第4章 合戦

「開門、開門!」

 今川館の前に、軍勢が集結しつつあった。

 伊勢新九郎盛時いせしんくろうもりときが約五十年前に、寿桂尼じゅけいにの夫である今川氏親いまがわうじちかを当主にするために挙兵して以来の、駿府内の騒乱である。

「我こそは今川良真いまがわながさね寿桂尼じゅけいにさまに目通り願いたい!」

栴岳せんがく承芳しょうほうを出せ!」

 良真ながさね越前守えちぜんのかみは館の正門の前に立ち、扉を突き破らんばかりに叩いていた。

 丸太を持ってこさせようとしたとき、扉の向こうから声が聞こえた。

「……開門いたす。下がられよ」

 門が、重々しい音を立てたかと思うと、ゆっくりと開き出す。

 開いた隙間が徐々に大きくなっていき、その武将の姿が露わになっていった。


 鎧直垂よろいひたたれ立烏帽子たてえぼし

 ほのかに焚きめた香のにおい。

 魁偉な体躯に、堂々たる雰囲気。


 良真ながさね越前守えちぜんのかみに耳打ちする。「あれは誰か」と。

 越前守えちぜんのかみは「知らぬ」とささやく。

 良真ながさねは意を決して、問うた。

「だ、誰じゃおぬしは?」

「つれないお言葉じゃな、兄上」

「貴様――承芳しょうほうかッ」

 良真ながさねの驚きと怒りに、義元よしもとは微笑で応じた。

承芳しょうほうではない。義元よしもとじゃ、見知りおけ」

「は、話がちがうぞ。貴様、駿河を出て行って、京へ……」

栴岳せんがく承芳しょうほうの話だろう。残念ながら、予は義元よしもと――今川義元いまがわよしもとじゃ。栴岳せんがく承芳しょうほうではない」

「う……ぐっ」

 侮っていた。

 幼き頃は、兄上兄上と従っていた。出て行けと言えば、その通りにして、二度と帰ってこない。そう思っていた。それが――

承芳しょうほう――貴様、貴様も、俺を置いていくのかあッ」

 良真ながさねの渾身の抜刀に、義元よしもとも抜刀した。


 白刃と白刃。

 散る火花。


 つばり合いを繰り広げる良真ながさね義元よしもとに、越前守えちぜんのかみは手を出せずにいた。

 大将自ら斬りかかるとは何事だ。敵は一人、囲んで始末すれば事足りる。懊悩おうのうする越前守えちぜんのかみは怒号した。

「ええい、誰か、良真ながさねさまを引きはがせ! このままでは彼奴きゃつめを討てん!」

 越前守えちぜんのかみのその命令は、背後からの喊声かんせいで中断された。

「何事か!」

「て、敵襲です!」

「敵!? 今、駿府で我ら以外に兵を差し向ける奴がおるか!」

「し、しかし」

「旗印を見てこい!」

 駿河の豪族の誰かか、しかし根回しはしてあるはず。ならば甲斐かいの武田か、いやあそこは余裕がない……と思案を巡らす越前守に、知らせが届いた。

うろこです! 三つ鱗の旗印、ほ、北条の軍勢です!」

「北条だと?」

 越前守えちぜんのかみは自ら目で確認すべく後方へ向かうと、そこに知った顔があった。


「久しいの、福島越前守えちぜんのかみ

「貴様……太原たいげん崇孚すうふ!」

 黒衣の禅師が、北条家の武将の隣に立っていた。その光景で、崇孚すうふが北条家へ根回しをして、軍を呼び寄せたことが知れる。

 崇孚は前へでて、越前守に問う。

越前守えちぜんのかみ、貴殿の国内への根回しと、甲斐の国力への読みは良かったが……肝心の北条への策は無かったのか?」

