たとえ身代わりでも愛されたい
砂鳥はと子
たとえ身代わりでも愛されたい
兄の妻であり、私の義理の姉である
ようやく暑い夏が過ぎ去り、涼やかな秋風が吹き始めた頃。
私にとっての兄、小夜子さんにとっては夫である
実家の前にあった畑を潰して建てた、兄と小夜子さんの新居。
その日はこちらの家に泊まることにした私は、いつもよりお酒が進んでいた。
一方、小夜子さんも楽しそうにお酒をハイペースで飲んでいた。普段はお酒に強い人だったけど、その日は兄の思い出話を尽きるまで語ったせいなのか、かなり酔っていた。
「新一郎さん」
小夜子さんは私の肩にもたれると、切なげな瞳で私を見上げていた。
私がよく知る、穏やかで包み込むような小夜子さんはなく、心を許した人に甘えるような仕草。
そこに映るのは私ではなく亡くなった兄の姿なのだろう。初めて見る小夜子さんの表情だった。
私はようやく、兄にすり替わることができたのではないかと思い、小さく笑みを浮かべた。
兄が亡くなってから私は髪を短くして、服装も兄が好んでいたものに近づけた。
女である私がいくら顔立ちが似ているとは言え、兄にすり替わるなど無謀だと分っている。
それでも錯覚でもいいから、代わりでもいいから私を見てほしかった。
酔いの力でも過ちでもいい。
ただ私は小夜子さんを自分のものにしたかった。
初めて会った時からずっとずっと恋い焦がれていた彼女に、少しでもいいから近づきたかった。愛されたかった。
兄が亡くなり、叶わないと思っていた恋にようやく届く。
「小夜子さん」
私は静かに彼女を抱き寄せた。拒否されることなく、私の腕に身を投げ出す。
私の手は喜びなのか、緊張なのか、少し震えていた。
顔を近づけても、背ける素振りはない。それどころか、目を閉じて私の腕をぎゅっと掴んだ。
その時私は初めて小夜子さんに手を伸ばした。
その日の夜、私は無我夢中で小夜子さんを愛した。彼女がじわじわと快楽の海に沈むのを眺めながら、確かな手応えを感じ取る。
どんな方法でもいい。ただ小夜子さんには私だけを感じて欲しい。
女同士だって、いくらでも肌を重ねることができる。
私は何度も何度も、飽くまで小夜子さんを享楽へと誘った。
翌朝目が覚めた時、小夜子さんに軽蔑される覚悟も、全て忘れられている覚悟もできていた。
自分でも酔いの過ちで好きな女と寝るなんて、いい結果が待っているわけではないと分かっている。
小手先で得た幸せなど短いに決まっているのだから。
乱れたシーツに二人並んで顔を合わせる。
私は痛いくらいに小夜子さんを見つめた。
少し恥ずかしそうにしながらも、小夜子さんも私を真っ直ぐに見つめている。
「あのね⋯⋯」
どんな答えでも私は逃げない。いや、逃げられない。たとえ、胸を抉られるような返答が来ようとも。
だけど小夜子さんは予想外の答えを私に返した。
「寂しい時にまた昨日の夜みたいに側にいて欲しい。新一郎さんならそうしてくれるでしょう?」
そう言われて、私はこの人が求めてくれる限りは兄でも何でも演じてやろうと思った。
私に抱きつき、好きな人に甘えるように寄り添う彼女を優しく抱きしめる。
体中が幸福感で満たされてゆく。
好きな人に愛されるのなら、私が私でなくても構わない。
兄の幻想にでもなって側にいられるなら本望だ。
「新一郎さん、愛してる」
今まで聞いたことがないとろけるように甘い声が私の耳にこだまする。
「新一郎さん⋯⋯!」
私は唇を塞いで一心不乱に小夜子さんを求めた。
いつもは落ち着いていて、私が憧れた大人の小夜子さんはいない。
好きな人にしか見せない、どこか脆くて頼りなくて守ってあげたくなるような、愛おしくも可愛らしい女性がそこにいた。
(兄さんが小夜子さんを好きになった気持ちがよく分かる)
無心で狂おしいほどに愛したい。
強い衝動が私の中でうごめく。
兄さんにしか見せなかったであろう、小夜子さんの知らない一面が増えてゆく優越感。
周りの誰もこんな小夜子さんは知らない。
私だけの、愛おしい人。
お互いに魂を貪るかのように私たちはただ求め合った。
二人だけの夜は身も心もさらけ出して、何度も溶け合った。
そんな関係は気づけば数ヶ月も続き、私が小夜子さんと共に過ごした夜も何回目か分からなくなった頃。
急に胸に不安が去来する。
私がどんなに髪型や服装を近づけようとも私は女だ。
