クロコッタの怪
鯨ヶ岬勇士
クロコッタの怪
僕は電話が嫌いだ。向こう側に何がいるのかもわからないのに、親しい人の声で親しげに話しかけてくる。そして、ああしろこうしろと僕を操ろうとする。
最近は電話を飛び越えて、ウェブを使って連絡を取ることが増えてきた。そのアプリケーションの名前はいくつかあるが、どれも小さな小窓を通じて話し合う。嫌いだ。そこに映っていない空間に何がいるのかわからないし、何より相手が急に自分の縄張りに飛び込んでくる。
どちらにしても異物が、自分の中に入ってきて行動だけではなく、思考までも操ろうとする。それを受け入れるなんて気味が悪くて仕方がない。それではまるで、尻の穴にカメラを無許可で突っ込まれたような気分だ。何故平然としていられるのかわからない。
疲れて泥のように――最近はいつもだが――眠っていると、冷や水をかけられるように携帯のアラームで目覚める。それは自分で仕向けたものではなく、この携帯を通した何者かによる差金だ。
「はい、もしもし」
電話番号だけが表示されている画面を叩き、正体不明の怪物と対峙する。
「こちら、
ああ、最悪だ。この前、ウェブ上でエントリーしたIT企業からの電話だった。応募したのは自分の判断だが、それは周りからの圧力によるところが大きい。
周りの理想像に合わせて生きる。それができないものは、敗北者の烙印を押される。それが多様化と自由な社会の実情だ。
電話の内容は単純、期日までにホームページから履歴書をダウンロードして印刷し、手書きで記入をしたあと、もう一回データ化してメールで送って欲しいとのことだ。
意味がわからない。不要な手間を取らせ、僕の人生を奪っていくだけの作業だ。ITという意味をもう一度考え直した方がいいと思う。
そんなことを思っていても、口には出せない。見えもしない相手にぺこぺこと頭を下げる。何の時間だ。余命80年の中の貴重な10分を奪われていく。ああ、無情だ。
その最中、ふと友人の話を思い出す。それはエチオピアの怪物の話だ。
その名はクロコッタ――姿は巨大なハイエナに似ていて、不潔で臭いらしい。だが最大の特徴はその鳴き声だ。クロコッタは人間の声を真似る。死んだ人や、愛する人の声を真似て自分の縄張りへと誘い込み、行動も思考も完全に支配する。そして、最後は頭からかじりついて食べるのだ。
この怪物の退治方法は――何も思い出せない。もっと真面目に聞いておけばよかったと思う。そうすれば、この状況を解決できたのに。
この電話先にいるのは誰なのだろうか。焦る就活生を食い物にする人事部の社員か、それとも誰かの声のすがる人間を食い物にするクロコッタか。
その答えは――どうでもいい。クロコッタの退治方法はわからないし、人事の社員の退治方法はもっとわからない。だが、どっちも僕の人生を食い物にする怪物であることは同じだ。
僕は羊だ。ハイエナには勝てない。出来ることと言ったら、ただ痛くしないでくれと願うのみ。相手がクロコッタだったら一気に、肉のひとかけらも残さずにぺろりと平らげる。そうではなく、相手が人事の社員だったら電話で10分以上、履歴書で1時間以上、面接とその結果待ちで1週間以上、入社できたら30年以上とじわりじわり平らげていく。
そう考えると、人思いに喉笛をかっ切ってくれるクロコッタの方が慈悲があるかもしれない。だとすれば、電話の先にいるのがクロコッタであることを切に願う。
「――さん、聞いていますか」
「はい、聞いております。それでは8月末までですね。承知いたしました」
外から蝉の鳴き声がぐわんぐわんと響く。まるでヘヴィメタルのエレキギターのようだ。僕の心が歪んでいるのか、それとも大自然のエフェクターのせいか、わからないが脳をめぐる血が沸騰している。
頭がぐらぐらと沸き立つ中、電話を切り、その間、無意識に取っていた殴り書きのメモを見る。
『息ができない。助けてくれ』
電話の先のクロコッタに喉元を噛みつかれたのか、その時の思いがそこに残されていた。それを見ると自分が情けないのか、その記憶を恐れているのか、ボールペンでぐりぐりと塗りつぶす。それでもその裏から薄っすらと滲む言葉を恐れて、メモを破って捨てた。
ああ、今日だけでかなりの寿命をクロコッタに持っていかれた。そう思い、敷布団に寝転んで、クーラーの無機質な風を浴びながら天井を見つめる。
そうして息を整えようとするが、クロコッタの牙が胸に残した傷痕が、ちくちくと疼き、いてもいられずに飛び起きて、パソコンに火を入れた。
心療内科の医者から言われたことを思い出す。
「時には就職活動から離れて休んだ方がいい。そうしないと君はもう――」
そんなことはできない。僕の首元はクロコッタの牙という黄ばんだ牢の格子に囚われているのだから。
そうして今日も、僕はクロコッタに食われていく。
クロコッタの怪 鯨ヶ岬勇士 @Beowulf_Gotaland
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