「だっ、黙れ! 今川館を手中にすれば、駿河・遠江に号令し、北条への討ち入りを……」

「その号令するまでに、なんぞ適当なことを言って、時間稼ぎくらいすれば……」

「禅師、そのくらいに」

 北条家の武将も前へ出てきて、問答をさえぎった。

「福島越前守えちぜんのかみ、拙者は北条長綱ほうじょうながつなと申す。主、氏綱うじつなに代わって、この場へ参った次第」

「北条……長綱ながつな氏綱うじつなの弟か!」

「拙者と主への呼び捨ては措こう。が、貴公の謀叛むほんは見逃せん。義元よしもとどのと良真ながさねどののとして、成敗いたす」

 北条長綱ほうじょうながつな、後に北条幻庵ほうじょうげんあんとして知られる武将は、配下の軍勢に目配せする。越前守えちぜんのかみは進退窮まったことを悟った。が、さすがに戦国を生きる武将らしく、すぐさま長綱に吶喊して斬りかかった。

越前守えちぜんのかみさまにつづけ!」

長綱ながつなさま、お引きを!」

 越前守えちぜんのかみの軍と、長綱ながつなの軍も激突し、合戦がはじまった。



 良真ながさねはもう何度目かの斬撃を繰り出した。

「俺が貴様に武術を教えてやった! 俺に一日いちじつの長がある!」

 義元よしもともまた合わせるように刀を薙ぎ、良真ながさねの斬撃を跳ね返す。

「されど、一日だけでは予をしのげぬぞ!」

「おのれ!」

 こうなれば是非も無し、取り囲んで始末してくれる。

越前守えちぜんのかみ、何をしておる! 早う加勢せぬか!」

 背後からの反応が無く、良真ながさね義元よしもとに刀を突きつけながら振り向く。

 そこは乱戦が展開しており、越前守えちぜんのかみの姿は見えなかった。

「……先程から、北条との合戦がはじまっておった。気づかなかったのか、兄上?」

「何?」

 いぶかしむ良真ながさねの眼前に、越前守えちぜんのかみの兵の首が飛んできて、落ちた。

 あるべき体から切り離された、生首が。

「ひ……ひいっ」

 動揺する良真ながさねに、あきれ顔の義元よしもとが声をかける。

「何を恐れる。兄上も予も寺に居た身。とむらいは日常茶飯事。むくろなど見慣れておろう」

「こっ、殺されたばかりのだぞ! 自分が殺されるかもしれんのだぞ!」

 良真ながさねは刀を放り出さんばかりに振り回し、生首を遠ざけようし、一方で後ろから迫る義元よしもとにも気づき、恐慌状態におちいった。

「や、やめろっ。俺は死にたくない! 越前守えちぜんのかみ、俺はここだ! 早う、早う!」

「見苦しきかな、兄上……」

「だ、黙れえっ! お前だって死ぬのが怖かろう! ちがうか!」

「怖くはない。この義元よしもと還俗げんぞくしたときより、この首討たれること、覚悟しておる」

「な……なんだと?」

「大将首だ、当たり前ではないか。名のある武士だけではない、足軽雑兵すら狙うてくるぞ……兄上は還俗したとき、そうは思わなんだか?」

「な……な……」

 良真ながさねは、今川の当主になることだけを考えていた。そして当主になれば、存在として、輿こしに鎮座していれば済むと思っていた。今も、越前守えちぜんのかみが来れば、彼に守りにあたらせ、自分は逃れようとしていた。

 だが義元よしもとはちがった。その首討たれることは考えのうち。それよりも己の目的を遂げるために、自ら戦っている。今も、越前守えちぜんのかみを合戦で破るだけでなく、確実に良真ながさねを討とうと刀を取って迫っている。