完璧に兄のようになれるわけではない。声だって違う。体つきも、身長も、手の大きさだって違う。
小夜子さんにとって私はきちんと兄の代わりになれているのか。
そこのところを小夜子さんがどう折り合いをつけているのかは謎のままだった。
彼女は私たちの関係について口にすることはないからだ。
ただ、二人で会えば自然と求め合う。そんな関係。
私も小夜子さんと結ばれたことが嬉しくて、そのことはあまり深く考えないようにしていた。
彼女を抱く時、最初の頃は兄の名前で私を呼んでいたのに最近では名前を出さなくなった。
かと言って二人きりの夜に私の名前を呼んでくれるわけではない。
遠くない未来に私は必要ではなくなるかもしれないと、私は思うようになっていた。
不毛な夜を重ねる度に、小夜子さんも兄の死を現実のものとして受け入れ始めたのかもしれない。
時間が過ぎれば過ぎるほど、彼女は冷静さを取り戻す。
いずれ私が付けた兄の仮面も剥がれ落ちる。
気づけば、ハロウィンもクリスマスもお正月も、バレンタインも流れるように消え去った。
季節のイベントは家族としてやり過ごしながら、体だけとも言える関係も並行していた。
お互い、不毛と分かっていてもやめられない。きっと私は小夜子さんから捨てられるまで、この関係にすがるのだろう。
それが一変したのはまだ肌寒さが残る三月だった。
「ねぇ
小夜子さんは突然そんなことを言い出した。
「遠出、ですか?」
「うん。海を見たり温泉に行ってみたいなって。買い物したり観光したり」
今までそんなことを言うことはなかった。小夜子さんもそろそろ目新しいことをしたいという意欲が出てきたようだった。
「そうですか。それじゃ桜の咲く頃にどこか一緒に行きましょうか。お花見にでもします?」
「ううん、来月じゃなくてもっと先がいいな」
「夏、ですか?」
小夜子さんはそっと私の手に触れてきた。目を逸らせないほどに真っ直ぐに見つめられる。
あまりの不意打ちに私は
小夜子さんは夜以外に決して私に触れない。
「ねぇ、真衣ちゃん何で髪を切ったの?」
「え、髪ですか?」
何故今更そんなことを、と聞き返したくなった。
私が短くしたのは一年半以上前だ。
「⋯⋯気分転換ですよ。短い方が手入れも楽ですし」
「もう、伸ばさないの?」
「⋯⋯⋯」
「出来れば前みたいに髪が長い真衣ちゃんと遠出したいんだけど?」
「髪が長くないとダメなんですか?」
遠出するのに私の髪の長さなどどうでもよいではないか。
「うん。ダメ」
「⋯⋯伸ばしてもいいんですか?」
「ええ。もちろん。でもどうして?」
どうして、とは私の方が聞きたい。
長くしたら兄さんの面影からは遠ざかってしまうのに。
「⋯⋯小夜子さんは短い方が好きなのかなって⋯⋯」
「そんなことないよ。あとできれば、服装変えて欲しいの」
「服装も⋯⋯ですか?」
「真衣ちゃん、前はもっと女の子らしい格好してたでしょ?」
「⋯そうでしたっけ?」
もしかして小夜子さんは兄と兄に成り代わろうとした私と決別しようとしているのだろうか。
それなら私が兄に近い姿でいる必要などない。
ついにその日が来てしまったのかもしれない。
「突然だけど真衣ちゃん、もし私に誰か好きな人ができたら悲しい?」
「⋯⋯!?」
「悲しい? 寂しい? 新一郎さんへの裏切りだと思う?」
やはり私の予想は間違ってはいなかったようだ。
私がいつまでも兄の代わりとして側にいられるわけがなかった。私の知らないとこほで小夜子さんは兄への気持ちに整理をつけて、新しい人を見つけたのだろう。
そうなれば私はいらない存在だ。
小夜子さんも私も女で、小夜子さんにとって所詮私は亡くなった兄の代わり。
夜に何度肌を重ねても、それはちょっとした慰みでしかなかった。
「⋯⋯兄さんは小夜子さんが幸せなら喜ぶと思いますけど。好きな人がいたんですね⋯⋯。あんなに傍にいたのに気づきませんでした」
私は小夜子さんに触れられる喜びのあまり、彼女の些細な変化を見落とした。
「うん」
「全然分かりませんでした」
「そう?」
小夜子さんは白く細い指を私の顔に這わせた。
夜にしか見せない妖艶な笑みを浮かべている。
何度も私を虜にした愛する人のこの面差し。できることなら永遠に私だけを見ていて欲しかった。たとえ兄の偽物だとしても。
「そうね。言ってなかったから」
「⋯⋯⋯」
聞きたくないと私の全身が拒否を起こす。
