡せたってさ」
「おー良かった良かった。頑張ってたもんね」
「あとで志乃にお礼言いに行くとか言ってたな」
「別にいいのに」
「そういう性格なんだろ」
ゆっくり歩きながら志乃と会話していると、廊下の窓から差し込む陽光がふいに目に入り、三代は「うっ」と眼を細めた。
強い日差しは、少しの熱と薄い赤みを覆い被せるかのようにして周囲の景色を彩る。
次の瞬間。
それは再びに突然に、三代のいつかの記憶がフラッシュバックした。
★
i want to be free of that tease.(私もうからかわれたくない)
...amassed a sad heart.(ずっと耐えてたんだね……)
yeah, i'm being toun apart, what's wrong with ginger? i'm not a ranga! (赤毛は駄目なの? 本当に辛くて悲しいの。私の髪の毛はオラウータンの毛なんかじゃないのに!)
you have the beautiful hair, that's fairy of blessing! uh...looks like...strawberry jam!(駄目じゃないよ。とても綺麗で……そう例えるなら、いちごジャムみたいな可愛い色。妖精さんが塗ってくれたみたいな色だよ)
reallyyyy? i look like fairy...?(ほんとに? 私って妖精さんかな……?)
i'm not saying "you looks like fairy", hmm...(妖精さんが塗ってくれたみたいな色と言ったのであって、別に君の見た目が妖精みたいだと言ったわけじゃ無いんだけど……うーん……)
★
会話の相手は、はじめや小牧と一緒にいた時に思い出した人物と同じだ。
声で分かった。
顔はモヤがかかったままだったが、しかし、いちごジャムのような綺麗な長い赤毛の女の子であったことをおぼろげに思い出して来た。
(でも……本当に誰だったっけかな。それなりに仲が良い相手であったような気はするが)
二度も思い出すということは、頭の中にどこかにある程度は定着するくらいには親交のあった相手であるハズだ。
だが、思い出せない。
日本に来てから長らく味わったぼっち街道が強烈であったせいで、そればかりに記憶が偏重してしまったせいだ。
ぼっちであった頃の記憶や体験で上書きれて、お陰でピースの欠けたパズルをやっているような感覚になってくる。
「ぼーっとしてどしたの?」
「……なんでもない。立ち眩みしただけだ。昨日一日中運動会したせいかもな」
「言い方がおじさ~ん」
「そう言われてもな。他にどんな言い方ある?」
「『いっぱい好き好きしたから』……とか?」
「それはそれで恥ずかしくないか?」
「全然恥ずかしくないよー」
感じているよりも早く日々は過ぎて、そして、修学旅行も間近になった。
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