「…………」

 ゆらりと。

 義元よしもとが一歩、前に出た。

 良真ながさねは一歩、後ずさる。

「や、やめろ、承芳しょうほう……いや、義元よしもとどの、お、俺は花倉へ帰る。もう寺から出ない。だから……」

「……それももう、手遅れじゃ。兄上」

「な、何を言っている?」

 義元よしもとの視線の先、いぶかしむ良真ながさねの後方、越前守えちぜんのかみと北条家の市街戦の向こうに、早馬が来ていた。


「伝令、伝令! 越前守えちぜんのかみさまは居られるか!」

 早馬の武者は、混戦の最中さなかにいるはずの越前守えちぜんのかみを見つけられずにいた。

 それを見た太原たいげん崇孚すうふは、得たりかしこしと、早馬の武者に声をかける。

越前守えちぜんのかみさまは手が離せない! 火急のこととお見受けした、そのまま伝えよ!」

 武者は焦っていたせいか、崇孚すうふに対して疑念を抱かず、つい伝令の内容を口にしてしまう。

「しからば――方ノ上かたのかみの城が岡部親綱おかべちかつなに攻められております! 越前守えちぜんのかみさま、至急、お戻りあれ!」

「何い!?」

 乱戦の渦中にいた越前守えちぜんのかみが驚愕する。

 それを見た兵たちも動揺する。

方ノ上かたのかみが」

「花倉はどうだ」

「前を見ろ」

「今はそれどころじゃない」

「死にたくない」

「退くなら今だ」

 越前守えちぜんのかみは周囲の兵たちが混乱していくのを止めることができなかった。

 ただ、戦場に不似合いな僧侶姿の太原たいげん崇孚すうふの微笑が目に入った。

崇孚すうふ、貴様……図ったな!」

「貴殿が自ら出兵したのだ。その留守を狙うは自明の理。備えをしていなかった、貴殿が悪い」

「黙れ。貴様が……貴様が岡部おかべを焚きつけたのであろうがっ」

 越前守えちぜんのかみが、崇孚すうふにつかみかかろうとした。

 刹那。

 良真ながさねの悲鳴がとどく。

「やめろおっ! 死にたくないっ! は、花倉へ帰せ戻せえ!」

 越前守えちぜんのかみはあからさまに侮蔑の表情を浮かべた。

「な、良真ながさね、貴様、今そのような……」

「に、逃げろっ。良真ながさねさまが退くよう仰せだ! 逃げろ逃げろ!」

 兵たちは格好の口実を見つけ、我先にと走り出していた。


 越前守えちぜんのかみの軍は退いた。

 良真ながさねは辛うじて逃れ、軍との合流を果たし、越前守えちぜんのかみともども、うのていで去って行った。

 長綱ながつなは深追いしなかった。兵の損耗を避けたかったというのもあるが、駿府内に軍を留めることにより、内乱鎮圧の功績を認めさせることが狙いだった。

「ご苦労でおざった」

 崇孚すうふがいつの間にか長綱ながつなの隣に立っていた。なかなか油断のならない僧侶である。

「お互い様でござる……しかし禅師、ひとつよろしいか?」

 長綱ながつなには、この駿府遠征の始まりから、一つの疑問があった。

「何なりと」

義元よしもとどのと禅師は、遠江・駿河に越前守えちぜんのかみが網を張っていたのに、いかにして伊豆に来られたのか、それを知りたい」

 義元よしもと崇孚すうふは数日前、突如として伊豆に現れ、長綱ながつなに面会を求めた。面食らった長綱ながつなだが、奇貨居きかおくべしという判断を下し、当主の氏綱うじつなに早馬を飛ばして義元よしもと支援の了解を求めた。氏綱うじつなも早馬で了解の旨を寄越し、そして現在に至る。

 崇孚すうふは禿頭を掻きながら答えた。

「……少々、山部赤人やまべのあかひとの心持ちを味わいとうて」

「海路ですな。なるほど……」

 長綱ながつな生粋きっすいの趣味人である。新古今和歌集しんこきんわかしゅうにも載せられているが舞台の和歌を、すぐ思い出すことができた。

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