けれど逃げることもできない。覚悟するべき時が来たのだ。
「私から真衣ちゃんが好きって言ってなかったね。だって新一郎さんの代わりにしておいて言えないでしょ。好きです、なんて。私、新一郎さんが好きすぎて、似ている真衣ちゃんのことも好きだと錯覚してると思ってた。でも最近ね、真衣ちゃんに抱かれる度に何で新一郎さんみたいに振る舞うんだろ、前の真衣ちゃんに戻って私を愛して欲しいって思ってた」
「小夜子さん⋯⋯」
「変よね。変なのかも。私、お義母さまに『好きな人ができたら新一郎のこと気にしないで一緒になってもいいのよ』って言われて、真衣ちゃんしか浮かばなかったの。もし再婚するなら真衣ちゃんがいいって。女同士だし、真衣ちゃんは義妹だから再婚はできないけれどね⋯⋯」
「あの、小夜子さん、えっと⋯⋯」
思わぬ言葉に、私の心臓はどくんどくんと速く強く脈打つ。
頭がくらくらして、現実感から遠ざかっている。
これは期待してもいいのか。
私は私として小夜子さんを愛してもいいのだろうか。
それともこれは現実を受け入れたくない私が見ている幻だろうか。
私は混乱してただ小夜子さんを見つめることしか出来なかった。
「真衣ちゃんは私のことが好きだよね? 好きじゃなければあんなことはしないでしょ? 新一郎さんといる時も私のことを見てたよね。自惚れかな。何で真衣ちゃん私のことを抱いたの?」
もう私は我慢できなかった。
今私はベッドの上で兄を演じているわけではなかったけど、小夜子さんを抱き寄せた。
「そんなの⋯⋯、そんなの小夜子さんのことが好きだからに決まってるじゃないですか!! 小夜子さんの言う通りずっと好きだったから⋯⋯、兄さんの代わりでもいいから小夜子さんに愛されたいって思ったから!!」
「思ったから、新一郎さんみたいにしてたのね。でも良かった。ちゃんと真衣ちゃんとして好きって言ってくれて。ベッドの上で好きって言われても、あれは私を慰めるために新一郎さんとして言ってるのだと思ってたから⋯⋯」
小夜子さんも私の背中に腕を回して体を寄せる。
「ねぇ、キスしてもいい?」
「兄さんじゃなくて私に、ですよね?」
「もちろん。真衣ちゃんに」
私はやっと代わりではなく自分として、私として小夜子さんに唇を重ねた。
キスが甘くてこんなにも幸せな気分になれるものだと私は初めて分かったような気がした。
もし兄さんが私たちを見ていたらどう思うのだろう。
妹と妻が一辺に幸せになれるなら喜んでくれるのだろうか。
それとも妻に手を出した妹と、妹を好きなった妻を怒るだろうか。
兄がもうこの世にいない以上、確かめる術はない。
でも私のことも小夜子さんのことも大事にしていてくれた兄さんのことだ。
きっと祝福してくれるはず。
この誰にも言えない秘密の恋を。
街が再び秋色になる頃、私は小夜子さんと旅行へ出かけた。
兄のようになろうとしていた私も、私を兄の代わりとして見る小夜子さんもそこにいなかった。
「真衣ちゃん、こっち! すごいよ! 紅葉が向こうまで広がってる!」
橋の上から赤や黄色に染まった木々や山を眺める。
子供のように無邪気にはしゃぐ小夜子さんが可愛らしかった。
「すごい綺麗ですね。写真撮りましょうか?」
「いいね。どうせだから二人で自撮りしよう。入るかな?」
「上手く写るといいんですけど⋯⋯」
「でも真衣ちゃんと一緒に撮れたら紅葉は写ってなくてもいいや」
「え〜せっかくいい場所見つけたのに何ですかそれ」
「紅葉より真衣ちゃんの方が好きってこと」
「⋯⋯そうですか」
ごく自然にそんなことをさらりと言えてしまう小夜子さんには敵わない。
気恥ずかしくて耳のあたりがすごく熱い。きっと紅葉みたいに赤くなっているかもしれない。
「真衣ちゃんって慣れてそうなのにうぶだよね。本当、そういうところ可愛くて好きだな」
「ありがとうございます。⋯⋯私も小夜子さんのこと好きですよ」
周りから人が去ったすきに私は呟いた。
「もっとおっきな声で言ってほしいなー」
「⋯⋯それじゃあ、後で言いますね」
「今がいいんだけどな」
私たちはけっこう楽しく恋人を謳歌していた。
この幸せがいつまで続くかは分からない。
でも小夜子さんが私を好きでいてくれる間は全力でこの人を愛そう。
私はもう誰の代わりでもないのだから。
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