第3章 変貌

 駿府、今川館。

 この年の五月の駿河は暖かく、もはや初夏と言っても差し支えない。

 常の年なら、本格的な夏へ向けて、士民ともども活発になるところだが、この館の住人はそれどころではなく、むしろ心は厳寒の冬のようであった。

 館の奥の一室にて、尼と、魁偉な直垂ひたたれ姿の青年である。

「……栴岳せんがく承芳しょうほうよ」

 尼――寿桂尼じゅけいにの問いに、直垂姿の青年――栴岳せんがく承芳しょうほうと呼ばれていた男は応える。

「何でございましょう、寿桂尼じゅけいにさま」

「そなたは良真ながさねの言いつけに従い、みやこへ行ったのではなかったのかえ?」

「行くには行きました。しかし、帰ってきました」

 男は、にっと笑う。覗いた歯は、黒く染まっていた。

「……これは失礼。京ではこのような化粧けわいをしていると、かしこき方たちと話やすいのでございます」

「……鉄漿おはぐろのことは良い。わらわは中御門なかみかどの生まれ。よう知っておる。それより、じゃ」

 寿桂尼じゅけいには一呼吸おくと、凝然きっと承芳をにらみつけた。

 尼御台あまみだい

 その敬称で、駿河の統治者として尊崇される彼女の迫力に、男はこうべを垂れて控える。

「なぜ、帰って来たのか。それを聞いておる。答えよ、承芳しょうほう

「…………」

 直垂ひたたれの男は無言のまま、垂れたこうべをゆっくりと上げた。さながらそれは、獲物を前にして、鎌首をもたげる大蛇のごときであった。

尼御台あまみだい

「……なんじゃ」

尼御台あまみだいと呼ばれるお方が、今の話でお分かりにならぬとは、ちと寂しゅうございますな」

「何ッ」

 寿桂尼じゅけいには、今度は完全に怒りをあらわにする。

 男は涼しい表情でそれを眺め、そして、言った。

「……拙者は京で、公方くぼうさまにお会いして来ました」

「く、公方くぼう

「左様。征夷大将軍、足利義晴あしかがよしはるさまです」

「そなた、では……」

義晴よしはるさまの義の一字を賜り、義元よしもと、という名乗りを許されました。私が今川の家督を継ぐことを許されたのです。つまり……」

 おもむろに、直垂ひたたれの袖を振って威儀を正した男は宣言した。


「予は、今川義元いまがわよしもとである」


 つい先ほどまで、うやうやしい態度であった男は、今や、大大名にふさわしき貫禄をそなえていた。

 海道一の弓取り、今川義元いまがわよしもとの誕生である。

 寿桂尼じゅけいにはまるで怪物を見るような目で義元よしもとを見た。そして、事態を理解すると、あえぐように声を出した。

「……公方くぼうさまが、そうせい、とおっしゃたのかえ?」

公方くぼうさまというか、おそばの方々に、さすれば駿河を意のままにできる、と説き……あとはまあ、師が鼻薬を利かせたのであろう」

 義元よしもとは云う。上洛して、将軍の側近に働きかけ、今川を幕府の影響下に置くには、外戚のある今川良真いまがわながさねではなく、何の外戚も後ろ盾もない栴岳せんがく承芳しょうほうに家督を継がせるべきと説いた。かつ、師である太原たいげん崇孚すうふは、出身が駿河の豪族であり、海運業にも手を出していた。そこから資金を繰り出し、鼻薬――賄賂をばらまいたのだ。

承芳しょうほう……いや、義元よしもとどのはそれで良いとして……それを良からぬと思う者はどうする? 例えば良真ながさねは、はらわたが煮えくり返る思いであろう」

「左様」

 義元よしもとはいつの間にか扇子を取り出して、ひらひらとさせながら、微笑した。

 かつての礼儀正しい禅僧がここまで変貌するものか、と寿桂尼じゅけいには嘆息した。

「もう策を打ってある……と?」

「兄上のこと、そろそろ……いきり立って花倉から兵を繰り出してくる頃。この今川館を急襲し、有耶無耶のうちに、駿河を盗るという魂胆……読めておる」

 義元よしもとがふと襖に目を向ける。

 足音が聞こえ、駆けてきた家臣が告げた。

「申し上げます。良真ながさねさま、福島越前守えちぜんのかみさまが、手勢を率いてこちらへ向かっております。いかがなさいますか?」

 寿桂尼じゅけいにが返事をする前に、義元よしもとは立ち上がっていた。

「大儀。では、予が相手しよう。その方、寿桂尼じゅけいにさまのおそばにいて、お守りするように」

「よ、義元よしもとどの……」

 寿桂尼じゅけいにが異を唱える前に、家臣は義元よしもとに対し、頭を下げた。

「はっ、心得ました」

「うむ。ご苦労」

 義元よしもとはゆっくりと部屋を出て行った。

 寿桂尼じゅけいにはその後姿を眺めながら悟った。

 この今川館の主は、義元よしもとが訪れるまでは、寿桂尼じゅけいにだった。

 しかしこの時から、今川館の主は義元よしもとになった。

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