第2章 花倉

 駿府内の荒れ寺の出来事より、およそ一月後。

 駿河するが、花倉(静岡県藤枝市)の城。

「……堀越が加わったか。で、井伊は?」

「はっ、井伊谷へも使者を遣わしております。吉報はじきに」

「よかろう。で、岡部おかべは、岡部おかべ親綱ちかつなはどうなっておる?」

「それは……」

 今川良真いまがわながさねの居城・花倉では、福島越前守えちぜんのかみ遠江とおとうみの各豪族へと働きかけをおこなっていて、今ではほぼ越前守になびきつつあった。それと並行して、越前守は近くの方ノ上城かたのかみじょう(静岡県焼津市)を占拠し、勢力を拡大しつつあった。

「………」

 脇息きょうそくにもたれかかった良真ながさねは、越前守えちぜんのかみが主人然として家人に指示するのを苦々しく眺めていた。

 今川の主は俺だ。越前守えちぜんのかみではない。

 その憤怒が、沸々ふつふつと胸中から湧く。

 良真ながさねは、いつも置いてけぼりだった。長兄は当主として、次兄はその跡取りとして扱われていた。だが側室の子である良真ながさねは、この花倉の寺に預けられた。

 今川の跡目とは関係ないとばかりに。

 そのうち、やはり側室の子である弟がいることが分かった。

 その弟も寺に入れられた。不憫に思った良真ながさねは、弟を花倉に誘い、遊んだり、もしもの時は今川のために戦えるよう、武術を教えたりした。

 しかし弟は、俊秀であることを買われ、駿河きっての禅師である太原たいげん崇孚すうふみやこへ連れていかれてしまった。

「どいつもこいつも……」

「何かおっしゃいましたかな、良真ながさねさま」

 何が良真ながさねさま、だ。良真ながさね越前守えちぜんのかみのとぼけた物言いが気にくわなかった。だが、祖父であり、何よりも、自分を今川の当主にするための後ろ盾である。

 無下にはできない。

 少なくとも、表面上は。

「いや、承芳の奴は、駿河を出て、何処へ去ったのかと思うてな」

「左様ですか」

 越前守えちぜんのかみは小馬鹿にしたような目で良真を見ていた。

「何じゃ、その目は」

「……いえ、他意はございませぬ。寿桂尼じゅけいにさまの願いどおり、承芳しょうほうさまを殺さずに退去させたこと、誠にお見事。これで良真ながさねさまの跡目を継ぐこと、寿桂尼じゅけいにさまは拒めませぬな」

「そう思うのなら、はよう駿府へ行こうではないか。遠江など、その後でどうにもなろう」

「お甘い」

 越前守えちぜんのかみはぴしゃりと良真ながさねの性急さを制した。

 さすがに大国駿河の重臣だけあっての迫力で、良真ながさねは黙り込むしかなかった。

「よいですか、寿桂尼じゅけいにさまは確かに、承芳しょうほうさまを殺さずに追放すれば、跡目は良真ながさねさまとなろう、とおっしゃいました。しかし」

 越前守えちぜんのかみは扇子で床を叩く。

「……しかし、寿桂尼じゅけいにさまが良かろうと、近隣諸国はいかがでしょうな?」

「…………」

「分かりませぬか」

 分かろうはずがない。良真ながさねはつい最近まで寺にいて、俗世間から意図的に切り離されていた。

「分からぬようなら申し上げる。北条でござるよ。北条がかつて、今川のお家騒動を鎮めたこと、まさかそこまで知らぬとは……」

「知っておる!」


 ――伊豆・相模・武蔵の三国にわたる領国を持つ大名、北条家。その成り立ちは、始祖・伊勢新九郎盛時いせしんくろうもりとき(後世に北条早雲ほうじょうそううんとして知られる人物)が、姉の嫁ぎ先である今川家のお家騒動を解決した功績により、駿河東端の興国寺城こうこくじじょうを与えられたことに始まる。

 ちなみにそのお家騒動とは、盛時もりときの甥の龍王丸たつおうまる(後の今川氏親いまがわうじちか良真ながさね承芳しょうほうの父親)と、その叔父である小鹿範滿おしかのりみつの間の家督争いである。盛時もりとき龍王丸たつおうまるを今川家の当主に据えた。以降、盛時もりときは当主の叔父という立場から、今川家中で隠然たる勢力を誇った。

 現当主・北条氏綱ほうじょううじつなは盛時の息子であり、北条家の版図を武蔵まで広げた人物でもある。今川家の当主になるにあたっては、彼の意向は無視できない。


「知っておられるのなら、それでよろしゅうございます。なればこそ、この越前守えちぜんのかみが、遠江の豪族たちを味方につけておる……のです」

 敬語が外れかかっているぞ、と良真ながさねは思ったが、越前守えちぜんのかみはそれを知る由もなく、話をつづける。

「これは遠江を後ろ盾に北条の口出しを阻止するという筋書き。結局、寿桂尼じゅけいにさまも北条をいたく気にしておられるゆえ」

「ふん」

 結局のところ、北条の口出しを阻止したいのは越前守ではないか。今川氏親いまがわうじちかの息子である以上、良真ながさね、そして承芳しょうほうも、北条氏綱ほうじょううじつなの親戚であることには変わりない。氏綱うじつなとしては、どちらであろうと、血筋と国力を背景に、影響力を維持できる。

 越前守えちぜんのかみはそれが厭なのだ。北条に取って代わり、当主の祖父として、今川家を牛耳りたいのだ。

 良真ながさねの中で、そのような疑念が湧いてきたそのとき、花倉城の廊下を乱暴に駆けてくる足音が聞こえた。

「ご注進! ご注進!」

「何事か! 御前であるぞ!」

 誰の御前だ、お前かと皮肉を言おうとした良真ながさねの耳に、駆け込んだ越前守えちぜんのかみの家臣の衝撃的な言葉が届いた。

「せ、栴岳せんがく承芳しょうほうさまが、駿河に現れました! 太原たいげん崇孚すうふ禅師も一緒です!」

「何!」

越前守えちぜんのかみ、この花倉は上方から駿河への通り道、まさか奴らを見逃してはいまいな?」

「し、信じられん……法体僧形ほったいそうぎょうの者は、見つけ次第捕らえよと言うてある」

「だが奴らは駿府に現れた。こはいかなることぞ?」

「……ぐっ」

 今川家の重臣であり、軍事・外交を司ってきた福島越前守えちぜんのかみともあろうものが歯噛みして悔しがった。

 良真ながさねはそれをしり目に、城門へと向かった。

「馬引けい!」

良真ながさねさま、いずこへ?」

「知れたこと、駿府じゃ! かくなる上は是非もなし。寿桂尼じゅけいにさまに、力づくで家督を認めさせるまで!」

「そうじゃ! 良真ながさねさまにつづけ!」

 越前守えちぜんのかみ良真ながさねにつづいた。今、駿府を、寿桂尼じゅけいにを制さなければ、今川家の実権を握ることはできないと悟ったらしく、花倉と方ノ上に集結している全軍を招集し、一路駿府へと進軍した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る