1章終話:恋人

 お菓子作りをしたあの日から、毎日考えるのは志乃のことばかりだった。

 勉強が手につかなくなり、日課として視聴している深夜アニメも内容が全く頭の中に入って来ない。

 自分がおかしくなっているのが良く分かる。


 分からない。


 全てが分からな――いや――分からないというのは自分自身の気持ちから逃れる為の言い訳であって、本当は分かっていた。


 ただ、万が一の傷つく可能性を無自覚に怖がったのだ。

 その為の自己防衛策として、無意識に”分からない”ということにしてしまっていただけだ。


 誰がどう見たって、志乃はハッキリと好意を示している。

 理由やキッカケは分からないが、それでも自分を好きになってくれたのだと行動で示してくれている。


「……」


 シャワーを浴びている途中で、浴室の壁に背中を預けてズルズルと座り込む。

 体中に当たる温水の粒が妙に心地いい。

 今この時だけは苦しい胸の奥の方が和らぐ気がした。


「俺は……どうするべきなんだ?」


 そんな言葉を呟いてみるが、内心では答えはもう出ていた。こんなにも強く心が乱されているのだから、もうそれが答えなのだ。


 でも、それでも自問自答を何度も何度も繰り返した。

 それは、逃げ場を無くす為の本能的な行いだ。

 いくら考えても辿り着く答えは一つしかない――そう自らを追い込むことで、腹を括ろうとしているのだ。


「……」


 時間が経つにつれて、徐々にスッキリした気分になっていく。燻り続けていた気持ちがストンと落ちるように入って来る。


「よし……」


 覚悟が決まった。

 三代はシャワーを止めてタオルを頭に被ると、リビングへと向かい、テーブルの上に置いていたスマホを手に取った。


 ――素直な気持ちを伝えよう。


 そう思った。それ以外の行動は取れそうに無かった。





「うん? ちょっと待て藤原。お前……なんか雰囲気変わったな?」


 いつも通りの学校生活を送っていると、すれ違った中岡から呼び止められ、そんなことを言われた。


「……そうですか?」

「なんというか、余裕というか落ち着きというか、そういうのが感じられるな。……お前もしかして」


 中岡は少し考える素振りを見せた後に、三代に起きた変化を察したようだ。気づかれてしまった、と三代は軽く頬を掻く。


「前に私が助言してやった時、あーだこーだと反論ばかりするから『こいつ駄目かもな』と思っていたが……やるじゃないか」


 バシバシと中岡に背中を叩かれ、三代は苦笑しながらも「ありがとうございます」と手短に伝えた。





 家に帰れば勉強をし、夜寝る前には深夜アニメを見る。

 今まで行っていたそんな日課を、三代は何の滞りもなく行える精神状態に戻っていた。

 そして――そんな勉強と深夜アニメの合間に、一つ別の日課が増えてもいる。


「……そろそろ21時か」


 時計の針を見て時刻を確認すると、三代は勉強道具を片付けてから、スマホのチェックをした。

 すると、『あともうちょっとで着くから♡」と志乃からの連絡が入っていた。


 増えた日課と言うのは、毎晩バイトが終わった後に家に来るようになった志乃と、色々と話をしたり遊んだりすることである。


 今まで21時の電車に乗っていた志乃が、それを1時間ズラすようになった。そして、空いた1時間を三代の家で過ごすようになった。


 そわそわしながら待っていると、インターホンが鳴った。慌てて玄関を開けると、そこには志乃がいる。


「やっほー」

「待ってたぞ志乃」

「あたしも待ち遠しかったー。えいっ!」


 飛びついて来た志乃を三代は抱きかかえた。

 必然的にお姫さま抱っこをする体勢となり、そのまま部屋の奥へと入っていく。


「……そういえば、俺と付き合うようになっても、それでも男はまだ苦手なままか?」

「うん。三代以外は全然駄目なまま」

「大変そうだな」

「大変でもないよ。……だって、あたしのこと貰ってくれるんでしょ?」


「もう俺も吹っ切れてるから、照れ隠しとか一切言わないぞ。当たり前に貰う」

「なら家庭に入るんだから他の男が苦手なままでも何も問題なーし。……それに、あたしが他の男と仲良く話してたりしたら嫌じゃないの?」

「それは……嫌だが……」

「でしょ! ……ところで、まだ今日聞いてない言葉があるんだけど」


「……大好きだ。愛してる志乃」

「ふふっ。あたしもだよ」


 ぱたり、と玄関の扉が閉まった。

 その隙間から漏れだしていたのは、恋人同士の男女が放つ特有の甘ったるい空気であった。

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